英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

私の悪意のいくところ

 

あなたの好きな人のファンが嫌いだから、あなたの好きな人のことも好きになれない

と面と向かって言われたことはあるだろうか。

私はある。今までに二度。どちらも言いようのない脱力感に包まれて、適当に笑ったような気がする。あなたの好きな人のファンが嫌い。だからあなたの好きな人も好きじゃない。それは私にはどうしようもないことで、究極的には私の好きな人にもどうしようもないことでもあって、けれど私の好きな人をそれで嫌いになってしまう人がいるのもたしかに仕方なくて、だから「ああまたか」と脱力することくらいしかできない。
残念ながらこの世には、関係ない他人から見たら明らかに様子のおかしいファンがたくさんいる。私の好きな人はその数が特別多いけれど、もっと多くのおかしなファンを抱えている人もいるし、数が少なくてもどんな人にでもやばいファンはいる。多分、"ファン"というものが存在するすべての人に、程度の差はあれ有害なファンがいる。


自分の好きな人だけを褒め、その人の周りの人をけなし、時に事実と異なる主張さえまき散らす人々。自分の好きな人のために、現状がどんなにひどく彼/彼女がどれだけ実力に見合わない冷遇を受けていて、本当はどういう扱いがされるべきなのか声高に主張し続ける人。「誰かのファン」の名札をつけて他者に石を投げることが自分の好きな人のためになることなど決してないことが永遠に理解できない人。
お願いだから辞めてくれとか、せめて完全に身内にしか見えないところで愚痴を吐き出すだけにしてくれとか、そういう要求にはきっと意味がない。なぜならこういうファンにとっては自分は真実を訴えているだけで、世の中の善良な人々に、この一大事に気づいていない人々に好きな人の"窮状"を訴えることも目的で、陰でこっそりやる必要も意味もないからだ。聞いてほしい、気づいてほしい、わかってほしい、この人のすばらしさを!世の中のおかしさに!私たちが気づいている真実を!

多分、ここで何を書いたって伝わらないんだけど。
他人の人格に口を出したって意味なんかないんだけど。
わかってくれよ頼むから、って最近思う。

 

■脳は事実が好き
彼氏持ちの女性を口説くときは彼氏をけなすな、過剰に褒めろ。
という言説を聞いたことがあるだろうか。彼氏をけなすと女性が「そんなにひどい人じゃない、だって彼は~~」となり、逆に過剰に褒められると「そこまでの人じゃない、だって彼は~~」となる。けなすとむしろ彼の良いところを思い出させてしまうが、逆に過剰に褒めると彼氏への不満を想起させることができる、というちょっとしたテクニックだ。現実にはこんなに単純に物事が運ぶことはないだろうが、人間の反応を単純化した説明としては一定の説得力があると思う。

人は事実に反することを見聞きすると、「事実」を思い浮かべる。

私たちは常日頃林檎を思い浮かべながら生きたりはしないし、林檎という単語をみたときに思い浮かべる概念もさまざまに異なる。だけど「林檎なんか赤くない。あんな色を赤とは呼ばない」と言われたら多くの人は「え、林檎は赤いぞ?」とその赤さを思い浮かべる。

「Aくんは絶対にバラエティで他人を弄って笑いを取ろうとしない、自虐で笑いを取るのが本当にバラエティをわかっている人。他人を弄るBくんは内心人を見下しているしバラエティが下手。テレビに出る器じゃない」というツイートを見かければ「Aくんって弄る側に回ることほんとにないっけ?」「Bくんの弄り方ってそんなに性格悪そうかあ?」と思う。
「Aくんだけが圧倒的に歌がうまくて他6人はプロのレベルではない。聴く人が聴けば一人だけレベルが違うのはすぐわかる」と喚く人を見れば「いうほど圧倒的な差なんてあるか?」と思う。(大体ない)


よく知らないけどなんとなく知っている人について事実と異なる主張をみたら「それ違くない?」と人は思う。自分が知る事実を思い浮かべる。
そこで思い浮かべる事実は本来ただの事実であって、そこにはっきりした価値判断は別にない。よく知らないものにいいも悪いもないからだ。(その人固有の性格として、特に興味の対象ではないものに対するデフォルト感情が肯定的な人と否定的な人の差はあるけれど)
しかし実際には、目にするのが「過剰に褒めている」ように感じられるものだと、それを見た人が思い浮かべるのは「そんなにすごくはないんじゃないか」「そこまで素晴らしくはないよなあ」になる。Aくんを嫌いなわけではないはずの人に、結果として「Aくんてそんなにすごくない」というネガティブイメージを想起させることに成功し、それを繰り返せばネガティブイメージを植え付けることにもなりかねない。ただAくんを褒めるだけではなく誰かの悪口も添えておくと「それ違くない?」度は上がり効果は増す。私たちは基本的に敵意や悪意に敏感な生き物だ。普通の人は悪意に満ちた発言を見た時、発言の対象よりむしろ発言者へと疑いを抱く。Aくんのファンとして他者への悪意を放つことは、たとえAくんへの愛とセットの発言であろうと、いやむしろ愛とセットであればあるほど、AくんのファンとしてAくんを盛り立てることに一役買うどころか、むしろ足を引っ張ることになるのである。

 


■私は彼が好き、という名札
よく知らないけどなんとなく知ってる人についての事実と異なるっぽい発言を見たとき、人は自然と「そんなに悪い奴じゃない気がするけどなあ」とか「そんなにすごい奴じゃない気がするけどなあ」と思う。
では、言われている対象がよく知っている人だったらどうだろう。よく知っている好きな人だったら?私にとって一番大好きな人だったら?
答えは簡単で、人は脳内でさらに強く反論する。そんなことはない。Bくんはこうだ。Aくんはあの時こう言ったことがある。Aくんが最高でBくんが最低なんて、そんなことはない。

自担の隣にいる人が私の自担ではないのは、何かが、どこかが、私にとって自担に劣るからだ。顔かもしれない、性格かもしれない、あるいは単に出会ったタイミングかもしれない。とにかく何かが私にとって私の自担以下だから担当にならなかった。好きの度合いが100と99でそこに1の差しかなくても、それでも私にとってはBくんの方が上だ。
だから私は理不尽にBくんを貶されたと感じたら「そんなことはない」と思うしその「そんなことない」には私の中ではちゃんと理由がある。
そして私はBくんが大好きだから、Bくんに対する悪意や敵意を感じたら敏感に反応するし、敏感に反論を思い浮かべる。よく知らないけどなんとなく知ってる人よりずっと素早く、ずっと些細な点にも、ずっと強く。何度も何度もそれを繰り返せば、いつか私の中にAくんへの反感が降り積もって、それは忌避感へと変質するかもしれない。
Aくんのあまり喋らないところ、BくんがAくんにじゃれつくところ、それをAくんがめんどくさそうにあしらうところ、AくんとBくんの歌声が生み出すハーモニー。そういうすべてのものに倦んでいく。大好きなBくんを貶されたくないから、大好きなBくんを愛してくれない人の目にBくんがつく機会が嫌だから。Aくんが、嫌だから。

好きな人の好きなものは知りたいと思うし、嫌いな人の好きなものはなんとなく嫌いだ。多分これって特別なことじゃなくてわりとみんなそんなもんで、人は自分のことを嫌いな人のことを簡単に嫌いになる。自分の好きなものを嫌いな人のことも簡単に嫌いになってしまう。そして人は、自分や自分の好きなものに向けられた悪意、敵意、蔑みを、興味がないものに向けられたそれよりずっと過敏に感じ取る。
なにかに向けて悪意を、敵意を発するというのはそういうことだ。嫌うということは、嫌い返される可能性を大いに孕んだ行為だ。
インターネットの中ですれ違う私たちは、互いの顔も名前も知らない。目に見える個人の属性情報は現実とは比べ物にならないくらい少ない。その中で「この人のファンです」という名札はとてもよく目立つ。その人が日頃からAくんへの愛を語り、Aくんの素晴らしさを説き、Aくんを好きでいればいるほど、その人が発する敵意はどんどんAくんにも返っていく。Aくんを好きであればあるだけ、Aくんへの愛を語れば語るだけ、その名札はどんどん鮮烈に輝いて、放つ悪意はぐんぐんAくんへと返っていく。
現実世界の私はとある県出身で、とある高校卒業で、とある大学卒業で、とある企業に勤めていて、その他にもたくさんの属性で構成されている。現実世界の私が何かや誰かと敵対すれば、相手からの敵意はこれら様々なものに向かっていくがインターネットでは違う。私が放つ不当な悪意は、現実世界よりずっと単純で少ない名札の元に、私の好きな人のところに、真っ直ぐ帰ってくるだけだ。

 

■瞳に映る真実を
私の好きな人のことを好きな人が放った不当な敵意が、私の好きな人のところに帰ってくる。見る度虚しいし本当は悔しいけれど、何を言っても無駄なんだろうなとも思ってしまう。だって私は知っている。私の好きな人の過激なファンも、他の誰かの行き過ぎたファンも、およそこの世の"有害"なファンほとんどみんな、自分の発言を不当な誹謗中傷だなんて思ってやしないのだ。
人は自分の見たいようにものを見るし、そういう風に見ていることに気づきさえしない。私の好きな人は不当な扱いを受けているし、本当に素晴らしいのは私の好きな人だけだし、本当のあるべき在り方はこうじゃない。彼ら彼女らの中ではそれこそが真実で、むしろ自分たちこそが被害者で、反論してくる人が本当の加害者だ。だから何の照れも恥じらいもなく、堂々と「この人のファンです」と名札をつけたまま他者を罵ることができるのだ。
好きという気持ちがどれだけ私たちの目を歪ませるか、どれだけ私たちを寛大にするか、そんなに分からないものなのだろうかと思うけれど、きっと分からないものなのだろう。「好き」と「優れている」は違う。私の好きなものが必ずしも優れているわけではないし、他の何かを好きな人だって優れているからというだけでそれを好きなわけじゃない。でも一方で「好き」と「すごい」は、「好き」と「こんなのこの人だけ」はとても近いところにあって、どれがどっちなのかは簡単に分からなくなる。

「好きを語ってるだけなのに攻撃される」「自分の望みを公言しているだけなのにどうして反対されるの」「私たちの方がずっと攻撃されている」
本当に?と思うけれど、決して嘘をついているわけではないのだと思う。愛とセットで語っている分、自分の中での真実であることもそこに不当な誹謗中傷が含まれていることも見失いやすいのだろう。

 

■自由に伴うもの、それは
人間の中には、もう生得的というのに近いレベルで「知らないものに否定的」「好きじゃないものへの第一印象がネガティブ」「何かへのデフォルト評価が批判」という人がいる。とても具体的には、私の母と妹がそうである。好きや嫌いを抱くほど知らなそうな芸能人にもまずは批判的だし、相手がそれを好きだと知っていても特段の躊躇なくそれを貶す。そしてこういう人はえてして自分が好きなものを貶されるのにはとても敏感だ。それなのに何故かどうしても、他のもの/人にもそれを好きな人がいて、それを貶されたらあなたがそうであるように憤ったり悲しんだりするということが分からないらしい。

そういう人がとても身近にいるから、そういうものだという緩やかな諦めはある。それでも「Aくんのファン以外の方には不快な内容です」「Aくん以外の2人も好きな方は話が合いませんのでお引き取りください」みたいなbioやツイートを見ると「いや、分かってるんじゃん」と思う。
この人についてこう書いたらこの人を好きな人が見て不快だろう、という自覚ができるなら、どうしてそこで踏みとどまれないのだろう。不快に思うだろうがこれは真実だから、と考えているのだろうか。Bくんなんか大嫌いだから、Bくんを好きな人なんかどうでもいいと思うのだろうか。「嫌なら見るな」「私たちは棲み分けしている」という言葉もよく目にする。本当に?鍵なし公開アカウントで綴るその悪意は、「嫌なら見るな」のレベルに本当に収まっているだろうか?

「インターネットは自由」という言葉はその通りだ。そして、自由や権利には責任と義務が伴う。自由に発言すれば、それが聞こえた誰かから自由に反応が返ってくる。悪意や敵意には放った以上の悪意や敵意が返ってくることもある。「嫌だ」と言ってくれるならまだいい。たとえばAくんと同じグループの人を貶すなら、ファン同士の小競り合いが起きて憎しみあって低いところで安定できるかもしれない。
でも、インターネットに書き込む以上、可能性は低くても誰に見られたっておかしくない。自分の放つ敵意が、侮蔑が、中傷が、世界のどこにいたって見られるものであること。私たちは受け取り手を選べないということ、それを分かっているのだろうか。誰かの視界にその敵意が滑り込んだら、それはきっとつけている名札の元へといつか帰るのに。どこに届くかも、誰から返ってくるかも分からない敵意について「そんなもののファンになら嫌われても構わない」と言えるだろうか?

これはもう、覚悟の話だ。法に触れない範囲なら、確かにインターネットはどんな話でもしていい場所かもしれない。でもそれは、どんな発言をしても何の報いもないということとは決して違う。報いはある、必ず、自分と自分の好きな人の両方に。
覚悟はあるだろうか?自分の言動で、自分の好きな人を嫌わせる覚悟。

 


■私の悪意のいきつくところ
悪意や敵意を剥き出しにして主張をすることにはほとんどの場合意味がない。意味がないどころか不利益につながることの方が多い。そしてその不利益を被るのはやばいファンだけではなくタレント本人もだ。むしろ、タレント本人に及ぶ害の方がずっと多いだろう。
わかってほしいと思う一方で、たぶんどんなに説いても意味がないんだろうなとも思う。それでもこれを書いたのは、そういう過激なファンと同じ人を好きな人間である私がこれを発信することに少しでも意味があるような気がしたからだ。

誰にも嫌われず全ての人に愛される人間なんてこの世に存在しない。私の好きな人のことを好きにならない人も当然いる。でも、私の好きな人が誰かに嫌われるなら、それは私の好きな人自身の咎ゆえであってほしい。私の好きな人が嫌われるのは、私の好きな人自身のせいであってほしい。
こんなやるせないことを、あと何回思えばいいのだろう。こんな虚しいことを、この人を好きでいる限り思い続けるのだろうか。

私たちは他人の人生に、他人の生き方に口出しできない。辞めさせる権利は、同じくただのファンである限りもちろんない。覚悟、と言ったけれど、これは当然全ての人に通じる話だ。好きな人に向けられる敵意に激昂して牙を剥けば、相手も多くの場合「不当な悪意を向けられた」と認識する。人は往々にして自分がかざした言葉の刃に無頓着で、他人に付けられたかすり傷に厳しい。
だからきっと、意味はない。声を張り上げたって伝わらないし、辞めてくれることも、そっと離れてくれることも、あるいはどこかに閉じ篭ってくれることもないのだろう。だからせめて、覚えていようと思う。私の悪意は必ず帰る。私と私の好きな人のところに。全ての人に愛されるなんて不可能なことだから、私を嫌いな人も絶対にいる。私のことが嫌いなせいで私の好きな人を嫌う人だっているだろう。それでもせめて、この名札をつけたまま他者に敵意を向けることのないようにしたい。好きな人が嫌われたのが好きな人自身のせいだったらよかったのになんて、そんな虚しいことを誰かに思わせることがなるべくないように。だって私には覚悟なんてない。私の好きな人を嫌わせる覚悟も、誰かにこの虚しさを背負わせる覚悟も、きっとずっとないから。