英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

私がNEWSと恋したら♡

 

ハッピーなことを考えたい。とよく思う。主に『○○したいジャニーズ▽選』みたいな記事を読んでくすくすした後とかに思う。最近小難しいことばかり考えていて疲れたような気もしないでもないし、たまには浮かれた妄想をしてみたかった。

 

というわけで、『私がNEWSと恋したら~湯坂バージョン~』いっくよー(*’ω’*)

 

 

  1. 相手はNEWSの4人
  2. 全員現実通りにジャニーズアイドル
  3. 恋をするのも現実通りの私(22歳女子大生)

 

 

・一人目。加藤シゲアキさん。

きっと出会いはライブハウスで私が加藤さんに自分のドリンクをぶちまけるとかそんな感じですね。その場は平謝りしてお詫びに彼にドリンク買って頭下げてわかれるのかな。そしてライブが始まってから気づく。ドリンクこぼしたのは私の方だから彼の手には2杯のドリンクがあるという事実に。ごめんなイケメン。と思って多分Twitterに呟いたりとかする。

しばらくして映画館で運命の再会を果たしたい。上映が終了してふと隣を見て「「あ、あの時の…」」ってなりたい。シゲのドリンクはジンジャーエールだよ☆そして今度こそちゃんとしたお詫びとして食事でもおごらせてほしい。多分私は内心(やべえシゲにめっちゃ似てるこの人!イケメン過ぎてもはやご飯の味わかんない。しかも名前加藤かよ!)ってなってる。

まあその後紆余曲折あって付き合うんでしょうね。シゲアキの目がよほど曇ってたか私が魔法を使えるようになったかって感じですね。

「あの時両手にドリンク持たされてさあ~俺ほんとどうしようかとさあ~」って末永くいじられたい。ことあるごとに「うるせえ高学歴!」「いやお前の方が学歴高ぇーんだけど(笑)」みたいなちょっと性格の悪いやり取りを繰り広げるカップルになりたい。あとシゲが小説書いてる背中をぼーっと眺めるだけのデート(?)がしたい。

とりあえずもうね、シゲと付き合う一番のメリットは何ですかって言ったら『プライベートのシゲが見れる』一択じゃないですかそんなの。絶対めっちゃかっこいいじゃないですか。なんだかんだで大していじるでもなく普通にべた惚れしてしまうに5000ぺリカだよ。こいつ数年前まであんだけいじられてたのは幻か…!?って思いながらメロメロにされたい。口癖が「シゲかっこいい」になる日も遠くないでしょう。でも頑張って憎まれ口叩くんだけど全部見通されるんでしょうね。なぜならシゲはリアルだとできる男だから。はーシゲかっこいい。

 

 

・二人目。小山慶一郎さん。

神様のイタズラ的な何かで付き合うに至ったとしか考えられない。せっかく10センチ以上身長差のある男を捕まえたんだから颯爽と街を歩きたい。相手アイドルだから無理だけど。

頭の悪いカップルになりたいですね。「うちらに子供生まれたら絶対一重だけどどうする?w」「多分背だけは高いから男だったら何とかなるっしょww」みたいな、実現可能性のめちゃめちゃ低いクソどうでもいい会話を繰り広げたい。

大事にされ過ぎてこの人の次に誰かと付き合えるのか不安になりそう。わがままめっちゃ聞いてくれそう。あとたまに手越に嫉妬する。そして頻繁にシゲアキに嫉妬する

たわいない未来の口約束をめちゃくちゃいっぱいしたい。「あそこ行こうね」「これしようね」って。彼氏に「え、湯坂ディズニーシー行ったことないの?俺が連れてってあげるよ」って言われただけでそこはかとなくイラッとした私にはハードルが高いような気がするけど頑張って小山さん。(その彼氏くんとは一か月で別れました♡)

もう逆に小山さんと付き合ってさえ甘々カップルになれなかったら自分に諦めつくよね。だからいっぱい甘やかしてください。意味もなく結婚を視野に入れた会話を交わすのは~あなた~~(和田ア●子風)

 

 

・三人目。増田貴久さん。

私、『ひとりで生きていけるふたりが、それでも一緒にいるのが夫婦だと思う』っていうティファニーのコピーがすごく好きで、ほんとに理想なんですけど、増田さんとはこういう関係を築きたい。

増田さんて絶対私がいなくても生きていけるじゃん。だから私もそんな感じでいたい。お互い「別にこいついなくても生きていけるし」って思いながら、「まあ誰かと一緒にいるならこいつだなー」って。夜中にいきなりラインしたい。「会いたいんだけど」って。「あ、そ」とか返されたい。んで家まで押しかけたい、しかめっ面しながら入れてほしい。私もしかめっ面で朝まで寝顔眺めてるから。もしくは増田さんから「まだ起きてる?」ってラインが来たら「んー」って返してそのまま寝たい。朝起きたら部屋に増田さんいてほしい。「人の寝顔みてんじゃねーよ(笑)」って軽く肩パンしたい。「返事あったから来たんだけど?」って言われたい。そういうやり取りだけでなんとなく救われるような付き合いがしたい。

増田さんと付き合うにあたって一番の問題は、私が増田さんに惚れる状況を想定できないことかな…。まず体型が好みじゃなry性格もry

まあ恋はいつでもハリケーン☆ってやつでしょう。ていうか今生まれて初めて増田さんと付き合う妄想をしてみたんだけど意外といけるような気がしてきた。同棲は無理だけど。さらっとお互い合鍵持ちで妄想しちゃったけど、合鍵もらえるほどの信頼を増田さんから勝ち取る自信はもちろんない…。

 

 

・ラスト。手越祐也さん。

出会いはどこかの飲み屋ですね。多分お互い酔っぱらっていい気分になって違う団体の人に絡んだりし始めて偶然知り合う。やっべえめっちゃイケメンじゃーんってなる。で、目が覚めたらホテルにいるパターン。まじかよ。

まあイケメンだし手越に似てるしいいか…って自分に言い聞かせてとりあえず別れるんだけど、そこからなぜか定期的に会うようになる。(2,3回目で「手越じゃねこれ?」って気づく)はいはい遊んでるんですね私だけじゃないやつですねまあイイデスヨ。

そこから割り切ってセフレみたいな感じになるんだけど、男友達とラインしてたか男が多いとこに出かけただかを見咎められて諍いになる。

「お前俺がいるのになにしてんの?」「は?いいでしょこれくらい」「よくねえよ」「や、大体手越だってさあ」「…お前俺の彼女って自覚あんの」あるわけねえだろ今の今までセフレだと思ってたわ。「え、あ、うん…?(まじかよこいつ)」「…あるならいいけど」

セフレだと思ってましたとは言い出せず、(まあ彼女が一人だとは限らないしな)みたいな感じでふわっと彼女に昇格したい。彼女が自分だけだと信じはしないものの、ほかの女の影をあからさまに見せつけられることはなく、なんか意外と平和な日々を過ごしたい。ぬるま湯みたいな綱渡りみたいな不思議な恋愛をしたい。全体的に「え、あ、うん…?(まじかよこいつ)」の頻度が多い。常識と非常識のハイブリッドな手越に振り回されつつなんだかんだで幸せなんだろーなー。

 

 

って感じの湯坂版NEWSと恋愛♡でした。ちなみに相手を抜きにして純粋にそれぞれのシチュだけでランキングつけるなら4つ目(手越のやつ)が一位です。私が幸せになれない理由が透けて見えるね。

 

 

 

 

 

 

 

4人分の恋愛を妄想してみたら、私の中の悪魔が4人分の失恋も提出してくれたので書いておく。

 

 

 

・加藤さん

「ごめん、今の俺の手には持ちきれない」って理由で振られたい。なにそれ意味わかんないんですけど。持てや。

穏やかに普通に恋をはぐくんできた分ダメージが半端ない。だって別にアイドル業の邪魔もしなかったし、小説の邪魔だってしなかったし、誰かにばれたわけでもないのになんで…ってなりたい。ごめん、って言ったシゲの方が泣きそうで、もう何も言えなくなりたい。

で、コンサート行きたい。都合よくアリーナの真ん中らへん当てたい。(強欲)

肉眼で表情がぎりぎり見えるその場所で、有象無象の私たちに向かって「愛してるよ」って言うシゲの顔を見て、(あ、駄目なんだな)って気づきたい。多分シゲにとってアイドルであることってとてつもなく大事なんだ。でも?だから?シゲにとって、恋は何もかもを捨てられるくらい大きなものだと思う。それで、生きている一人の人間として、いつか恋にとらわれることも覚悟しながらアイドルをやってると思う。でも、それは私じゃない。シゲにとって私は運命じゃなかったんだなって思いたい。シゲの手からアイドルも小説も何もかも奪わない限り、何もかもを奪えるくらい心のど真ん中に入り込まない限り、あの優しい手は私のものにならなかったんだなって今さら教えられたい。そこまでやって初めてシゲにとっては『恋』なんだって、シゲはずっとそれを待ってて、私はそう出来なかった。私はシゲに恋をさせてあげられなかった。邪魔しなきゃいいってもんじゃなかったんだな、邪魔じゃないからって持ち続けてもらえるわけじゃないんだなって、キラキラしてるシゲを見ながらぼろぼろ泣きたい。

 

 

・小山さん

日常の些細なことから軽い喧嘩になって、勢いだけで「私とアイドルとどっちがだいじなわけ!?」って言いたい。困った顔で「ごめんね」って言われたい。そのカオを見て、不意に気付きたい。ああ、この人、一生アイドルなんだなって。今までしたどんな口約束も全部ふわふわでキラキラの未来を思い描いてたけど、小山が小山を縛るしがらみを捨てて約束を叶えてくれる日なんて一生来ないんだなって、圧倒的に気づきたい。小山さんだけは私から振る(笑)

で、お約束でコンサート行きたい。アリーナ前列でお願いしますチケ運の神様。

スタンドのファンに向かって甘い言葉を叫ぶ小山を見て、この人が抱えるたくさんのものに思いを馳せたい。私は小山が好きで、ほんとに小山と幸せになりたくて、アイドルじゃない小山でもなんでも好きなのに、小山自身が絶対にアイドルである自分を捨てないんだなって、小山と私がいくつもいくつも思い描いた『幸せな未来』は絶対に訪れないんだなって思い知らされたい。

シゲは「何もかも捨てられるくらい圧倒的で暴力的じゃなかったら恋じゃない」って、逆説的に言えば「いつか自分もそれくらいの恋に囚われることがあったら、結婚する日が来るのかもしれない」って思ってるかもしれない。けど、小山はどんなに真剣な恋でも何かを捨ててもいいなんて欠片も思わないんだろう。私が望む未来にこの人が連れてってくれることは絶対絶対絶対ないんだなって思いながら、ぼろぼろ泣きたい。アリーナ前方で号泣する客ってやだな。しかも、多分持ってるのは増田うちわなのに小山さん見て慟哭っていう。Twitterで「私のそばに変な人が…」ってレポが出回りそう。でも泣きたい。

 

 

・増田さん

そもそもどうして増田さんが私と恋を始めようと思ったのかわからないので、終わらせようと思った理由もよくわからない…。

でもまああれかな、NEWSファンなのがばれでもしたのかな、財布から会員証ポロリしちゃったのかな。それなりに香ばしい年数を増田さんに捧げてきたオタクであることがばれたら、お付き合いを続けてはいただけないような気がする。

「そういう俺が好きなら、そういう俺だけ見てた方がお前幸せなんじゃないの」って振られる。まあ確かにアイドル・マスダタカヒサと私の彼氏貴久くんて全然違うだろうけど。でもそんなのファンの時からわかってたよ。それでもあなたと恋愛するのが楽しかったんだよー。

まあとりあえずコンサートに行くよね。安定ですね。今回はスタンド2階席の後ろの方でお願いします。

豆粒みたいな増田さんを見ながら、最後列に近い席から目を凝らしながら、こんなに遠いのになんでこんなに幸せなんだろうって思いたい。こんなに遠いのにこんなに幸せなら、まるでほんとにこの距離でもいいみたいだ。まるで彼女じゃなくても十分幸せみたいだ。そんなんじゃないって胸を張って言える私だったら、こんな風に終わることもなかったのかなって思いたい。

いつかもう一度誰かと恋をしよう。恋以外にしたいことがない相手と恋をしよう、って思いながらここでも泣く。とりあえず泣く。

 

 

・手越さん

「もう俺お前がわかんない。限界」ってふざけた理由で一方的に別れを告げられたい。なに言ってんだこいつ!今まで散々振り回されてきたのはどっちだったと思ってんだごるぁ!大事なこといっつも言わないのはどっちだごるぁあ!って思いながら、心のどこかで「本命の女の子がついにできたのかな…」って思ったり、「いや、本命ができたんじゃなくて最初から本命がいて私は正真正銘の遊びで、本命に火遊びがばれたのかな…」とか考えちゃったりもしたい。ぬるま湯に感じたって綱渡りは綱渡りなんだし、私が落ちただけなんだな、いい夢だったなって落ち着きたい。

で、コンサートに行く。スタンド1階席です。(これくらいは神頼みせずに自分の運の力で当てたいな…)

いつも通りの手越のソロが始めるわけですよ。なんかよくわからないけど振られた側ぶって抱きたがるんですよ。ちょっと傷がうずくけど、手越の顔はやっぱり綺麗で、ぼーっとモニターをながめながら歌声に聴き入りたい。それで、どこまでも真剣な手越の顔に見とれながら不意に気づきたい。もうヘレンケラー張りに気づきたい。

大事なこと、全然言葉にしなかったのは私も同じだったんだなって。「彼女だろ」って言われたときも、びっくりしたけど、曖昧に流してそれならそうなんじゃないのみたいな顔したのは私の方だった。いつだってわけのわからない言動に振り回されてたけど、私はそれに何も言わなかった。もしかしたら、もしかしたら、ほんとに手越は私のことを大事なたった一人の恋人だと思ってたのかもしれないって、悲痛な顔で歌い上げる手越を見て初めて真剣に思いたい。手越を信じてもよかったのかもしれないって。手越を信じてない私のことを手越が理解できるわけないんだから、「わかんない」ってあの言葉、今まで言われてきたこと全部、本心だったのかもしれないって今さら思いたい。

で、泣く。声も出さずにだらだらだらだら涙だけ流したい。

確かめたいのに、ちゃんと大事なことを言葉にしたい、してほしいと思えたのにもう二度と手越には届かないことを、モニター越しに彼を眺めながら理解して打ちのめされたい。なんだこの恋愛。

 

 

以上終了~~~☆☆彡

 

何を言ってるんだろう私は…。ちなみに実際の恋愛で泣いたことはまだ一度もありません。

 

 

とりあえずあれですね。ハッピーが見つからねえ。

 

結論:私にこの遊びは向いてない

優しくあるためにこころとあたまを授けられたのだ――『ドリアン少年』問題によせて

 

 

前記事でも長々と考察を垂れ流しましたが、今日はジャニオタとしてではなく現代社会に生きる日本人として、ドリアン少年問題について感じたことです。

あんまりドリアン少年もNMB48も関係ないんですけど、なんだろうな、自分たちが生きる社会の価値観の変遷について思ったこと、みたいな感じ。投稿する場所を間違えている気しかしないけどほかに場所も思いつかないので。あと書かないと忘れるし。

 

ninicosachico.hatenablog.com

 

herodontsing.hatenablog.com

 

 

の前に、ジャニオタとしてもちょっとだけ『若さと容姿は氷の剣』についての補足を。

書いたつもりだったのに読み返したら忘れてたーー。

 

 

「アイドルはかわいそうなのか?」「かわいそうだとしたら、(かわいそうな仕事をしているときの)アイドルを応援するのは間違ったことなのか?」という問題に関して。

 

私は、人間が若さや容姿といった一過性の魅力(=氷の剣)で戦うことには何の問題もないと思っている。前記事で言ったらダイニングバー店員としての私が、お客さんが感じるストレスへの対処法として女性らしい愛嬌あるふるまいで彼らの心の許容範囲を広げてもらうみたいな、そういう話だ。この時私は自分を偽っているかもしれないし、決して自分にとって性的対象ではない相手に性的にまなざされているかもしれない。そしてそれは私にとって快い経験ではなくて、だから私はかわいそうかもしれない。けれどこの時私は、その自分の『かわいそう』に見合うだけの利益・快をきちんと得ている。

つまり、何らかの意味で誰かに一過性の魅力を『消費』されているかもしれないが、同時に氷の剣でもって相手を『切り倒して』いるのである。RPG風に言えば、モンスターを攻略して経験値なり素材なりを得ているわけだ。別にお客さんのことガノトトスだとかメタグロスだとか思ったことはないけども。ついでに別に不快でもないけど。「そんなふるまいをしなきゃいけない仕事でかわいそうだね」って言われたら、「そうですねえ飲み屋の女の子ってかわいそうですねえ」って返すかもしれないけど、私をかわいそうだと思ってくれる人の心はとても綺麗だけれど、別にだからって全面的にかわいそうなわけじゃない。かわいそうだけどかっこいいし、めんどくさいけど楽しいし、高尚じゃないかもしれないけど崇高だ。だって誰かに楽しい時間を売ってるわけですよ。それってこっちも楽しいよ。ストライクゾーンから大幅に外れた方に「俺、飲食の女の子もアリかも、でゅふふ」とか言われるのが嫌じゃないと言ったらウソになるけどさー。

 

で、アイドルに関しても同じようなことが言えると思っている。

「かわいい」「かっこいい」「抱きたい」「抱かれたい」といった感情を抱くとき、水着の彼女たちに高揚するとき、シャツをはだける彼らに感嘆するとき、私たちは彼らを消費している。けれど、彼ら彼女らを消費するということはそのまま、彼ら彼女らに切り倒されるということに等しいのだ。切り倒されたオタクは、石ころにでも変わってアイドルが歩む道を舗装する。アイドルはかわいそうかもしれないが、そのかわいそうさはアイドルが追い求めるものの一部で、かわいそうじゃないアイドルなんて多分存在しない。かわいそうじゃなくなることがあるとしたら、カメラの向こう側にいる誰にも欲望を向けられなくなって誰の理想の恋人でもなくなって誰にも求められなくなった時だ。そっちの方がよっぽど哀れだし多分それはもうアイドルじゃない。

消費されるのがかわいそう、と言われても、オタクにしてみればそれは消費しているというかきらめきに魅了されているのだ。圧倒的に魅了して、圧倒的に消費されて、圧倒的に快を得て、圧倒的に輝く、というのが全部まとまってアイドルになる。しかも、このそれぞれがアイドルの要素というよりは、どういう価値観で見るかによって同じ現象の形容が違うだけだ。全部、同じこと。

 

りんごを1つ思い浮かべてみてほしい。あなたはそのりんごを「真っ赤で美しい、素晴らしい」と思うかもしれない。逆に「小さいから駄目だ」と思うかもしれない。あるいは「重たくて素晴らしい」「甘くて素晴らしい」「コンポートを作るのに向かないから駄目」「高いから駄目」など、いろんな人がいろんな感想を抱くだろう。そしてこういうたくさんの『素晴らしい』と『駄目』はどれ一つとして不当な評価ではないのだと思う。

私が素晴らしいと思うものを、誰かが駄目だと憐れむかもしれない。でも、甘くて素晴らしいと思う私と、小さいから駄目だと思う誰かとは同じものでも違う視点から見ているわけで、お互いにお互いの感想を否定することはできない。私がどんなに甘さを訴えたところでりんごが小さい事実は覆らない。誰かがどんなに小ささを訴えたところでりんごの味は変わらない。

だから、甘いこと・赤いこと・蜜が詰まっていることを理由に、値段や大きさについて声を上げる人を押しやってはいけないと思うし、逆に値段や大きさについて何を言われようと、甘さも赤さも蜜もそのままほめたたえていいと思う。

『消費されるアイドル』のかわいそうさは私にとってりんごと同じで、だからかわいそうだと認めるけれどかわいそうだと感じはしないしこれからもそれは変わらないだろう。「甘い!めっちゃおいしい!すごい!」と「甘い!コンポート作れねえ!駄目だ!」は交わらないし交わらなくていい。

 

 

「大人の思惑で、鋼の剣を創ることをサポートされずに氷の剣のみを振るわされることがあるなら、剣が溶けたら次の子を探して来ればいいという考えからプロデュースされることがあるなら、そのときこそ本当にアイドルはかわいそうだ」という旨のことを述べたが、これは本心からそう思う。こういう事例が存在するならそれは、自分じゃない誰かの利益のために自分の魅力をいたずらに浪費させられるってことだから。

これの何が駄目って、なにより長期的な目で見た時にアイドル本人に何の利益にもならない。頑張って氷の剣で誰かを切り倒しても、モンスターがゴールドしか落としてくれない状況。しかもそのゴールドが戦った本人以外の人の懐に入るっていう。そりゃー駄目でしょ。アイドルをプロデュースする側の心構えとして0点でしょ。

真っ赤なりんごを育てたいな~って思ってる人が、「大きい方が売れるんだよな~日に当てない方が大きくなるんだよな~」という地主の思惑でりんごに袋をかぶせられるなら、それはまあかわいそうでしょう。自分のりんごの木をそんな風に扱われるのがかわいそうじゃないならなんて言えばいいんでしょう。

でも、完全にこういう状況になることはなかなかない。剣が溶けるまで稼げりゃいいや~って売り出される子は実際いるんだろうなとは思う。思うけど、そのときアイドルが「氷の剣で戦えとしか言われないから氷の剣だけで戦うよ~そうしてほしいみたいだからゴールド落とすモンスターだけ選んで戦うよ~」とはならない。99%ならない。絶対に鋼の剣を創ろうとするし、自分の夢と希望を掴もうとする。そういう自分の『浪費』を迫られる環境で鋼の剣を創るのに苦戦しても、見せたい自分で誰かを魅了しようとし続ける。とにかく自分のため、自分の利益のため、夢のために戦うことはきっと誰もやめない。

まあ私アイドルプロデューサーでなんとなくわかるのはジャニー喜多川さんとつんく♂さんくらいなので、そもそも『完全にお金儲けのためだけにアイドルビジネスを手掛ける人』というのはちょっと想像つかないんですが。秋元康さんにしたって、少なくともAKB48を立ち上げた段階ではそのコンセプトは完全に『鋼の剣養成所』だったわけで。

 

だからまあ結論として、

  1. アイドルは『消費』されるという意味でかわいそうかもしれない。
  2. が、しかし、その『消費されるというかわいそうさ』を理由にアイドルをかわいそうな存在だとする論調には私はコミットしない。
  3. また、『浪費』されることがあるならそのアイドルはかわいそうな存在と言えるかもしれない。(ただ、それは『アイドルがかわいそう』ではなく『かわいそうなアイドルがいる』かな?と思う)
  4. が、しかし、『浪費されること』を無気力に受け入れるだけのアイドルなんていない。
  5. また、『浪費』されようとしているアイドルに対してもそのアイドルを愛するオタクにできることは結局彼ら彼女らの剣で切り倒されることだけ。

 

 

というわけで、私にとってはアイドルを応援するのは間違いではない。犯罪ではない。落ち込みもしない。死なない生きる。以上補足説明終了。

 

 

 

 

 

 

ただ、元記事書かれた方が異議を申し立てているのはおそらく『消費』だけではなく『浪費』も含めたかわいそうさであるように感じる。彼女にとってはアイドルや芸能人、特に女の子の芸能人が肌を晒すのは多分浪費で、そのとき後ろ側にいる大人のことを多分彼女は信用していない。彼女にとっては『ドリアン少年』はそういうどうしようもない世界を象徴するものに思えて、だからああいう記事を書いたのではないだろうか。何事も具体例があった方がわかりやすい。女の友情を薄っぺらく描写する世界にも、女の子を女体として扱う世界にも彼女はずっと憤慨していて、たまたま『ドリアン少年』がその憤慨を言語化してネットの海にぶちまけたくなるレベルにまで押し上げる最後の一撃になっただけではないかと思う。

彼女が抱く問題意識は非常にまっとうなもので、アイドルをきちんと人間扱いする人道的なものだ。アイドルへの悪意はきっとない。

加えて、私が話題にできるのは主にジャニーズ、せいぜいハロプロと48G系列くらいで、それ以外のアイドルのことはほっとんどわからない。こういうある程度大手のところ以外に関しては完全な無知。どんな世界でも小さくて経済的に苦しい人の方が悪いことを考えやすいというか世間体を気にしなくなりがちだ。だから、大きくて華やかな世界しか知らない私が「アイドル、ちゃんと浪費に抗ってるよ、戦ってるよ」と言うことに、大した説得力はないかもしれない。(大手が汚くないかというとそういうわけでもないんですけども)

私の目には見えないけど、世界のどこかには存在するのだと思う。ただお金のためだけに大衆のオカズにされて使い捨てられるかわいそうなアイドルが。それはたとえば無名のジュニアアイドルだったり、本当は歌いたいけどグラビアしかやらせてもらえない子だったり、性的興奮を煽るためだけにつくられたイメージビデオをとらされる子だったり、そういう子たちがきっといる。抗っても抗いきれなくて、あるいは抗い方もわからなくて、ただただ不幸に食い物にされる子が、絶対にいる。そしてそれが、私が見ているキラキラの世界と地続きであることは真実だ。

 

 

 

というわけでここから本編です。

アイドル関係なくなるので、興味ない方はここまでで大丈夫です。

 

 

 

 

「かわいそうだと言う人がいるから、かわいそうな存在になってしまう」「かわいそうだと言うことは失礼だと思うから言わない」「かわいそうと言うとき、私たちは彼らの魅力をくすませている」というような意見をちらほら見かけた。

これも一つの事実で、世の人々の大多数がかわいそうだと思うものは、そのうち本当にかわいそうになってしまう。だからかわいそうがらない、というのは一つの考え方だし、アイドルに関しては現状間違ってはいないことかもしれない。

 

けれど、『「かわいそうだ」と言うことでかわいそうになる』ということは、裏を返せば『だれも「かわいそうだ」と言わなければかわいそうにはならない』ということだ。だから私たちは、かわいそうなものには「かわいそう」という、おかしいものには「おかしい」というレッテルを正しく貼らなければならない。なぜなら、誰かがかわいそう/おかしいと言わなければ、『そういうもの』として見過ごされ続けてしまうから。かわいそうなままの現状がずっと続いてしまうから。私たちが今、普通のことだと思っている何か、そういうものだと思っている何かのせいで、大変な生きづらさを抱えている人がいるかもしれない。いつかそんな人を救えるとしたら、その救済の始まりは「かわいそう」「こんなのおかしい」というレッテルを貼ることなのではないかと思う。

 

 

小学生の頃、紫式部の伝記漫画を読んだ。その中で今でも印象に残っている台詞がある。夫との仲がうまくいかず落ち込む式部に、召使の女の人が言うのだ。「女は一という字も読めない振りをした方がかわいいと思われるのですよ」と。すげー時代もあったもんだな、と思った。なんだ馬鹿な方がかわいいって。あと、もっと本筋追えよな小学生の私。

纏足という風習を初めて知ったとき、唖然とした。まともに歩く能力を失ってまで小さくした足が美しいなんて、よろよろ歩く様がかわいらしいなんて、馬鹿みたいだ。臭いが性的にそそるというのは理解の範疇超えるし置いておく。

それから黒人と白人の話とか、国のために死ぬのが正しいとか、ほかにもいろいろ、歴史を少し振り返れば、歴史なんて壮大なスパンじゃなくてほんの数十年振り返るだけでも、今生きている私たちが「馬鹿だな」「かわいそうだな」「おかしいな」と思うような事例は腐るほど出てくる。

そういういつかの『常識』が今の非常識になっているのは、誰かがそれを変えようと奮闘した結果だ。

 

それが『常識』だった頃、何の疑問も持っていなかった人もたくさんいたはずだと思う。

平安時代の女性たちは、「男は漢字覚えなきゃいけなくて大変だなあ、女に生まれてよかったなあ」と思っていたかもしれない。漢族の女性たちは、「私の小さい足まじセクシー最高」と思っていたかもしれない。「人間て生まれながらに優劣があるんだな」「自分の命は国のためにあるんだな」「小説なんて和歌に比べたら低俗だから子供に読ませないようにしなくっちゃ」って、そういう現代の非常識を『そういうもの』だと思って大多数の人が生きていたはずだ。

 

 

それが変わったのは、いつか誰かがおかしさに気づいたからで、声を上げたからで、行動に移したからだ。だから、世の中には、私たちが生きている今はまだ声を上げる人がいなくて放置されたままの『おかしさ』『かわいそうさ』が、本当はゴロゴロあるのかもしれない。私たちにとっての常識のいくつかは、いつか非常識になるかもしれない。

もちろん、それを言い出したら私たちの認識も価値観もすべて不変のものではないわけで、とらわれすぎたら身動き一つとれなくなってしまう。信じられるものなどなくなってしまう。けれど、それを見て見ぬ振りするのも違うんじゃないだろうか。

 

誰かが何かについて「かわいそうだ」と声をあげたら、「おかしい」と疑問を呈したら、それが自分と全く違う観点からの見方で自分の価値観と交わらないものでも、検討してみるくらいのことはした方がいい。誰かが確かに傷ついているかもしれないし、ひょっとしたらあなたを少し生きづらくしているかもしれない。

私たちはいつか未来の人々に、私たちが平安時代の人々や漢族の人々を見るような目で見られるかもしれない。「女体扱いされたって、本人が納得づくで得もあるならいいじゃないか」という主張が、「男性が休暇をとって育児に励むなんて言語道断」という声と同じように奇異なものだと捉えられる日がいつか来るかもしれない。未来だなんて遠い話じゃなくて、5年後10年後には何かが変わるかもしれない。

 

 

 

私たちは、自分が生きる時代のおかしさやかわいそうさには、きっとなかなか気づかない。だってその中で育ってきて、それがフラットな状態だと思って生きているのだから。でも、そうじゃないかもしれない。私たちが今この日本で男女の別なく文字を読み文学や漫画を楽しめることは、昔の誰かにとって想像もつかないユートピアだったはずだ。上司に性的な言動でからかわれることは、十数年前はOLにとって仕事の一部だったかもしれない。それと同じことが、多分今でもたくさんある。今フラットだと思っている状態をマイナスだと捉える見方が主流になったら、私は少し生きやすくなるかもしれない。

それをかわいそうだと言われることを当人が嫌がることもあるだろう。でも、かわいそうだとレッテルを貼ることで、かわいそうなものだと貶めることで、それが普通じゃなくなるかもしれない。それが普通じゃなくなった世界は、今より少し優しくて、今より少し生きやすいかもしれない。

 

だから私は、『ドリアン少年』を引き合いに出して女性のあり方に異議を申し立てた彼女の主張を、それなりには検討したいし、説得力についても考えたい。アイドルオタクの私にとって、アイドルがかわいそうな存在になることは今後もないだろう。けれど、現代社会に生きる人間として、本当にそれでいいのか考える必要はあるんじゃないかと思うのだ。

今『そういうもの』だと思っていることを本当に『そういうもの』のままにしておいていいのか、今の頭で考えた方がいい。その結果、「それでいいだろ」って答えが出るなら、それでいいから。考えることもなしに『そういうもの』だと受け入れてしまうことは、きっと私のためにならない。せっかく、理性があって伝達手段を持っていて環境を変えて生存してきた生物、人間に生まれ落ちたのだから、その利点を存分に活用した方がきっと楽だ。

数世紀後まで変わらない、数千年後も変わらない価値観もきっとある。今に生きる人間には全然おかしく感じられないものごともきっとある。けれど今の当たり前の中には、そういう変わらない常識に紛れて『今考えてもおかしいこと』が1つくらいはあるかもしれない。それを見過ごさないことで、自分が救われるかもしれないから、誰かを救えるかもしないから、ちゃんと考えたいと思う。レッテルを貼ることが優しさになるかもしれないことを、心の片隅にとどめておきたい。「意外と世界は、お前にやさしいよ」って、私が私に胸を張って言えるように。

 

 

 

まああれですね、1つ言えるのは、これここに書くことじゃねえな、っていう。そろそろもっとハッピーなこと考えよう。

若さと容姿は氷の剣

 

今日の記事は長くなると思うので、先に主旨について簡潔に述べます。

今日の記事?今日の記事だろ?と思ったそこのあなた……正解です(今さらの走魂ネタ)

 

私が今日この記事で言いたいのは、アイドルとはある評価軸で見たら明らかにかわいそうな存在であるということと、その評価軸はある意味非常にまっとうで清潔な類の軸であるということだ。

抽象的には、アイドルに限らずこの世のすべてのありとあらゆる事物・事象は価値観や立場の取り方によってありとあらゆる評価を下されうるものであるということである。その価値観や立場が説得的か、正しいかということとは全く別に、単に厳然たる事実として『異なる観点から見れば同じものにも異なる評価が下される』し、『観点の数だけ評価もある』と思う。

そして、結論のところでもう少しきちんと書くけど、私自身は『アイドルかわいそう陣営』にコミットする気はない。アイドルは多分今後もかわいそうなままだし、そのかわいそうさをもってアイドルをなくすべきとはならない。さらに、アイドルがかわいそうであることはアイドルの魅力や尊厳を減じるものでもない。ファンが非難されるようなものでもない。ただ、それを踏まえた上で、それとは別種のかわいそうさもアイドルには付きまといがちなのではないかと思う。そしてこちらのかわいそうさは、できることなら自担や推しには身につけないでほしいタイプのかわいそうさだ

 

 

 

 

昨日、私のタイムラインにあるブログが流れてきた。そのブログを流したフォロワーさんは、「○○の中の××という点について批判されたときに短絡的に『○○を否定された』と思うのは間違ったことなのかもしれない」という旨のツイートを添えていた。

そういう経緯で読んだものなので、読む前からなんとなくそのブログを肯定的に評価する心づもりがあったことは否定できない。しかしともかくそのブログを読んで、わりと私は納得した。(ちなみに、ジャニオタとしての自分を否定されている気にも特にならなかった)

 

 

 

http://ninicosachico.hatenablog.com/entry/2015/08/10/171344

 

 

既に読んでいる方もいらっしゃるかもしれない。NMB48についての記事で、秋元康氏を非難するものだ。(このブログを書いた方にNMB48という特定のアイドルグループを批判したい気持ちはないように感じた)

 

 

私は単に納得したが、同じくこの記事を読んだらしいフォロワーさんの1人が、非常にショックを受けていた。正確には私が一方的にフォローしているだけの方なので彼女は私のフォロワーではないが。私がフォローしているTwitterユーザーさんが、とかいえばいいのだろうか。

こういうときに全文を引用せずに私が恣意的にその発言をまとめるのは卑怯かなとも思うが、全文引用すると個人が特定できてしまうしそっちの方がなんかいやなのでざっくりまとめる。

(仮にこのブログを読まれて、全文掲載してもいい、ツイートを直接貼り付けても構わない、あるいはそうしてほしい、と思われた場合は湯坂まで連絡いただけたらそうさせていただきます)(私のまとめ方が悪くてご自分の意図とずれたり異なったりしているなと感じられた場合も一報いただけたら修正いたします)

 

(8/13) 

→元ツイート主の芦屋こみねさんに掲載許可をいただいたので元ツイートに差し替えます。

twitter.com

twitter.com

twitter.com

twitter.com

 

 

冒頭にも述べたがもう一度声を大にして言おう。アイドルはかわいそうだ。ある評価軸から見れば、どう見ても明らかにかわいそうだ。

その『ある評価軸』がどういうものかというと、主に「人間は容姿や若さではなく個人の個性や性格・価値観や言動によって、人間的な魅力をもって評価されることが望ましい」という価値観と、「性的な意味で人をくいものにしたり慰み者にするのは望ましくない」という価値観である。

この2つの考え方は、特に世間的に反感を買うようなものではないし、むしろ至極まっとうで清潔だ。

 

 

 

 

そもそもアイドルが売れようとするとき、彼ら彼女らは一体誰に向けて自分を売り出そうと思うのだろう。アイドルを売ろうとするとき、『大人』は一体誰に向けて彼ら彼女らを売り出そうとするのだろう。

それはおそらく、アイドルに対して恋心もしくは擬似的な恋心を抱いてくれる人に対して売り込もうとしているのではないだろうか。

もちろん、アイドルオタクのすべてがそういうタイプだとは思わない。なにしろほかならぬ私がそうではないタイプのオタクである。自分のコミュニティを基準に判断させてもらえるなら、そうではないタイプのオタクも一定数いる。一定数どころか結構いる。たぶんめっちゃいる。

でも、現実のオタクの分布がどうなっているかは置いておいて、売り出す側の立場に立ったときまず真っ先にターゲティングされるのは恋心を抱ける側、私たちじゃない側の人間だと思う。アイドルというのは、人間が消費の対象となる非常に稀有な職業だ。つくる歌とかできる演技みたいな人間性と離れた成果ではなくて、アイドル自身が消費と評価の対象となる。人間が需要され人間を供給するこのビジネスの中で最も間口が広く消費者(つまりファン)を取り込みやすい、最も顧客を獲得しやすく儲けにつながりやすいのが恋愛感情に訴えるやり方ではないかと思う。

アイドルが稀有と書いたが、恋愛感情に訴えるやり方の効率がいいのは多分二次元でも同じだ。恋愛に近い感情を抱いている客が多ければ多いほど、客単価(あるキャラクターに対して消費者1人当たりがいくら払ってくれるか)は上がる。『テニスの王子様』とか各種乙女ゲームのキャラとかのファンの人々を筆頭に、愛するキャラになかなかになかなかな額を投じている。

 

 

 

我々一般人は恋心を抱くことを期待されてアイドルとアイドルを取り巻く大人たちからマーケティングを受けているわけだが、恋愛と性欲とは不可分に結びついている。恋愛と性欲を同一視するのがナンセンスであるのと同じくらい、遠く離れた無関係なものだと思い込むのもナンセンスだ。

私は今までの人生で、「恋人のことはとても好きで愛しているけど、触れたいとかセックスしたいとかは全く思わないんだよね。身体が好みの人に対してはそういうことも思うんだけど」という人には一度も会ったことがない。「恋人のことは好きだけど、セックスしたいと思わないんだよね」なら普通にいるが、性欲を備えているにも関わらず恋愛感情を抱く相手に対してはその欲望が全く向かわない人というのはほとんど存在しないのではないだろうか。また、性欲まではいかない接触欲を人並みに持っていながら、恋愛感情を抱かない相手にのみその欲求が働く人はマジでほんとうに存在しないと思う。

これは私の個人的な感覚なのだが、恋愛感情と性欲とはそれぞれ別個の範囲をとって他者を分類するカテゴリーのようなものだと思っている。多くの場合、性欲の範囲は恋愛感情の範囲より広い。そして、恋愛感情の範囲は性欲の範囲内の中にある。高校の数学でやった集合みたいなイメージ。もうあんまり覚えてないけど。セックスしたくない派=性欲という集合が空集合の人。

 

相互にコミュニケーションをとりお互いを知り恋愛感情を抱いてもらうことは、アイドルにとって非常に困難だ。これは私がジャニーズという巨大で勢力のある組織に属しているアイドルのオタクであり、アイドルとファンの相互の絶望的な一方通行性を愛しているから思うことなのかもしれない。しかし、たとえ握手会で会話が出来ようと自分を覚えてもらえようと2人の間に秘密の合図を生み出せようと、その営みと一般的な恋愛とは決定的に異なる。

本来あるべき双方向的なコミュニケーションが取れないアイドルたちがカメラの向こう側にいる誰かの愛をもぎ取るために出来る最も基本的な手段が容姿や行動などの目に見えるもので魅了するやり方だ。その可愛さや格好よさは多分、アイドルがアイドルの世界に足を踏み入れるための入構証であり、同時にアイドルとして戦うための最も基本的な武器だろう。

そしてその戦い方にはほとんど不可避に『カメラの向こう側の誰かの性欲を煽ること』がついてくる。

 

 

 

この『性欲を煽る』という行動は、男女の別なくアイドル全員がやっていると思う。そしてオタクの側も『性的に食い物にする』という行為を、男女の別なくしている。

今回のNMB48でいえば水着のPVもそうだし、週刊誌のグラビアもそうだ。あとは握手会での会話や認知もそういう側面がなくはないと思うし、釣り行為とかもそうだ。

ジャニーズでいえば腰振り曲なんかはガンガンのセックスアピールのつもりでやっているはずだ。雑誌でお便りを取り上げて返信することもそれにあたるし、ラジオで甘い言葉をささやくのも大きく言えばそれだ。妄想キッスシチュエーションとかね。ギャグなのかマジなのか本気でわかんないけど、本来の意図はそういうことのはず。

こういうものに萌えるとき私たちは、性欲もしくは性欲に近い何かによってアイドルを消費している。「かわいい」「水着最高」「抱きたい」「抱かれたい」「耳で孕める」みたいな反応は全部そうだ。

 

 

見た目じゃなくて中身を見てよ。『私』を、『俺』を愛してよ。というのは漫画やドラマで使い古されたセリフだ。でも、使い古されるだけの価値と説得力のあるセリフだ。人間は愛されたい。たった一人の個人として、自分の全部を愛されたい。唯一無二な自分を愛してほしい。

身体目当ての恋愛なんて、まともな恋愛じゃないのだ。誰も誰かの性欲の捌け口になんかなりたくない。そそるからというだけの理由でセックスされるのは、一方的に性欲の対象にされるのは、誰だって不快だ。

 

先述したように、アイドルは人間を商品にする職業である。愛されるのが仕事だ。それなのにアイドルは、本当の意味でのありのままの自分を愛してもらうことなど絶対にできない。1人の人間として愛されることなんて絶対にない。愛されるけど、愛しあうことは不可能だ。ありのままの自分を見せることなんてできないのに、作ったものじゃなくて自分を売るなんて、そんなことをしなければならないアイドルはとても不毛な生き方なのかもしれない。

そして、不特定多数の誰か、アイドル本人にとっては必ずしも性欲の対象にはならない相手に性欲を向けられることが多々あるのも真実だ。性的な要素の多いグラビアの機会や水着になる機会が多い分、女性アイドルの方が本人もオタもそれを自覚しやすいかもしれない。しかし、特に女性アイドルに限らず、アイドル全般がそうだ。

男性アイドルに対して女性ファンが「抱かれたい」「キスされたい」と思うのは、一見女性が受動的なようにも見えるし、性的に消費している実感もあまりないかもしれない。ひょっとしたらアイドル本人にもその自覚はなくて、「キャーキャー言われんのマジ気持ちいい!!」と思っているアイドルもいるかもしれない。けれど、顔の見えない性格のわからない『だれか』に性的にまなざされるというのは、本来不快な経験であってそこに男女の性差はない。お金もらってでも触れたくないレベルの醜い人にも、アイドルを性的にまなざす権利がある。アイドルにはそれを受け入れる義務がある。それは絶対に、心地よいことではない。

 

こういう風に考えるのは一種の筋の通ったものの見方だし、この意味ではアイドルは確かにかわいそうだ。少なくとも私個人としては、「っていうわけで私はアイドルのことかわいそうだと思うんだけどどう思う?」と訊かれたら「まあ確かにかわいそうですねえ」と返す。

別にアイドルに限らず、愛し合いたいのに愛し合えない人や向けられたくないまなざしを向けられて生きる人への形容として『かわいそう』は間違った言葉ではないし、アイドルのかわいそうレベルが高いのもまあ間違いではない。この観点から見た時、人は皆少なからずかわいそうで、アイドルはその中でも特にかわいそうな生き方だ。

 

 

ただ、私はそのかわいそうさを踏まえた上でもアイドルといういきものをとても尊いと思うし、好きだし、アイドルがアイドルである自分に執着を見せるのも普通のことだと思う。そういうかわいそうなことっていうのは、裏を返せばまさにアイドルと一般人を分かつ特異点でもある。普通に生きていたら誰もが経験するそのかわいそうさを、普通に生きていたらありえないほどの量背負って生きるからアイドルなのだし、彼ら彼女らの輝きと自己顕示欲と承認欲求と野望と慈愛とかわいそうさは表裏一体だ。

 

 

だから私は『アイドルかわいそう陣営』に納得はするし間違ってもいないと思うがコミットはしない。ただ、このアイドルのかわいそうさについて考えた時に、このやり方にはほかにもある種のかわいそうさがあるな、とぼんやり思った。そして、こっちのかわいそうさは、アイドルがアイドルとして生きていく上で障害になる方のかわいそうさなのではないかと思うので、頑張って文字にしてみる。

 

 

 

こういう性的な側面を含んだ魅力/目に見える魅力――かわいい、かっこいい、えろい、性的、そそる――というのは、アイドルにとって武器だ。容姿が人より優れている、という武器。

でも、武器は武器でも氷の剣だ。大きくて強くて鋭いかもしれないけど、いろんなものを切り倒して進んでいけるかもしれないけど、でも氷でできている。いつかは溶けてなくなってしまう。氷の剣だけで死ぬまで戦い抜くことは誰にもできない。とれる道は2つだ。1つ目は、年を重ねて加齢で氷の剣が溶けきったら潔く死ぬこと。2つ目は、氷の剣で闘いながらそれと同じかそれより強い鋼の剣を創ること。

 

 

勘違いしないでほしいのだが、私は氷の剣で戦うこと自体には何の問題もないと思っている。逆に、人が自分のもてる武器で戦うことを批判する方がずれてないか?とすら思う。現代社会ではみんな誰でも、氷の剣を持っているし、それで戦っている。人によって大きさは違うし、アイドルに比べたら攻撃力のずっと低い剣だけど、みんなそれで戦ってる。

私がダイニングバーの店員だから、余計にそう思うのかもしれない。例えば大人数の貸切の宴会の会場になると、絶対にキャパオーバーが起こる。ドリンクの提供が滞ったり席間が通常より狭くなってしまったり、取り皿を料理ごとに変えることができなくなったりする。こういうことはお客さんにとっては当然ストレスなので、店員に対してわりと失礼な態度で催促をしたり大声で文句を言う方というのも時々現れる。そして、こういうときに不快な態度を取られる頻度は、女性店員より男性店員の方が圧倒的に高い。

本当に、びっくりするほど態度が違うこともある。こうなると店側も客側もいい思いはしないしこちらもできることなら気持ちよく働いて気持ちよく感謝されたいので、私はわりと躊躇なく氷の剣を抜く。

「提供遅くてごめんなさい、がんばりますっ」って言うし、褒められたら「え、私かわいいですか、そんなこと全然言われないけどうれしいです」、今度は飲み物来るの早いねって言われたら「そうなんですがんばりました!」とか、ガンガン言う。にこにこする。まあ正直見た目はそこまででもないので剣の威力はだいぶ低めだが、お客さんの態度はめちゃめちゃ軟化する。グラスの回収を手伝ってくれたり、快く皿を回収してくれたり、飲み物を聞き直してもにこにこ答えてくれたり、非常にやりやすい。双方楽しい。

酒の席だと愛嬌さえあればそれなりにはかわいく見えるようなので、それを学んでからは剣振り回し放題である。

 

で、私は自分がそうすることに特に嫌悪感はないし、責められる謂れもないと思っている。だってお客さんには優しくしてもらえた方が働いてて楽だし、店員がノリよくて愛想いい方がお客さんも楽しい。なんなら、飲食店のお代には原価と利益のほかに店員の給料も乗ってるわけで、必要に応じて可能な限り切り倒す義務があるとまで思っている。まれにとんでもないガチ恋を釣り上げてしまうことがあるのが玉に瑕だが、まあそういうこともあるよね~~。

 

 

 

現代社会に生きる人間はみんな、そういう剣で戦っている。アイドルもそういう氷の剣を持っている。大きくて強くて鋭くてよく切れる、大事な大事な武器だ。その剣でアイドルは、とんでもない高みまで辿りつけるかもしれない。

でも、どんなに強くてもやっぱり、それが氷でできているのは動かしようのない事実なのだ。

 

(「30歳を超えて、何か変化はありましたか?」という問いに対して)

俺は、すっごいあった。それはやっぱり大野さんが一番分かってくれると思うけど、異様な焦りがあって。30超えたら、次に見えるのは40じゃん。(中略)どうせ、いつかかわいくなくなっていくんだから、人間だから。じゃあ、そうなったときの畑を、今から耕しとかなければならないんじゃないかなって、ずっと思ってたの。

 

7月30日に日本テレビで放送された、News ZEROのスピンオフである『アイドルの今、コレカラ』という30分の対談番組の中で、嵐の櫻井翔さんが語った言葉だ。いつまでも、肩を組むだけでキャーかわいいと騒いでもらえるようなビジュアルは保てない、自分たちは年をとっていく。だって人間だから。加齢からは絶対に逃れられない。

だから彼は、それだけじゃない、消えない武器が欲しかったのだ。若さや容姿などの一過性の強みじゃなくて、氷の剣が溶けた後もなくならない鋼の剣を何とかして作りたかったのだ。とんでもない人気を誇る嵐のメンバーが言うからこそその自己分析力に感嘆するけれど、この危機感はきっとアイドル全員が持っているものなのだろう。

NEWSの加藤シゲアキさんは、自分がNEWSメンバーに選ばれた理由が「顔」だったと知ったとき、ショックを受けたそうだ。顔だけで選ばれるんじゃ、きっとみんないやなのだ。この話には後日談として、NEWSが4人になり再始動をする際に自分の武器について考えた加藤さんが「自分のもてる武器は全部使おう」と、ダイエットなどに励みかなりビジュアルを改善した、というエピソードがある。

櫻井さんと加藤さんの2人のこの逸話に、アイドルと剣のあり方についてのアイドル側の意見は集約されていると思う。アイドルである以上それを振るわないのは間違いなのだ。けれど、氷の剣はいつか絶対に溶けて消えてしまうというのも、目をそらしてはいけない真実だ。そうなる前に自分だけの武器を、折れない、溶けない、消えない武器を掴もうとして、みんなもがいている。

 

 

そして、氷の剣だけじゃ戦いぬけないことが圧倒的に明らかな世界で、大人が彼ら彼女らを氷の剣だけで戦わせようとするのなら、そのやり方は絶対にアイドル本人のためにはならない。

氷の剣がいつか消えてしまうことを理解していながらアイドルが鋼の剣を創れるようにサポートしないのは、剣が溶けたら死ねということに等しいはずだ。女性アイドルのプロデューサーはそういうスタンスの人が多いように見えることがあるのは否めないような気がする。

賞味期限が切れたら速攻辞めて普通の人になろう、と思って芸能界に入ってくる子がどれくらいいるというんだろう。この世界で燦然と輝く大スターになりたい子の方が、圧倒的に多いだろう。

 

 

 

もしも仮に、そういう子たちを売り出す立場にある人が「武器が消えたら次の子を探せばいい」と思ってビジネスを行っているのなら、それはとても悲しいことだと思う。そういう風に武器を使わされるのは、性的にまなざされるよりも一方的にいびつな愛を注がれることよりもずっとずっとかわいそうだし、ずっとずっと憂うべきことだ。

ただ、たとえ大人がどう思っていようが、アイドル自身は必ず鋼の剣を模索しながらアイドルをしていると感じるし、そういうときでもそのアイドルを応援するのは極めて自然なことだと思う。事務所が安易に肌を見せようとかファンサまき散らさせようとか思っていたとしても、それでもアイドル本人は真摯に仕事に取り組んでいる。そういうときに、『大人が気に食わない』という理由でそのアイドルと彼/彼女の夢をあきらめることは、多分私にはできない。大人の意志が透けて見えて、それがどんなに優しくなくたって、それでも私の好きな人は輝いているだろうし、素晴らしいだろうし、私はそれを愛するだろう。

 

実際に現在の女子ドル界隈がどういう感じなのかは知らないし、件のNMB48についても特に何も述べる気はないが、もしも自分が愛するアイドルの裏にいる大人が、そうやって彼ら彼女らを使い捨てにしようとするなら、それを丸ごと肯定してしまうようなオタクには、「かわいいからいいじゃん」で許してしまうようなオタクにはなりたくないなと思う。

決して交わらない一方通行の愛かもしれないけれど、彼ら彼女らが追っている夢を私もみたいし、アイドルを取り巻くすべての大人も一緒に夢を見てくれるような、そういう優しい世界を欲望することを、オタクである限り辞めたくない。

 

 

 

 

最後に、『ドリアン少年』についてごく私的な感想をちょこっとだけ。

これ、言ってしまえば西野カナさんの『Daring』と同じこと言ってるのかなって思うんですよね。恋は盲目。でもなんか、印象全然違うなーと。どんな言葉を選ぶかによって、受け手に与える印象は全く変わってくることを知るいい例だなと思うので、自分も発言には気を付けようと思います。

アイドルであるということ――君は人造人間

 

 

 

ということで本編いきます。(前記事参照)

 

herodontsing.hatenablog.com

 

 

アイドルであることってなんなんだろうな、と4人分の10000字インタビューを読んで、あと最近のあれやこれやに触発されて改めて考えた。私は、こんなに長い間一体『なに』を応援してきたのだろう。(今までの人生でした一番長い恋よりも、増田さんを好きな時間はなお長い)

 

 

まず大前提として、私は増田さんに限らずアイドル全般が好きであり、アイドル全般に対して恋愛感情を抱いていない。それを踏まえた上で、私にとってアイドルとは何なのか、私は一体何を愛しているのかについて少し語らせてほしい。

 

 

多分私は、アイドルという名のエヴァンゲリオンを愛しているのだ。と思う。

そんな感じでアイドルゲリオンについてのお話です。

 

ちなみに、「チルドレンの精神性とアイドルの精神性」とか、「作品の中のメッセージとアイドルの生き様について」「セカイ系とアイドル/アイドルファンの精神の構造」みたいな話はしません。一切しません。ここで私が言いたいのは2つ、エヴァンゲリオンは『巨大な人造人間』というかたちの兵器であること」「その操縦は神経接続をもって行うこと(具体的にはエントリープラグという円筒状の容器にパイロットが入り、それをエヴァンゲリオンの脊髄に挿入して操縦する)」だけです。

エヴァンゲリオンファンの方にケンカ売るつもりは一切ないのですが不快に思われた方がいらっしゃったら本当にすいません。

 

 

 

 

・神経接続によって操縦する兵器

アイドルである時のアイドルが単に1人の個人ではない、という感覚を抱くことがどの程度普遍的なものなのかは全く知らないが、少なくとも私はそう思っている。私が見ている彼らは、彼らであって彼らではない。

私たちの目の前にいる彼らは、アイドルという人造造形物=エヴァンゲリオンであり、それを操縦しているのが彼ら人間、彼ら個人なのだと思う。ただ、それはたとえばガンダムのように彼らがハンドルを介して操縦しているわけではない(エヴァも武器使うときは普通にハンドル操作してる事実には都合よく目を瞑る)。個人の神経、つまりは個人の意志でもって動いているものだ。目の前にいるのは純粋な人間ではない。しかし確かに純粋に意志で動いている。

ありのままの彼らを見ることができているわけではないけれど、偽りの彼らを見ているわけでもないのだ。人間ではないかもしれないけど、まるっきり無機質な作り物でもない。そういう造られた生命体がアイドルだと思う。

エヴァンゲリオンを動かすにあたっては、『シンクロ率』というものが重要になってくる。本体である個人と、神経接続されたエヴァンゲリオンとがシンクロしていなければ動かすことはできない。超々ざっくり言うと、神経がちゃんとつながってなかったらいくら脳から信号を出しても身体を動かすことはできない、みたいな感じだ。アイドルも同じで、『単なる人間』(=本物の人間)ではないかもしれないが、一方でその中にいる個人、アイドルゲリオンとして動く意志がアイドルゲリオンと一致していなかったら動かすことなんてできない。前記事でも述べたように、アイドルは歌手や俳優と違って人間そのもの/個人そのものを商品にする/消費される職業である。一個人の延長で一個人から確かに繋がっているものだけれど、一個人そのものではない、しかしやはり繋がってはいる、というところにアイドルとほかの芸能人を分かつ特異性があるような気がする。つくりものだけれど偽物ではなくて、限りなく不完全な一つの生命体なのだ。

 

 

 

・何者かであるということ

エヴァンゲリオンに乗れるのは、ごく一握りの限られた人間だけである。それはつまり何者かであるということ、普通の人間とは違うということだ。

アイドルの世界に足を踏み入れた少年少女は、何者かになることに死に物狂いで取り組む。乗り込むことを許された時点で、彼ら個人も『何者か特別な誰か』になる。特別だけれどただの人間で、生身の自分は結局のところ人間で、だからきちんとエヴァに乗らなければならない。自分だけのエヴァを見つけなければならない。それが出来て初めて、本当の意味で何者かになれる。自分にしか乗れないエヴァ、唯一無二のエヴァを探して見つけて作り出さなければならないのだ。

(一応本家だと原則としてエヴァンゲリオン一体につき1人しかパイロットはいない。あるエヴァに乗れるのはある個人1人だけである。これも原則にしか過ぎないんですけどね!)

 

 

 

 

・巨大な人工物

エヴァンゲリオンはでかい。具体的に言うと80m。(設定と作品によってかなり変わるがとりあえずデカいってことが言いたいだけなので細かいところはスルーしますごめんなさい)(ときと場合によっては400mある時もあるYO!!)

で、それで何が言いたいのかというと話は単純だ。エヴァが巨大であるということは、エヴァと闘えるのはエヴァもしくはそれに比する大きさを持ったものだけだということを意味する。つまり、降りてしまったら決して同じ土俵で闘うことはできない。

アイドルを辞めて歌手になる人がいる。俳優になる人がいる。普通に生きる人がいる。そういう『降りた人間』は、どんなにパイロットとしての適性があろうともどんなに輝く戦闘を過去にしていようとも、降りた時点でただの人間だ。ただの人間だから、2mにも満たない小さな存在だから、降りてしまったらもう闘えない。どんなに輝く才能を持ってたって、アイドルを辞めてしまったらアイドルではない。

それがわかっているからこそ、彼らはアイドルであることに執着するのではないかと思う。アイドルでないと戦えない世界がある。アイドルでないと足を踏み入れることさえ叶わない世界がある。その世界で呼吸をする魅力に取りつかれたら、もうアイドルでいるほかない。

 

 

私はきっと、そういう巨大な人工生命体を愛しているのだ。

 

 

 

 

加藤さんや小山さんがスケールダウンもやむなしにNEWSでいることにこだわったのもそういうことなのではないかと思う。どんなにボロボロだっていい。もう空は飛べなくて地を這ったっていい。どんなにみじめでもそれでも、この世界で生きたいのならエヴァンゲリオンを降りることはできなかったのだ。どんなにみじめでもそれでも、降りてしまったら何かが決定的に違ってしまうから、乗れているだけマシなのだ。

特に小山さんの初期の行動は、ひたすらに『パイロットである自分』を守ることに注力していたように見える。過去にも活動休止期間を経験し『何者でもなくなるかもしれない自分』を目の当たりにしているからこそ、今度こそ本当の本当にパイロットとしての資格を失うかもしれないというのは、相当に大きな恐怖だったのかもしれない。

逆に増田さんは、自らが愛し誇りを持ったエヴァンゲリオンを弱体化させることなど、そんなことをしながらN号機(NEWS)を名乗ることなどとても考えられなかったのだろうなと思う。

 

 

 

 

エヴァンゲリオンとそのパイロット、という観点から考えてみると、NEWSはきれいに四者四様だ。

 

 

増田さんは、自らが乗るエヴァンゲリオン(仮に貴号機とでもしよう)をひたすら徹底的に磨き上げ強化するタイプである。貴号機のあるべき姿について考え、貴号機でできることについて考え、貴号機が与えられるものについて考える。それを突き詰めて突き詰めて突き詰めて考える増田さんは、貴号機としてしか私たちの前に現れる気がない。

だってエヴァだ、巨大な人工生命体だ。絶対に中には人がいる。脊髄の中にエントリープラグが入っていることをみんなわかっている。それなのに増田さんはそれを認めない。「俺は貴号機だよ」とかたくなに言う。そんなわけないのに、貴号機という人間なんていないのにそう言い張る。彼はそういうタイプのアイドルモンスターだ。

私は、エヴァンゲリオンの中に人が垣間見えるとめちゃくちゃ萌えるタイプだ。エヴァと中の人がかけ離れていればいるほど興奮するのだが、増田さんを好きになったがためにおかしな性癖がついたと解釈している。こんなはずじゃなかった。貴号機と増田さんが乖離しすぎなのが諸悪の根源である。好き。

 

 

手越さん(手号機と言いたいところだけど祐号機で)は、パイロットと祐号機との一体化を志しているように見える。増田さんは「貴号機の中に人なんかいないよ」という嘘を吐くが、手越さんは「祐号機と俺は同じものだよ」と主張する。もちろんこれもそんなわけはない。24時間365日エヴァに乗り続けられる、エヴァと一体化できるパイロットなんて存在するはずがない。

でも手越さんはそうしようとする。フットサルをやっているときも、花火大会に出没するときも、流れるプールで流れているときも(笑)、彼はいつだって手越であって祐号機でもあるという意識であるように見える。つぶれちゃわないのかな、って一番心配になるのが手越さんだ。

だってあなたたちは別のものだよ。別の生命体だよ。エントリープラグの中の手越が祐号機と何もかも同じじゃなくたって、誰も怒ったりなんかしないんだよ。という声が聞こえていても同化を図るのが手越さんである。個人的に、私が手越の夜遊びにあまりショックを受けないのは祐号機としての彼を極端に裏切るような報道が今までなかったからなのかもしれないと思っている

 

 

加藤さん(成号機)は、パイロットとしての自分さえも闘う武器にする人である。要はシンジくん(主人公)。エヴァに乗る人としての苦悩、エヴァに乗る人としての欲望、パイロット加藤成亮としての生き様で私たちを魅了する。

貴号機と祐号機との決定的な違いがそこである。加藤さんはいわば主人公なのだ。選ばれし人間だけど、エヴァを降りることを選んだらただの人間だ。彼らがエヴァに乗れるのは選ばれし人間だからだけれど、彼らを特別な存在にしているのはエヴァに乗っているという事実だけなのだ。エヴァを降りたら普通の人間になってしまう加藤さんが、どうしてエヴァに乗るのか、なぜエヴァを選ぶのか、どうやってエヴァに乗り続けるのか、そういう中の人の存在を克明に見せることで、普通の人の中で一番すごい人になる道を選んでいる。

特別な人なのに私たちに寄り添ってくれる、近くて遠い人なのだ。加藤さんを見ているとなんか自分も頑張れるような気がしてくるし強くなれるような気がしてくるのはきっと私だけじゃない。

 

 

小山さん(そうです慶号機です)は、加藤さんとはベクトルの違った『中の人の見せ方』をする。彼は、パイロットである自分への愛と執着をむきだしでぶつけてくる人だ。失う怖さを知っているから、失わないためならなんだってする。パイロットとして最も果敢で最も強いのが小山さんなのかもしれない。慶号機に乗ってできることだけじゃなくて、慶号機に乗るために乗り続けるために小山慶一郎としてできることをいつだってちゃんと考えている。

彼は自分を「NEWSの神経」と言っていたけど、私は彼こそが「NEWSの意志」だと思っている。大体、どうにかなるっしょと思っているポジティブな人が思う「どうにかする」と、どうにもならないかもしれないと思っているネガティブな人が思う「どうにかする」と、どちらが高い熱量だろうか。比べるものじゃないけれど、でも、後者じゃないかと私は思う。

どんなに深い暗闇の中でも、求める結果が見えなくても、それでも戦える彼は本当に強い人なのではないだろうか。(もう二度とNEWSに深い暗闇なんか訪れないとは思うけれど)

小山さんがいる限り、NEWSは絶対に大丈夫だ。彼は絶対に、パイロットとしての自分を守るから、そのためならなんだってするから、だからNEWSは大丈夫だ。彼がNEWSの意志である限り、絶対絶対大丈夫なのだ。

 

 

 

 

ちなみに、水曜歌謡祭や世界の果てまでイッテQ、終わっちゃったけどいっぷくなどに出ている(出ていた)手越さんや増田さんは、祐号機だし貴号機なのだと思う。

それに対して、小説家加藤シゲアキやキャスター小山慶一郎は、「パイロットとしての(つまりは選ばれし人間としての)個人」であって、一応加藤シゲアキであり小山慶一郎なのかなと思っている。エヴァの乗り手としてエヴァに乗っていない状態で仕事をしているのである。

 

 

 

私が愛しているのはエヴァであり、せいぜいエヴァの乗り手としての個人なのだろう。ただの個人には興味がないし、ただの個人をアイドルを愛するようには愛せない。

わりとDDなのでJr.も結構好きだが、好きになるのは既にエヴァに乗ってる子かあるいはいいエヴァを作り上げそうな子かエヴァへの意志が強い子なのかなと思う。いいエヴァってなんやねんて話だがなんとなくくみ取ってくれ。

NEWSは四者四様といったけれど、たぶん各者各様というか十人十色なんだろうな。個人的なイメージで申し訳ないが、関ジャニ∞の横山くんなんかは「横号機と横山はべつもんやで!横山はこんなやつやで!まあ俺らのファンやったら横山も愛してくれるよな!」って感じかなと勝手に思っている。えてしてこういうタイプも沼が深いのではまったら最後。どんな沼も深いんですけどね。

ほかのジャニーズアイドルと彼のエヴァとの関係についても知りたいなあ。

 

 

 

というわけでアイドルゲリオンのお話でした。アイドルゲリオンて言葉が使いづらいし略しにくかったので終始エヴァで通してしまった…(笑)

 

 

 

 

本編おーわっぴ!

明星のおかげでほんとに楽しかった。あとコヤシゲがお揃いのネックレスつけてた件について私と話し合ってくれる方募集中です。相変わらずおしゃくそゲイカップル感半端ないんだけど彼らは何を目指してるの。

手越祐也の強さとやさしさ

 

MYOJO9月号を読んだ。毎月発売日を心待ちにするこの感じを久々に味わえて、とても楽しい3か月間だった。

手越祐也の10000字インタビューを読んで、まず真っ先に浮かんだのは微かな悔しさだった。後悔かもしれない。別に内容が気に食わなかったわけでも彼を信じられなかったわけでもなくて、NEWS4人のこのインタビューを発売順に読みたかったなあと思ったのだ。

 

 

手越さんの言葉はとても強くて、相変わらず本能の人だ。意志の力で本能を高めて生きている人。闘う意志を絶対に捨てない人。なんて悲愴感のない、なんて悲劇感のない言葉の数々だろう。小山→加藤→増田→手越の順にインタビューを読んでいたら、徐々に悲しみが薄れて闘志へ変わっていくのを感じられて私自身も手越イズムに感染?していたかもしれない。

買い逃した過去は変えられないし先に読んでしまった過去も変えられないので、そんなことをくよくよ考えても仕方ないのだけれど。それにしてもなんで買い逃したんだろう、絶対Twitterとかでいろんな人が話題にしてるの見たはずなのにな…?と考えていてふと気づく。

もしかして:就活

というわけで自分のことを許した。5秒くらいで許した。

 

 

 

強い人というイメージを抱かれやすい手越さんだが、加藤さんは彼を評して「やさしい」と言う。今回のインタビューの彼も、終始強かった。強靭でポジティブで迷いなくて、強くて、そしてやさしかった。

「『星をめざして』で初めてセンターに立ったときから、なんて気持ちのいい場所なんだろうと思っていた。ずっとセンターになりたかった」「2人が脱退すると知ったときは俺がメインになるチャンスだと思った」「不思議なことに、2人を見ても元々同じグループだったという気がしない。最初から今の4人で組んでたような気がする」

手越がいれば大丈夫だ――ページをめくりながらいつもと同じことを思った。大丈夫、手越がいるから。

 

 

私は、徹底的な自己プロデュース≒キャラづくりでガチガチに身を固めている増田さんのことをよく『アイドルモンスター』と評しているけれど、彼の隣に立っている手越さんもまたある種のモンスターなのだろう。彼の武装は増田さんよりずっと不器用で生きづらそうだ。

増田さんがキャラクターを身にまとって生きているのに対して、手越さんは人格を身にまとって生きているように見える。「カメラさえあれば怖いものなんてない」「カメラさえ回っていればどんなことでもできる」と豪語するけれど、きっとそんなもんじゃなくて、カメラどころか人の目さえあればいつだってみんなが知ってる手越祐也なんだろうなと時々思う。『みんなが知ってる手越祐也』なんてそんなもの所詮パブリックイメージなのに、絶対にそれを脱がないで、いつもいつでも『手越祐也』でいてくれる強さを手越祐也は持っている。『手越祐也』でいてくれようとする優しさを持っている。

(手越祐也って単語がゲシュタルト崩壊しそう…)

 

そもそも明星の『裸の時代~僕がジュニアだった頃~』『Stand by me ~いつもそばにいてくれたね~』という企画名自体が暗に「インタビュー対象の本音を引き出しますよ」「彼らの弱音や裏の姿を見せますよ」という意図を見え隠れさせる。

実際、そういうものをさらけ出してくれる人のインタビューはとても心動かされるし、加藤さんのインタビューとかもうこのまま一本映画撮りたい気分にさせられる。この人のことずっと見てたいし、この人の言葉ずっときいてたい!と思う。

ところが手越さんのインタビューは勇ましすぎて、そういう感じはあまりしない。10000字インタビューじゃなきゃこんなこと聞けない!って話もあまりなかった。読んだ率直な感想をさっくり述べると、“「俺は『手越祐也』であって手越祐也じゃないし、ずっとそれで生きてるしそれでいいと思ってるから、生身の俺とか裏とか中の人とか探りに来るのマジ迷惑」って言われてる気になった。”である。

 

 

 

歌手や俳優などと違って一個人そのものが消費の対象となるアイドルという職業において、ありのまま剥き出しの弱さを見せてくれる加藤さんのやさしさと、極限まで濃縮した強さだけを見せようとする手越さんのやさしさと、どちらが正しいのかを私は知らない。きっとどちらも正解なのだと思う。

誰もが手越みたいに強く生きられるわけじゃないんだよ、と叫びたくなることがある。「俺、迷う意味が分からない」とか「俺が生きてきた人生の中のどれか一つでも欠けてたら、今の俺はいない。すべての出来事に感謝してる」とか、さらには「努力の先に成果があるなら、それが楽しみだから辛くない」なんて、強すぎる言葉の数々を彼は吐く。

その度に、誰もがお前みたいに生きられるわけじゃないんだぞ、と思う。

 

 

でもきっと手越だって、そんなことはわかっているのだ。それでも、『手越祐也』はそう思うから、いつだって彼はそうとしか言わない。そう言うことを選んできた。動いたりとまったりする心臓なんていらない。動き続けるから心臓なんだ。

アイドルに対して24時間365日アイドルでいてくれなんて願うのは不条理なことだとわかっている。だけど手越はそうしようとするくらい優しくて、そうするくらい強いから、そんな不条理な願い以外にできることが見つからない。どうか手越が志す通りに彼の精神力が無尽蔵なものでありますようにと、めちゃくちゃな願い事を今日も彼に押し付けて、にやにや彼を眺めてゆこう。

 

 

っていうプロローグでした。

私の頭の中にあるものはなんなのか

 

今日のブログは書くことについてしか書いてないです。ジャニーズ要素はゼロに近い。

 

 

 

私は増田貴久さんのことが好きで好きで好きで好きだが、加藤シゲアキさんのこともとても好きだ。増田さんは私にとって外的対象の中で最も高いところにいる人で、加藤さんが内的対象としてトップに君臨している。

 

というとめちゃくちゃ伝わりづらいが、まあ簡単に言うと増田さんが感心したいもので加藤さんが感情移入したいものとでもいえばいいのだろうか。同じ漫画というものの登場人物だとしても、増田さんはルフィで加藤さんはヤマシタトモコ作品みたいな。(ワンピースの主人公ルフィは基本的に心理的なモノローグがほとんどないし、ルフィの性格があまり一般人に寄っていないので感情移入しづらい印象がある)(最近読んだヤマシタトモコ作品の中では『ひばりの朝』の富子さんとかめっちゃ加藤さん力高かった)(加藤さん力ってなんやねんて感じだが)

なんかきちんと伝えられている気が全くしないが、まあ要するに私にとって楽しみ方が全然違うということだけわかってほしい。

 

増田さんがプロデュースして届けてくる結果としてのアイドル増田貴久が死ぬほど好きだし、剥き出しの自分をぶつけてくる加藤さんの過程と生き様としてのアイドル加藤シゲアキも死ぬほど好きだ。

 

 

そんな私にとって脳で愛するタイプの人である加藤さんが、先日28歳の誕生日を迎えた。

加藤さんは元が老けg…大人びた容姿なのもあって、ここ数年外見に年齢が追いついてゆき中身も深みを増して、どんどん魅力的になっていくなあと思う。

彼が7月13日に冠ラジオSORASIGE BOOKで語っていた抱負(?)がとても素敵だった。

 

 

以下ざっくり概要を。

 

28歳は苦しむ1年にしたい。去年は楽しもうと思って楽しすぎたから、今年は苦しむべき時にはきちんと苦しもうと。

何事もメモる習慣をつけていこうと思っている。アイディアもそうだし、日常生活の中で楽しかったこととか悲しかったこととか、色々とメモしていきたい。いろんな番組に出る際のアンケートなどで結構『最近悲しかったこと』『最近うれしかったこと』とか訊かれるんだけど、意外と忘れてる。決して毎日を平穏無事に過ごしているわけではないからいろいろあるはずなのに、ついつい忘れていってしまうのはよくない。

という感じで日々を大事に過ごしたい。

 

 

(いつも通り主旨しか合ってない)

(正確な発言が気になる方はきちんと文字起こししてくださってる方のところへどうぞ。シゲさん今日もめっちゃいいこと言ってる…ぜひ聴いてほしい…)

 

 

ああもう!こういうとこ!あなたのこういうとこが好きなんだよ!!

 

と思った一瞬後に気付いた。

これ、同じこと私やってるぞ。

 

書いた時期が明確に特定できる一番古いもので2005年、小学6年生の頃から、楽しいこととか悲しいこととかをノートに書き留めている。この習慣もう10年続けてるのか~と思うと不思議な感じだ。

今見返すととりあえず内容の前に字が汚すぎて泣きたくなるのだが、不安とか不満とか親にも友達にも言えなかったことがあれこれ書いてある。あと謎のヒヨコのキャラクターとか謎のカッパのキャラクターとか教科書の挿絵の気に入ったやつ切って貼ってたりとかレタリングの練習とか、なかなかのカオス。カッパは今私のTwitterのアイコンになっている。あ、はてなのアイコンもだ。

10年書いてて気づいたことが2つある。

 

 

 

まず1つ目。感情は風化する。

 

書いたのが中学生の頃でかつ公開しても憤死しないで済む内容のやつを少し探してみたが、ダメージが少ないものに『膝が痛い話』があった。憤死はしないが鳥取砂丘を目指してチャリを漕ぎ出したくなる程度には恥ずかしいぞ☆★

さらっと背景を説明しておくと、私は小学校1年生から中学3年生までずっと同じスポーツをやっていて、中学2年生くらいから膝の痛みを感じるようになった。といっても別に大した痛みでもなくて、普通に練習をやっていたし普通に試合にも出場していた。なんならレギュラーだった。すごく人数が少なくて、実力云々の前に頭数としても必要とされていた。1人2人けがをするだけで大惨事で、こちらから申し込んだ練習試合なのに人数不足でキャンセルしたことさえあった。

人数が少ないから1試合フル出場どころか2試合フル出場も当たり前で、特に私は身長と体力的にほぼ必ずフルで出ていた。同じチームで私と同じく小学生からの経験者はみんなそうだったし、未熟な成長期だったので身体のどこかが痛いのもわりと当たり前だった。でも怖かった。

 

ひざが軋むたび 肩が軋むたび こわくてたまらない

リタイアしていい痛みとはなんだろう どのくらい痛かったら休んでいいんだろう

ぼくはみんなと同じ痛みを感じているのかな

一つ一歩一本一度

軋むこの身体は実はなんでもないんではないだろうか

ぼくが不良品なだけなんじゃないだろうか

 

14歳か15歳の私の文章である。なんだこれセルフSMか。マシな文章の中からマシなところを1/3くらい抜いてきた。全文載せたらマジで死ぬのでやめておく。

今にして思えば病院行けよで済む話だが、別にそこまで痛くはなかった。普通にやれた。だからこそ怖かった。事実として痛みはあるわけで病院に行けばなんらか診断が下ってしばらく部活はできなくなるだろうし、放っておいても大丈夫なら放っておきたかった。(疲労骨折とか膝の痛みとかで長期離脱している子の存在が人数不足に拍車をかけていたのもあって、病院=離脱だと思っていたしできる限り抜けたくなかった)

大丈夫なら放っておきたかったけど、大丈夫ならなんで痛いんだろうと思ったし、休んでいる子たちはどれくらい痛いんだろうとも思った。もしも私が彼女たちと同じくらい痛いなら自分も抜けてしまいたい、けどわからない。どれくらい痛いのまでが普通でどれくらいからが駄目なのか、誰かに教えてほしかった。

 

 

結局私は平穏無事に引退までレギュラーとしてやりきった。そして高校では全く違う文化系の部活に入りゲームと漫画にまみれた3年間を過ごした。

中学の女子の部活なんて、そんな大したものじゃない。別に人生に決定的な影響を与えるほどのものじゃない。中学でも高校でも恋愛もしたしそっちの方がよっぽど心乱されて価値観変わったし、とにかく結果的には、あの頃膝が痛かったことは私にとってそれほど大した問題ではなかった。

 

だからたぶん、書かなければ忘れていたと思う。

これはもう本当に加藤さんの言う通りで、日常生活の中の些細な出来事なんて人間はどんどん忘れていく。これってすごく普通のことだし、生きていくなら必要なことでもある。だけどもしもそれが嫌なら、どこかに書いておく以外に残す方法はないと思う。

私は単に吐き出したいがために書いていただけだが、書いたことによってそれに気づけた。

あったことも思ったことも、人間はどんどん忘れていく。忘れたことにすら気づかないで、どんどん前に進んでいく。

 

いや、もしかしたら私が書いてみるまで気づかなかっただけで、そんなことみんな自覚しながら生きているのかもしれない。けれど、少なくとも私は書かなければ気づけなかった側の人間で、それだけでも書いててよかったなと思う。

それをやってみるまでもなくきちんと自分の忘却の自覚にいたった加藤さんすごいなーと改めて思うんだけど、実際どうなのかな。みんなそんなのわかって生きてるのかな(笑)

 

 

あと、『忘れる』に関してもう一つ。これは多分私特有の話なんだけど。

私が書いたノートを見返すと、びっくりするくらい内容が重複している。

もうね、「○○だと思ってたけど実は▽▽かもしれないしそんな私ってほんとは××なのかな…」って書いた3日後くらいに「ほんとは○○じゃないのかな…私って▽▽で××なのかな…」とか平気で書いてる。それつい最近も書いてるよ!なに「この内容書くの初めてです」みたいな深刻なテンションで3日前と同じこと書いてんだよ!!と思わず自分に突っ込みたくなる。しかもこれをやっている回数が一度や二度じゃない。

人間って、本当に、なんでも忘れる。

いや、人間じゃなくて私固有の問題のような気がすんごいするけど。

自分で言うことでもないけど、私は決して記憶力が悪いわけではないと思う。勉強面で暗記に困ったことも特にないし、人の誕生日や無駄な豆知識などは覚えすぎていて気持ち悪がられることさえある。そんな風だから、自分がこんなになんでもすぐに忘れる鳥頭だということに気づけたのはひとえに書く習慣のおかげである。せっかく気づけたのだから、今後も自覚をもって生きていきたい所存。

 

 

 

 

 

2つ目。思考は言葉にするまで不可視だ。

 

人間の頭の中にはいろんな考えが渦巻いているけれど、頭の中にあるだけの状態だとその思考はあくまで『思考の前身』であって、まとまった考えや思い、考察などにはなりえない。

これはたぶん1つ目の風化とは違ってほぼ確実に私以外の人もそうだと思う。

頭の中にあるものは、頭の中にある段階でははっきりとした形はとれない。人間の脳は我々が扱う言語よりずっと柔軟だから、もやもやのままでも自分の感情ときちんと結びつくしそこまでの気持ち悪さもない。不定形の『思考の前身』は、言葉によって切り分けられて枠を与えられて初めて確かに認識可能な『思考』へと進化する。別に書かなくてもよくて誰かに話すのでも全く問題ないけれど、言葉にするのとしないのとでは自分の思いの認識精度と保存性が段違いだ。

 

例えば、「男に裏切られた…つらい…なにこれなんも言えない……」みたいなときはとりあえず誰かに話すなりTwitterの裏垢にでも吐き出してみた方がいい。それで「裏切られたけどまだ好きだけどアイツが悪いけど憎みけれないけど辛い、いや憎悪がもあるんだけどでもやっぱり愛もあってでもでもでも!!」とか叫んどいた方がいい。そうすることで、自分が今何を考えていてどうしたくてどういう気持ちがぶつかり合っているのか認識できるので機会があったら是非。

まあ早い話が私にとっての山下くんである。どんなにもやもやした『なんとも言えない気持ち』『複雑な気持ち』を抱え続けていようが、そのもやもやを直視してそれぞれの感情に目を向けてみるまではそれは所詮もやもやに過ぎない。別に嫌いでもないし好きでもないし愛してもないしそこまで苦しくもない。とてつもなく大きい苦しみの予感があるだけだ。(予感があるだけでも苦しくはあるけど)

 

 

気持ちは、言葉にするまで実体を持てないのだ。

 

 

 

気持ちに限らず思考もそうで、これが私がブログを始めた理由といってもいい。

自分の気持ちと考えをきちんと切り出して可視化したい。以前言及したV6とKinKi Kidsの比較記事を書かれた方は自分のブログの説明文に「自分の頭の中を可視化するためのブログ」と書いていらっしゃって、もうそのままこのブログのトップに貼り付けたいくらいだ。

 

ちなみに個人的に、増田さんはこの『自分の気持ち/思考を言葉で切り分ける能力』が極端に低い印象がある。頭の中には確かに何かがあるのに、それを伝達可能な形にできたら素晴らしさをわかってもらえるのに、そうできない。きっとものすごくもどかしいだろうなと思う。

ただ同時に、その能力が欠けていることが結果的に、視覚に特化したビジュアライゼーションや新奇なアイディアなどの増田さんの強みに寄与しているとも思うので、彼を見ているのはとても楽しい。

私はどちらかというと思考切り出しの方にステータスが振ってある加藤さん型なので、それも自分が増田さんに惹かれる理由の一つなのかなと思う。

最初の方にぐだぐだっと説明した『感心の対象・増田貴久』と『感情移入の対象・加藤シゲアキ』の話が多少は伝わっただろうか。

 

 

 

 

とりあえず今のところは書いててよかったなーと思うので今後も続けていきたいなーと思う。何より、加藤さんと同じことしてるってなんかテンション上がるよね。

この習慣の欠点として、ノートが家族や恋人、友達の目に触れるようなことがあると、よくも見たなお前を殺して俺も死ぬって感じになるので保管にだけは気を付けたい。

 

 

 

 

 

 

最後に一つ。

自分のブログの感想を見ていて、「文章上手いなこの人!」系のことを言ってくださる方がちらほらいらっしゃってうれしい限りだったのだが、この習慣と文章力はあんまり関係ないと思っている。自分の心を落ち着けるために書いているようなところがあるので事実の説明には力を入れないし、100%主観で書いている。

文章力が欲しかったらとりあえず文を読むのが一番だ。小説でも評論でも何でもいいと思うし、なんならなんとなく文体が好きなブログとかでも構わない。インプットなくしてアウトプットはなしえない。書きたいなら読んだ方がいい。

 

 

ちなみに私は直前に読んだものにめちゃめちゃ引きずられるタイプなので、舞城王太郎作品を読んだ後は文体が完全に舞城王太郎になったりする。が、しかし、文章力的に真似できるようなものでもないのでそういうときの文章を後からと見返すともれなく憤死する。

憤死するけどインプットの重要性を実感しながら憤死しているのできっと無駄な死ではないと思う。高校生の頃初めて『好き好き大好き超愛してる。』を読んだ後は自分の文から彼を追い出すのに本当に時間がかかった思い出。

 

まあ読め読めといいつつ私ここ数年はあんまり読書してないんですが。

「話題になった『山下智久を許したい』を読んでブログ書きましたー」とか「ブログ始めましたー」って方が何人かいらっしゃってとてもうれしかったです。はてなブログは面白いこと書いてる方たくさんいらっしゃって本当に楽しい。

 

読むのも書くのも楽しいんだよと増田さんにわかってほしいけどわからないでほしいジレンマを抱えながら今後も書いていこうと思います。

しかくとさんかく/僕の奥底にしまい込んだ僕が、君の前でだけ顔を出す

 

もうとっくに過ぎてしまったけれど、本当は7月4日に増田さんについて気持ち悪く語る記事を上げるつもりだった。我ながらやり方が歪んでいる気がするが、好きな人の誕生日を何かしらの形で祝いたいと思うのは人としてごく普通の心理だ。

 

現実は無情なもので彼の誕生日はとっくに過ぎてしまったが、深く考えずやっぱり語っておくことにした。

遅刻にもほどがある遅刻である。私は夏休みが終わってから宿題に手を付けるタイプなのでまあしょうがない。

 

ちなみに私の出身高校は地方の自称進学校(笑)というやつで、そういう学校にありがちな『週末課題』とか『夏季特別講習』みたいなやつも御多分に漏れずめっちゃあった。が、極力やらないで極力手を抜いて3年間過ごし切った。先生ごめんなさい。

増田さんもたぶん、いや確実に学校の勉強には真面目に打ち込んでいなかったタイプだろう。本人の話を聞いていてもそれっぽいことを時々言っている。手越さんと加藤さんは東京でそこそこハイレベルな中学受験をしているので、その時点である程度勉強という行為に耐性がついているというか、『勉強』という概念がきちんと内面化されているように感じる。小山さんはどうだろう。高校受験に失敗したのが一つの契機となってジャニーズに入った小山さん。毎日泣いていた小山さん。

もしも彼らが普通に学校に通って、普通に大学に行って普通に社会に出ていたら、どんな大人になっていたんだろう。

 

個人的に、一番想像がつかないのが増田さんだ。

早々にこの道で食っていく覚悟を決めていた増田さんは、高校選びの時点で既にそれを念頭に置いていたし、その後運よくつかんだデビューによってアイドルモンスターとしての生き方を突き進み始める。

だからきっと、アイドルにならなかった増田貴久は、私が知っている現実の増田貴久とはもう全然違う人物なんだろうなと思う。アイドルであるということが人格の根幹を占めているような人だから、きっと考え方も性格も価値観も何もかも、アイドルであることの影響をどこかに受けながらここまで来たはずだと思うのだ。

 

でもふと目にする場面場面に、『ジャニーズじゃなかったとしてもここは変わらないんだろうな」『ジャニーズじゃなかったとしてもこういう風だったのかな』って部分もある。そういうところを見て愛しく思ったり、ちょっと胸が痛んだりするのは私だけだろうか。

 

 

そして話はタイトルへと戻る。

今日のお題はコヤマスです。

 

まだテゴマスについてもコヤシゲについてもろくに語っていないのに、あえてのコヤマスである。なんか最近この2人きてるからまあいいかなって。おそらくきてるのは私の個人的な話だが、私以外にもきっといるはずだし、何より語りたい気分だし、まあいいかなって!(2回目)

 

ちなみに、この記事読むよりはKちゃんNEWSのコヤマス回を延々聞き続けた方がよほどコヤマスの魅力が伝わると思うし沼にはまる危険性も高まると思う。意味の分からないじわじわとした中毒性と、裏ではどんな感じなのかつい妄想したくなる余白が彼らの魅力です。

 

 

 

コヤマスの一番好きなところをものすごく端的に言うと、『お互い雑』だ。

以上終了。

 

 

 

とは流石に言わないけど。

でも本当に、私がこの紫のきつねと黄色いたぬきコンビが好きななのはそこである。

 

雑なとこ。お互いちょっとどうでもいいとこ。あんまり関心がないとこ。

 

 

というとなんだか人聞きが悪いけれど、そうじゃない。

彼らは互いに自分の相方がどうでもよくなさすぎて、関心がありすぎて、相対的にみるとそういう風になってしまうというだけの話だ。

コヤシゲとテゴマスは、そのあり方や温度についてはあまり似ていないけれど、互いがいなければ今いる今日にはたどり着けなかったこと、それを2人とも自覚していること、という2点に限って言えばとても似ているコンビだ。アイドルでいる限り、ずっと隣にいる人。小山にとってのシゲ、シゲにとっての小山。手越にとってのまっすー、まっすーにとっての手越。

NEWSは別に、コヤシゲとテゴマスでできているわけではない。小山慶一郎加藤シゲアキ手越祐也と増田貴久でできている。でも、アイドル小山慶一郎を構成する要素には確実にコヤシゲが含まれていて、その配分はコヤテゴやコヤマスよりずっと大きい。小山さんだけじゃなくて、4人が4人ともそういう風にできている。

 

 

私は増田さんのファンなので増田さん側からの話になるが、彼にとって手越さんはゆるぎないパートナーだ。きっとずっと一緒に歌っていくのだと思う。そして同時に、一番の理解者は加藤さんだ。一番長い時間を共有してきて、少年からアイドルに変わる過程も少なからず見てきて見られてきた。じゃあ、小山さんは何だろう。増田さんにとって、小山さんて何なんだろう。

 

2人を見ていると、まるで友達みたいに見える。歳相応の友達に。

それが、私にとってのこの2人の最たる魅力だ。気を許せるとか、すべてをさらけ出せるとか、そういうのとは違う。もっと単純で、もっとどこにでもいる、ただの友達。

手越さんといるときの増田さんは、基本的に仕事人の顔をしているかボケ倒しているか手越さんの暴走をいなしているかの3パターンだ。(サンリオピューロランドばりのパステルワールドの住人と化している時間は仕事人に含む)

加藤さんといるときは、大体重めの愛が暴走している。

この2つの顔はどちらも彼がアイドルになって得たものだと思う。アイドルにならなかったらきっと表に出てこなかった、アイドルだからする顔だ。

 

増田さんは、小山さんといるときだけ、29歳みたいな顔をする。

雑で、どうでもよくて、あんまり関心がない。

彼らは運命共同体みたいな顔をしない。こいつがいなきゃ今日まで歩いてこれなかったって顔もしない。君がいなきゃ死ぬなんて、そんな顔は絶対しない。

でもそれってすごく普通のことだ。普通に生きている人間は、恋人でもない限りそんな相手になかなか出会わないし、よしんばそんな風に思える貴重な友がいたとしてもそれを表に出すことはそうない。普通の29歳が、普通に友達に見せる顔が、小山さんといるときにだけちらりちらりと顔を出す。

 

 

小山さんも、加藤さんといるときはとても楽そうではあるけれど、その楽さの根底には彼らの異常な親密さがどっしりと横たわっている。言い換えればそれは絆とでも言うべきもので、その存在をなかったことにして接している時間なんてコヤシゲには一瞬もない。手越さんといるときはいろいろ論外すぎて何も言えないっていうか私の常識だとコヤテゴは図り知れなさ過ぎて思考回路が1ミリも想像できない。楽しそうで何よりです以外になんか言うことある?私はない。好きですけど。ラジオ聴きながら深夜に一人で笑ってますけど。

増田さんといるときの小山さんは、加藤さんといるときに比べたら楽そうでも自然体でもないのかもしれない。ないかもしれないけど、増田さんがそうであるのと同じように、小山さんもやっぱり一番年相応な顔を見せるのは増田さんに対してだとだと思う。

雑で、どうでもよくて、あんまり関心がない。

 

 

アイドルのファンとして、瞬間的に燃え上がるような熱を提供してくれるようなコンビではない。

たとえば親友だよって言い合ったり、同じベッドで眠ったり、カバンのポッケいっぱいに何か詰め込んだり、顔に丸出しのケツを押し付けたり、楽屋で寝ていたらガバっと足を開いて狩りにいったり、ていうかやっぱり手越さん頭おかしいな。とりあえず手越さんのネジがちょいちょい外れるのはいったん置いておいて、コヤマス2人にこういうガソリンは基本的にない。

でも、2人でいるときの空気には妙な心地よさがあって、とろとろ燃える炭火のようにずっと眺めていたくなる。ずっと手をかざしてその心地よい暖かさを感じていたい2人だ。

 

 

アイドルとして今日まで走ってくる中に、たくさんの挫折があったと思う。山ほどの心折れることがあったと思う。自信を失いかけることも存在意義に悩むこともクソほどあって、きっとそれを一つずつ一歩ずつ乗り越えながら今日に辿りついて、今日の自分を手に入れた。たくさん悩んで、山ほど努力して、クソほどいろんなものを身につけた彼らが、今私たちの目の前に立っている。

その、たくさんの悩みと山ほどの努力とクソほどたくさんの身につけた成果をぎゅぎゅっと着込んでいる彼らは、その着込んだものまで含めて彼らだ。着込んでいるって言ったけど、本当はとっくに彼らの血肉になっている。血肉なんだから、そこまで含めて彼らなのは当たり前だ。

あんまりうまく言えないのだけれど、一本の樹みたいなイメージかもしれない。悩みも努力も成果も彼らの年輪になっていて、立派に彼らの一部だ。だから、その年輪が『ほんとうの彼ら』ではないなんて言いたいわけじゃない。年輪を全部剥ぎ取ったところで、『ほんとうの彼ら』なんて出て来やしない、年輪も含めて全部で彼らだ。でも、そうやって歩んでくる過程での成長の結果今は見えなくなってしまったものが、コヤマス2人でいるときだけ、ほんのちょっぴり顔を覗かせる気がするのだ。

ほんのちょっぴりアイドルみが薄い、ほんのちょっぴり歳相応な、そういう2人がじわじわかわいい。

(追加効果で増田さんのハイパー鉄壁自己プロデュースシールドが若干弱めになるので、いつか彼がなにかしら口を滑らせる日が来るなら小山さんといるときだろうな…という謎の懸念もあるけどそれも含めてかわいい)

 

まあこれ全部私の妄想なんですけど。

 

 

 

そう、妄想なのだ。全部妄想。

コヤマスの魅力としてもう1つ、彼らの余白の大きさ、底知れなさを外すことはできない。

 

まず大前提として、コヤマスが仲良くなったのは結構最近である。最近というか、4人になってから。そして恐ろしいことに、近年彼らの距離は縮まり続けている。

念のため言っておくけど、NEWSは今年で結成12年だ。コヤマステゴシゲはJr.時代からある程度一緒にやってきているので、ともに歩んできた時間はもう少し長いけれど、とりあえず同じ運命を手にしてからは12年。

 

12年一緒にやっててこの期に及んで仲良くなるってお前らどうなってんの。

 

 

4人になって一番関係性が変わったのってコヤマスだよねえ~というのは、結構みなさん言っていることのように思う。

今さら。ここにきて。

 

 

この2人の、本当に仲よくなったんだな、と思うところは、プライベートにまつわるエピソードが多いところにもある。

スマホケースをなぜかお揃いにしていたエピソード(今はもうお揃いではないけど)とか、私は結構唖然とした。あれっ?この2人そういうことするっけ?と。あとは靴をお揃い(厳密には素材違いの同じ型)にしていたり、お互いの服を真似したり(主に小山さんが増田さんを真似するが、まれに増田さんが小山さんを真似することもあるらしい)(そして増田さんは小山さんの真似をするのが少しいやらしい)(じゃあ真似すんなよ)(そんな自意識との葛藤を乗り越えてまで欲しいほどセンス一致してたのね)、なんかそんなJr.みたいなことする2人だったっけってなったのはきっと私だけじゃないだろう。

で、これって全部、私たちの目に触れることはないものなんですよね。スマホケースとかその最たるもので、基本的にファンの目には触れないし、小山さんも増田さんもそれなりにお洒落な人だから、話の種としてしか使えない形の『お揃い』をファンサービスだけでやったりはしないと思うのだ。特に増田さんとか、趣味に合わないスマホケースなんて絶対使わなそう。

服に関しても、30前後のそこそこ収入あるお洒落な人が買う服って、どう考えてもまあそこそこのお値段だろう。それを真似するって、本当に真似したいからだろうし、本当にセンスに似たところがあるからだろう。

 

なんなの?どうなってんの?

まず2人とも数年前まで全然ファッション似てなかったし、何なら今もそこまで似てないじゃん。増田さんてわりと前衛的過ぎて一家に一匹で十分なタイプのたぬきじゃん。小山さんどちらかというと加藤さんにファッション似てるじゃん。って思ってたんだけど私の勘違いでした?とたいそう困惑した。困惑している。

 

 

この、ちょいちょい話に出て来はするけど我々の目にはとまらない、見ようがないところで仲を深めているのが恐ろしい。

コヤマスの仲の良さは、彼らが発信してくれない限り我々の元まで届かない。そしてきっと、そのすべてを彼らが発信してくれることはない。どうしても発信がコヤシゲとテゴマスに偏りがちなのも大きいが、とにかく見えない部分が多い。

 

お互いの扱いが雑だ。そこが好きだ。

でも本当に?私たちの目に見えない裏側の彼らは、どんな風でもおかしくないような気がしてしまう。本当に雑なの?実は裏ではお互いデレデレなんじゃないの?

どうなってるの?私たちの目の届かないところでどんなことでもしてるんじゃないの?

 

 

まあこれも全部私の妄想なんですけど。

 

 

 

雑さ、中毒性、底知れなさ、余白。

 

 

 

これ、一回気づくとほんとに抜け出せなくなる。

小山さんといるときにだけ増田さんが見せる顔が、増田さんといるときにだけ小山さんが見せる顔が、好きで好きで仕方ない。

彼らがこれからどうなっていくのか、とても恐ろしくてとても楽しみだ。