英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

私の形/男みたいな女になりたかった

 

1年伸ばした髪を切った。伸ばしていたのはインナーカラーがやりたかったからだ。元々ベリーショートだった私の髪にはインナーなるものがなくて、「インナーカラーとかグラデカラーとかやりたいけどインナーも毛先もない」と友達に言って笑われたりしていた。

念願のインナーカラーは可愛くて、やってよかったと思う。髪の長さの方は元がとても短かったのを時々切り揃えながら伸ばしていたせいかせいぜい長めのボブ程度だったが、でももう男性には見えなかった。

 

いや、そもそも、髪が短くても今の私はもう男性には見えない。服装も顔も声も体形も、私の全ては女性のそれだ。

 

 

女と人間/女になったらおいしくなくなった

垢抜けたら人生おいしくなくなった話というブログを一昨年書いた。とても切実な私の気持ちだった。今もほぼ変わらない気持ちで生きている。

 

私は「女未満の変なやつ」「ほぼ男みたいなもの」として男の子の中に紛れて生きた時間が長く、その自覚もはっきりあった。そして、こちらは半ば無自覚だったけど、女未満の生き物であることは私にとって、女としての価値がマイナスの存在であることと表裏一体で人間としてプラスの価値を持てていることを意味してもいた。だって女じゃないけどちゃんと友達いたし、女子のカースト外だったけどコミュニティの一員ではあった。可愛くない、ブスな、気の強い自分。女じゃない自分。それでも、そのマイナスを補える何かが、「コミュニティに入れてやってもいい」と思わせる何か――それは多分、人間性とか能力とかそういう名前をしていた――が自分にはあるのだと無自覚に信じられていた。

 

垢抜けていった結果「女のあなた」として評価されるようになった分だけ、自分自身が何の疑いもなく信じていた「自分の価値」が減っていくように、認められなくなっていくように感じた。「ちゃんとした女じゃなくても、それでもここにいられてる」と思っていたのに、「若い女の子だからここにいられてる」と明に暗に囁かれる。

だからつらかった。今もつらい。

賢さで、猛々しさで、度胸で戦えているつもりだった。可愛さを武器になんかしたくないのに、しているつもりじゃないのに「若さで得してていいね」「可愛さで気に入られていいね」と言われるのは今もとてつもなくいやだ。

 

自分が信じていた自分の価値が認められないのだから当然つらい。でも、いつまで経ってもこれほどつらいのは、仕事以外の場所でもつらいのは、それだけではないのかもしれない。もちろん、若い女だからと侮られるように感じることもつらいし憤りを感じる。けれど一番根っこのつらさは、自分が信じている自分の姿が他者にはそう見てもらえなくなってしまったことなのかもしれない。

 

 

私だった形

今の私は男性には見えない。初対面の私を見て男と間違える人はもうほとんどいない。ほとんどというか、ここ数年その経験はまったくない。ぱっと見男に見える名前なので、メールのみでやり取りしていた仕事相手に会った際に「男性かと思っていました」と言われることが稀にあるくらいだ。

 

随分昔の話をすると、小学校中学校の頃は男に間違えられる方がむしろ当たり前だった。名前も見た目も服装も男の子のようだったので、新学期最初の出席確認で名簿を見て「どっちだろう?」という表情を浮かべた教師が、私の顔を確認してから「○○くん」と間違えてくん付けで私を呼ぶことはそれほど珍しくなかった。

当たり前だと思っていたので全然嫌ではなかった。字が汚かったので名前を書き忘れたプリントを見た教師が「誰のだろう、たぶん男子だけど・・・」と言ったプリントが自分のものであった時も、男みたいなものだからと体重を言わされたときも、女の子を家まで送っていってあげた時も。言葉遣いも男の子と変わらなくて、小学校高学年になる頃には一人称は俺になっていた。男みたいだね、と言われるのはいつも、嫌ではないどころかなんならちょっと嬉しいくらいだった。人を混乱させて遊ぶ双子みたいな気持ちだったような気がする。

 

中学も高校も、許される限り最大限の時間制服ではなくジャージを着て過ごした。

「足を開いて座るな」「俺って言うな」「言葉遣いを直せ」とあきらめ混じりにお小言を言う先生はいたけれど、でも概ね「お前はそういうやつだもんな」という扱いを受けていた。女子グループには入ってなくて、予備校が同じ男の子たちが一番の仲良し。高校卒業の時の卒業旅行も彼らと行った。男5、女1で、3人部屋2つに泊まった。

男みたい、女じゃない、と言われるのは当然のことのように感じたし、時折ふざけて「本当は男と女どっちが好きなの?」ときかれることにも不快感はなかった。だってそりゃあそうだ、私は女の子には見えない、女の子にはカウントされない。恋愛対象はずっと男の子だったけど、自分が男と恋愛するのは自分で考えても不自然だった。

 

 

私を映せる形

中学2年生くらいからBLを読むようになった。今はもうあの頃ほどは読まないけれど、普通のBL小説も読んでいたし二次創作にもはまっていた。当時流行っていた色々なジャンル(マフィアのやつとか擬人化のやつとか野球のやつとか)の中にいくつか好きなカップリングがあった。

私が好きなのは男らしいキャラクターが受け(所謂”女役”)のものばかりだった。「女みたいに細い」「女より可愛い」と受けが褒められるようなBLにはほとんど心惹かれなかった。

 

当時もそうだったし今もおそらくそうだと思うのだが、基本的に腐女子というのは自分の――自分自身がそれをしたいという意味での――理想をBLの中に見ているわけではない(ことが多い)(と思う)。もちろんそういう人もいるし、自分が書いたBLについて「これは私の恋人との実体験です~」と言うタイプの人もいる。けれども原則としては「私たちはBLの受けに自己投影しているのではない、推しCP(カップリング)を傍観していたいのだ」という声の方が大きいように思う。

 

私自身はどうだったかというと、好きなキャラ2人の恋愛を傍観する立場として愛好する気持ちと同時に、自分の理想としてBLの恋愛を眺める気持ちが確実にあった。

まあそもそもの話、一人称が俺で、言葉遣いが男で見た目も振舞いも男で、そして恋愛対象が男だったので、理想の恋愛の自己投影として少女漫画よりBLの方が適していたのは当たり前のことかもしれない。少女漫画に出てくるちょっと強気な女の子よりも、BLに出てくる普通の男の子の方がずっと自分に近く感じられた。

中学でも高校でも好きな人はいたけれど、どちらとの関係もほとんど男同士の友達と言ってよかった。その人と付き合うとかそういうことをうまく想像することはできなかったけど、何かの理想が叶うとして、それが「自分が少女漫画の女の子みたいになる」ではないのは確実だった。あの頃からずっと、思い浮かべる「恋愛する自分」はいつも現実の自分のままだ。

自分のまま、男みたいな見た目で、男みたいな喋り方で、女じゃない生き物として扱われる自分で、そのまま愛されたかった。だから、少女漫画じゃなくてBLの方がずっと理想にしやすかった。

 

単にキャラ造形が(男女の恋愛ものよりは相対的に)自分に近いという以外にも理想をBLに求める理由はあった。

もう一つ、BLの「理想的」だったところ。

15年前、たいていのBLは、少なくともどちらか、多くの場合双方が「偶然同性を好きになった異性愛者の男の子」として描かれていた。(今もそんなに大きく変わらないかもしれないが)

「本当は女の子が好きなはずなのに」「友達として好きでいてくれる相手に恋愛感情を抱いてしまうなんて裏切りだ」「あいつは男の俺を好きにならない」「相手が友情ゆえにくれる優しさがつらい」、物語の中のそういう葛藤に、私の気持ちはすごく乗せやすかった。

普通に女の子が好きな人にとって自分は恋愛対象ではない。自分は普通の女の子ではない。男を好きになるのはおかしい、でも自分の恋愛対象は男だ。好きになってもらえない、好きだとばれたら気持ち悪がられる、そういう気持ち。

ほとんどのBLに組み込まれている「自分の恋愛感情は相手にとっておかしいし迷惑だ」という感情の描写も、私にとって「自分を映せる形」としてBLが機能した大きな理由だった。

 

 

(※この「自分に好きになられるのは相手にとって迷惑だ」という感覚、BLにはわりと頻出するし恋愛の主体としての自分に自己肯定感がない人間にとっては共感しやすくもあるんだけど、10年以上前だから「男同士の恋愛は社会的に称揚されない」という認識に基づくつらさに考えなしに乗っかれたのであって、2020年の今「恋愛不適合者としてのつらさ」と「同性を好きになるつらさ」を安易にオーバーラップさせるのは不適切だと思う。同性との恋愛がつらいのは自明ではないし、非当事者が舞台装置としてそのつらさを使用するのは不誠実だ。)

(※私が恋愛に向いていないのは女らしさに欠けること以外にも理由があるので、なおさら自分のつらさを「男同士だからつらい」という物語に投影するのは不誠実だと思うというのもある)

(※恋愛対象がどういう性別・どういう人であるかと、自分の性別が何なのかはイコールではない。この頃の私にちゃんと区別がついていなかっただけ。)

 

 

ハローワールド

昔の私はダサくて、かっこ悪くて、そして男のようだった。男のようであることとダサいことは近いけれど違う。中学、高校と長じていくにつれ、自分の見た目がダメであることの自覚は強くなっていった。私は自分の容姿が全然好きではなかった。今も別に好きではないけれど、あの頃の方がもっと嫌いだった。ブスでダサくて、私の見た目は全く私のコントロール下になかったから。

かといって何か努力をするわけでもなかった。努力しなかったというよりできなかったという方が正しい。

中学生の私は、恥ずかしくてすね毛が剃れなかった。すね毛が生えていることそのものへの恥ずかしさを、それを剃ることで「こいつがすね毛を気にしている」と思われるんじゃないかという恥ずかしさが上回った。「こんな自分なのに」と思うことはそのほかにもあった。たとえば眉毛を整えること。体重を気にすること。ダサい自分が嫌だけど、女の子らしくなろうとする自分を他人に見られるのはそれよりもっと恥ずかしかった。だって女未満の自分がそんなことするのはおかしいし、笑われる気がした。

 

ダサいままで大学生になった。私と同じくらいダサい人も男女問わずいたし、私と全然違う垢抜けた人も男女問わずいた。

垢抜けていない子が好きな変な男に好きになられたり、バイトを始めて好きに使えるお金が増えたり、裸眼からコンタクトに変えて(純粋に物理的に)視界が広がったり、そういう色々を経て、ある日とうとう「このままじゃいやだ」という気持ちが「自分が女の子らしくなろうとするのはおかしい、笑われる」という抵抗を上回った。唐突にピアスホールをあけて髪を染めた私はすとんと垢抜けた。今にして思えばそれほど大々的な変化ではなかったかもしれないけど、その最初の「ほんの少し」は本人にとってはとても大きい。

眉を整え、髪を綺麗にして、肌をきれいにして――欠点を少しずつ直したり隠したりしてゆくのは結構楽しい。

だって私、ブスでダサい自分のこと、別に全然好きじゃなかった。当たり前だけど、不細工のままでいたいと思ったことも、ダサいままでいたいと思ったことも別になかった。「見た目を整えたい」と「女らしくなりたい」は違う。自分をもっとよくしたい、という気持ちは本当はずっとずっと私の中にあった。

変われるものなら変わりたかった。だから変わろうとした。自分の中の自分が嫌いな要素を減らしていけるのは楽しいし達成感もある。今もメイクは全然嫌いじゃない。

 

「見た目を整えること」と「女らしくなろうとすること」は違うけど、一方で自分にできる「整える」は女の子に近づくこととほぼ同義だったのも事実だ。髪を、眉を、服を、肌を……そうやっていたら、あっという間に私は女の子にしか見えない女の子になった。私はいつの間にか、ちょっとキツい顔立ちのどこにでもいそうな芋っぽい女子大生になっていた。女の子になれないなんて、そんなことは全然なかった。ない、ないのだ。

私は女の子未満の何かではない。女になれない何かではない。もし中身が少々変わっていたとしても、360°どこから見ても女だ。ちょっと変わった女ではあるのかもしれない。でも女だ。なれないと思っていたものに、あっさり辿りついた。

 

 

愛されたい愛されない愛されてる愛して

1ヶ月ほど前まで恋人がいた。ごく普通の(というかめっちゃ真っ当で善良な)男の人で、知り合ってから付き合うまで1年、付き合ってからお別れするまで1年半と少し。合コンやマッチングアプリなどで出会ったわけではなく元々友達だった人だから、彼は私がどういう人間かをそれなりに知っていた。気が強いことも口が悪いこともすぐわけわかんない髪色にすることも知った上で私を選んだ。

そして彼は、「気が強くて口が悪くて怖いけど本当はかわいい私」のことがすごく好きだった。

 

ずっと恋がしたかった。愛したくて愛されたくてたまらなかった。「普通の女」になってからは顔も身体も性格も恋人ができない決定的な理由になるほどの欠点は見つからなくて、でもできなくて、だからなんだかよくわからないけど何かが駄目なんだと悩んでいた。何が駄目なのか教えてほしくて、喉から手が出るほど愛されたくて、そして自分を愛してくれる人に出会った。

本当は可愛いよ、本当は可愛いって俺は知ってるよ、と彼氏はよく言っていた。それは少なくとも私を貶す意図は絶対にない。嘘をついてもいないだろう。彼氏は私を可愛いと思っていた。私のことが好きだったから。好きで愛しい存在が可愛く見えるのは老若男女共通の感情だ。ずっとずっと欲しかったものをようやく手に入れたはずだった。

 

でもきっと「本当」は、「可愛くない私の可愛くなさ」を誰かに可愛がってほしかった。だって私本当は女じゃない。女の子じゃないんだよ。違う、もう女の子だ、でも見た目が女の子になったからって中身まで変わるわけじゃない。私は変わり者で、でも何が?ちょっと変わってるところもあるかもしれないけど別に普通の範疇で、だったらもう私はただの普通の女の子でだから普通の人と同じように普通に愛されたくて、でもできなくて、やっとそれが叶って、叶ったのに。違う、違うよ、「実は可愛い私」なんていないよ、そんなの私じゃない。本当はかわいくないんだよ――本当に?

 

可愛くない私も本当の私だ。だって、私が私だと思っている私が私じゃなかったら、何が本当の私だっていうんだろう。

でも本当に?周りの人に見える私も私だ。だったら彼氏に見えていた私だって「本当」なんだろうか。彼氏が見て、知って、好きだと思ってくれた私だって立派に私なんじゃないか。私にとって私じゃなくても。でも、でもだって、でも。

 

(※ちなみに彼氏と別れたのはこれが原因ではない。性別がどうこうとはまた別の話として子供がどうとか結婚がどうとかいろいろあるのでそっちが理由)

(※しかしそちらの「女らしくなさ」もまた私が自分を恋愛に値しない存在だと感じる原因となっており、感情が混線しているのも確かである)

 

 

■私に見えてた私の形

大学生活のほとんどを恋人が居ないまま過ごしたこともあって、久々に会った大学の友人に彼氏が出来たと話したら「彼氏と過ごす姿が想像つかない」「お前が恋愛しているのが解釈違い」と言われたことがある。とても分かる。私もそう思うから。普通の男性と普通に恋愛する私は、私にとっても解釈違いだ。

 

男みたいであることは、女として恋愛する上では基本的にモテない要素でしかない。

一方で、男みたいであることはいじめられたり集団から弾き出されたりする理由にも大してならない。ボーイッシュであることは別にそれほど気持ち悪がられない。奇異の目で見られるのと気持ち悪がられるのは別の話で、男の見た目で男のようにしゃべり男のようにふるまう私はずっと変わり者ではあったが気持ちの悪いやつ扱いをされたことはほとんどなかった。

だからだ。男みたいであることは気持ち悪くない。こわくないし蔑まれもしない。だから私は小学生低学年の頃からずっと変わらず男みたいなまんまでいられた。そんな自分を「治した」方がいいんだとは思わずに生きられた。

ずっと「それでいい」って思ってた。

それでいい、違ってていい、ちゃんとしてなくていい。可愛くなくても、モテなくても、変でも、それでよかった。女未満の何かであることは、何者かであることと少し似ている。それでいいって思ってたいろいろな自分の要素こそ、私にとっては私だった。

容姿が劣ること、勉強ができること、気が強いこと、女に見えないこと、男みたいであること。周りとの差異全部がぐちゃぐちゃに絡まって私のアイデンティティになった。

 

そう、私は自分の女らしくなさを、男みたいであることを、女として駄目な点だと思うと同時に自分を自分たらしめてくれる重要な――特別な差異だと感じていた。

周りには自虐風自慢にしか見えなかったこともあったかもしれない。そんなことないよって言ってほしがっているようにしか見えなかったかもしれない。でも私は本当に、心の底から、お前なんか女じゃないよって言われるのが自分だと、それが自分の本質だと本気で信じていたのだ。

 

 

■どちらにしようかな天の神様のいう通りになんかしないけど

恋愛、できなくてもよかった。自分が思う女じゃない自分と恋愛したい気持ちがちぐはぐで、でもその2つが戦ったら勝つのはいつも自分の方だった。自分が男と恋愛したいのはおかしいと思って恥ずかしくてでも好きなものは好きで、少しずつそれも受け入れたつもりだった。その「受け入れる」はほとんど諦めでしかなかったけれど。

「そうである」ことと「それらしい」ことがもっと不可分に結びついていたら、自分は男なんじゃないかと思っていたかもしれない。心の性別が本当に女ではないのだと勘違いしていたかもしれない。でも違う。そうではないことを知っている。心が男なわけじゃない。女が好きなわけでもない。それでもただ自分がそうしていたいっていうだけでこのままの自分でいていいんだって、ちゃんと自分で自分を許して、取捨選択して、このまま、自分のままでいることにしたはずだった。それじゃ恋愛できないんだとしても。

 

恋愛、超したかった。でも要らなかった。

自分のことが好きだから自分のままで愛されたくてたまらなくて、でも自分じゃなくならなきゃ愛されないなら、だったら要らなかった。なくてもいい。自分じゃなくなるくらいなら一人でいる方がずっとましだ。今もそう思っている。今、今日この瞬間も心から。

 

「このまま」って何だろう。欲しいものがどれだけ遠ざかるとしても、他の何を諦めても捨てたくなかったこのままの自分。

今の私は女の顔と身体をして、女の服を着て、女の声でしゃべる。それは別に無理してるわけじゃなくて、ただ私がそういう人間だからそうしている。髪型も服装もメイクも自分で自分がしたいようにしているだけ。スカートを穿くのはスカートを穿きたいからでメイクをするのはメイクをしている自分の方が好きだからで、そんな私の「このまま」はもう、「女の子であること」でしかない。

頭ではわかっている。自分がもう女にしか見えない女であること。だから周りに女扱いされる、してもらえるようになったこと。でも心がついてこない。自分で変わった。自分で選んだ。それなのに何かが違うと思ってしまう。

 

 

■私の形

自分が裸で男に迫ったら気持ち悪いと言われる気がすること。自分を逞しいと思っていること。男が男を好きになるつらさに自分の恋愛のつらさを重ねたくなること。男として男に愛されたい気がすること。全部違う。全部間違ってる。

 

ただ自分のままで愛されたかったはずだった。

本気で思っていた。「自分のことが好きだから自分のままで愛されたくてたまらなくて、でも自分じゃなくならなきゃ愛されないなら、だったら要らない。なくてもいい。自分じゃなくなるくらいなら一人でいる方がずっとましだ」って、本当に本気で。

自分のままで愛されないなら一人でいいっていうのは、愛されないことを受け入れると同時に自分のままで愛されたい自分を受け入れることでもある。このまま自分のまま、男みたいなまま愛されたい。だってそれが自分だから。自分のことが好きだった。女じゃなくても、愛されなくても、みんなと違っていても、それでも好きだった。どんな不都合がついてくるんだとしても、それでも自分のままでいてやるからなって、ずっとずっと思い続けてきた。

変わり者ぶって、それで何者かになった気でいるのめちゃくちゃダサい。そんなの典型的などこにでもいる痛い奴で、それだってわかっているつもりで、だけどやっぱり私はそういう自分が好きだった。だからこのまま愛されたい。ちゃんと「治した」ら愛される確率が今の100倍になるとしても、それでもこのままで愛されたい。「このまま」の実態はとっくに失われているのに、取捨選択した覚悟と欲望が全然消えない。

いつの間にか決意と愛着がすり替わって、「男みたいなまま愛されたい」が理想になってしまった。でもその理想はもう叶わない。誰も私を愛してくれないからじゃない。私がもう男じゃないから。

 

ちゃんと女の子扱いされるのが気持ち悪い。自分のことを分かってもらえていないように感じてしまう。

でも逆だ。みんなは私のことをちゃんと分かっていて、私だけが私を分かっていない。

自分が思う自分の形と他人に見える自分の形がずれてしまった。そして間違っているのは、現実とずれているのは、私が思っている私の形の方だ。それが苦しい。私まだ少しくらいは変わってるかもしれない。ちゃんとした女の子には届いてないかもしれない。でももう覚悟していたほどの「女未満」では決してない。選んだつもりでいたものが、いつの間にかどこにもない。もうなくなってしまったのに愛着だけが一向に消えなくて、どうすれば今周りに見えている自分を自分だと思えるのか分からない。どうなれば自分の形を取り戻せるのか分からない。

 

 

どうなりたいのかよく分からないのに、なりたいようになれなかったことだけは分かる。男みたいな女になりたかった。鏡の中には、何の変哲もない女の子しかいない。