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英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

優等生と自転車少年/君が集めた銀河の砂を世界一綺麗なキセキにするよ

 

世の中には2種類の人間がいる。やるべきことをすぐにできる人間と、期限ぎりぎりまでやらない人間だ。残念ながら私は完全に後者に分類される人間である。

 

というわけで本当はピングレプレゼン会のパワポを作らなければならないのをいったん置いておいてNEWSのコンビ語り第4弾をします。マスシゲです。シゲマスです。8年かかっていまだどちらで呼べばいいのか定まらない金八コンビです。愛しくて優しくて少し切ない、いつまでもこのままでいてほしい2人。

2015年はコヤテゴの供給がとんでもないことになっていたので、その道連れなのなんなのかシゲマスもちょいちょい絡んでいて楽しかったですね。4人になってから増田さんがデレを爆発させる相手が加藤さんだけになってしまったので、気持ち悪い感じに(笑)デレデレしている増田さんをみられるのは基本的にマスシゲ絡みだけになってしまいました。昔からずーっと変わらずに加藤さんにデレデレな増田さん。どんな時代も変わらず「シゲかっこいい」といい続けてきてくれた増田さんには頭が上がりません。まあ私増田担なんですけど。めんどくせえ増田さんを適当に適切に処理してくれて増田さんの意志を汲もうとしてくれる加藤さんにも頭が上がりません。シゲマスの方向にお辞儀しながら生きていきたい。

 

 

 

・軌跡⑴――エリートと雑草

「NEWSで一番付き合いが長いのはしげ/まっすー」と割とことあるごとに本人たちも発言しているが通り、金八コンビの付き合いは長い。増田さんが1998年11月入所、加藤さんが1999年4月入所なので、かれこれ16、7年の付き合いということになる。言うまでもなく、NEWS内ではコヤテゴよりもテゴマスよりもコヤシゲよりも、どのコンビよりこの2人の付き合いの方が長い。長けりゃいいってもんじゃないけど、長い分だけ思い出も増えるのもまた一つの真実だ。2人の歴は半年ほどの違いだが、加藤さんが入ってすぐの頃に「新しいやつが入ってきたぞ」みたいな感じでJr.仲間と取り囲んで質問したことを増田さんが回想している。多分これが2人のファーストコンタクトのはず。ちなみに、増田さんが合格したのは大型のオーディションで同期もなかなかの数いたそう*1だが、加藤さんはテレビ番組『8時だJ』内でのオーディションでジャニーズしており、入所段階から若干エリートだ。厳密に同期といえる人(入所日まで同じ人)は多分いない*2*3

入所段階から若干エリートだった上に小学1年生からお受験のための塾に通っていた加藤さんは「受験を放棄したくなかった」という理由で小学6年生の後半は休業に入った。なかなかの勇気。入所してすぐに沖縄に連れていってもらい、マイクを持つまでもかなり早かった加藤さんは受験後ジャニーさんに「受かりました!仕事またしたいです!」と臆面もなく電話し、すんなり仕事に復帰した。金八のオーディションの時も、周りに「いけるんじゃない」といわれていたそうで、少なくとも待遇と実績だけで言えば間違いなくエリートだった。それに実力が伴っていたかというと、残念ながら本人の認識の上ではまったくそんなことはなく、1回目の10000字インタビューでは「できてないのが分かるのに立ち位置がドンドン前になって…」とその苦悩を思い出している。実際、入所から今に至るまで加藤さんは歌を得意だと思っていたこともダンスに自信を持っていたことも一度もなさそうだ。加藤さんは声変りが早く入所時から既に低い声だったそうなのでボーイソプラノが出なくなる恐怖は味わっていないだろうけれど、歌に自信があった時期は一瞬もなかったということにもなる。しかし実績はある。多分プライドもあった。加藤さんはそんなエリートJr.だったのである。

一方の増田さんの歩みは、加藤さんとはずいぶん違う。増田さんはオーディション時も合格こそしているけれど『そのまま雑誌取材組』には入れず、歌番組などでも度々『リハには呼ばれるけど本番には出れない組』を経験したと語っている。それでも踊るのは楽しくて、1.2曲しか出れなくてもコンサートが楽しくて…とJr.を続けていた増田さんの大きな転機になったのは2001年7月に出演した舞台『PLAYZONE2001新世紀~EMOTION~』だった。東山さんと踊る役に抜擢され、その姿勢や技術などに大いに感化された…らしいのだが、この時も決して「増田がいい」と選ばれたわけではなかった。踊れて背が低くてなおかつ夜公演にも出られる15歳以上のJr.がたまたま増田さんしかいなくて「増田でいい」と選ばれたらしい。また、金八オーディションに参加できることになったのもこのPLAYZONE公演中に他のJr.が大勢参加すると聞いて意を決して直談判したからで最初は呼ばれていなかったそうだし、何かのテレビ収録でジャニーさんが合格発表をした時も加藤さんと東新さんはいたのに増田さんはいなかったそうだ。ただ、本人談では金八効果でそんなものすごい人気、推されJr.に上り詰めるなんてことはまったくなかったらしい。Jr.時代からのファンの方が「まっすーはNEWS結成直前くらいにはトップクラスに忙しい部類に入っていた」と書いているのを見かけたこともあるし、テレビでの発言などは多少脚色されているかもしれないのでどこまで本当かはちょっと分からないが、どちらかというと雑草タイプだったことは間違いないはずだ。このような経緯もあってか、その頃の増田さんの話を聞いていると『1現場に出れることへのありがたみ』『こいつにこの仕事をやらせようと思ってもらえることのありがたみ』みたいなものが身に沁みついていたらしいことが窺える。ビバ雑草

そんなこんなで東新良和さんも含めた3人での『3年B組金八先生』第6シリーズへの出演を果たした。各々思い入れの深い作品であることは間違いなく、この時共演した人についてはジャニーズ外の人であっても『幼馴染』と形容するのを幾度も聞いている。平愛梨さんや上戸彩さんなど、今でもたまに交流を垣間見ることができる。また、仕事で中学の卒業式に出席できなかった増田さんにとって金八での卒業式は一際感慨深かったようで、リハーサルから号泣していたことをたまにいじられている。私自身は1シーズンたりとも観たことがないのだが卒業式のシーンは恒例のものらしく、またほとんどアドリブで進行するらしいのである種本物の『卒業式』なのかなあと思う。つかみ取った経緯は違えど、加藤さんと増田さんの両方にとって経験出来てよかったと心から言える仕事であることは間違いないないのだろう。そして、2人の心に特別な絆が結ばれていることも。

 

 

・軌跡⑵――エリート根性と雑草

NEWS結成段階では、やっぱり加藤さんはエリートだったし増田さんは雑草だった、と思う。なんせリアルタイムで観ていないのであんまりそんなによく分からないのだが、「NEWSができたときは、金八で一緒だったシゲ以外はそんなに知っている人もいなくて、エリートばっかりで…」とか「他の人は『あれっまっすーがいる』って思ったんだって」などの話もあるし、多分加藤さんの方が人気はあった、ということにしておく。

ちなみに、現NEWSメンバーのJr.時代からの彼らのレギュラー番組に『Ya-Ya-yah』があるのだが、ここでも加藤さんは2003年1月からのレギュラーだが、増田さんはそうではなかった。手越さんと共にレギュラー入りを果たしたのがNEWS結成直前の2003年9月7日だそう。初の本格的な出演?は同年6月らしいがここら辺はあやふやな上に当時を知らないやつが語っても…と思うのであまり気にしないでください。

 

で、だ。

 

ジャニーズ事務所に入ってからデビューまでの加藤さんは間違いなくエリートだったし、増田さんは雑草だった。これは間違いないと思う。しかし今、加藤さんをみてエリート根性というか、そういう何かを感じる人はおそらくほとんどいない。8年前には既にそういう見方は少数派だった。

 

 

herodontsing.hatenablog.com

 

これは昨年加藤さんと増田さんの10000字インタビューを読んだときの私の感想なのだが、2人の覚悟に対する印象は変わっていない。増田さんがNEWSに関して抱えているのは『泥を塗らずに背負い続ける』という覚悟で、加藤さんが抱えているのは『泥にまみれてでも進み続ける』という覚悟だ。泥を塗らない、という生き方。泥にまみれてでも、という生き方。不思議なことに、増田さんの方がよほどエリート根性をもって生きているし、加藤さんの方が明らかに雑草魂に支えられている。

9人時代の最初の頃から自分が歌も踊りも周りに劣ることを否応なく自覚していて立ち位置もそれほどよくはなかった加藤さんは、6人時代には完全に『いじられキャラ』の立ち位置を確立してしまっていた。小山さんと2人でMCを担っていたが、加藤さんが小山さんをいじることより小山さんが加藤さんをいじることの方が圧倒的に多く、加藤さんをいじることでNEWSの面白さが担保されていた部分も多少あったように思う。「小山は2人の時優しいのにMCだとあたり強い…」という加藤さんの発言もこの頃なされたものだ。(当時の私はただ萌えているだけだったが今にして思うと、ね)(余談だが、今の小山さんが加藤さんにデレデレなのは、加藤さんをいじったり下げたりすることなく『楽しい』『面白い』を生み出す方法を見つけたからなのかなと思っている)

増田さんは、この頃から今までずっと変わらず「しげかっこいいよ」と言い続けている。6人時代のことを思い返してみると「マッスーといえば手越or錦戸くん」というコンビでの人気が高かったような気がするし、「しげといえば小山or錦戸くんor山下くん」というコンビの人気が高かったように思う*4。それほど表立って絡んだり営業(?)していた印象は特にないけれど、NEWSの他のメンバーがそうだったのと同じように増田さんも加藤さんのことが大好きなのはよくわかったし、それを隠してもいなかった。

NEWSが結成されてからの増田さんの歩みについてなのだが、正直どんな気持ちで何を考えどう悩んでいたのか、あまり考えたことがない。私個人の話で言えば、悩んでいるのかなとぼんやり考えるようになったのもここ2年くらいのことで、それまで増田さんの苦悩とかそういうものをみたことってあまりなかったなあと思う。なんとなく言えることは3つくらい。

以下3つ全部私の主観の思い出なので「ハ?」って思っても気にしないでほしいのだが、1つ目、「このグループの歌を支えている」という自負はずっとあっただろうということ。テゴマスでも一応順調に活動していて、歌唱力ではNEWSに不可欠な存在だと思えていたことは間違いないと思う。歌と踊りは増田さんにとって絶対的な武器で、自信で、支えだったのだろう。次、「まあまっすーだもんね」って思ってるファンが多分少なからずいて、本人もそう思っている節がなくはなかっただろうこと。ドラマに出て爆発的な人気を博すようなタイプではないことはファンも本人も了解していて、でもそこはまっすーの戦場じゃない、という雰囲気がなんとなくあったような気がする。増田さんはいつだってにこにこで、代名詞は『笑顔』で、下ネタとか男らしさで勝負する人ではなくてananで脱ぐとかそういうことを求められてもいなかった。かといってバラエティでめちゃめちゃ活躍できるような人かというとそんなことはなくて、でもまっすーの戦場はそこでもないしなーと私は思っていた。増田さんには歌があったし、踊りもうまくて、それで十分だった。そこでなら増田さんは十分に戦えていたし、不満があるようにも見えなかった。最後、3つ目。増田さんのガチガチのアイドル美学には「楽しいところ(だけ)を見せるのがアイドル」という意識があったんだろうな、ということ。増田さんが本当の本当に「俺の戦場じゃない」とか「俺はこれでいい」と思っていたのか、不満がなかったのか、といったら、多分全然そんなことはなかったんだろうなあと近年ようやく思うようになった。思うようになったというよりは、そういう思考の言語化を私が私に許してあげられた、という方が正確かもしれない。

すべってばかりの増田さんの発言を拾い上げて笑いに変えてあげる役割を担っていたのが加藤さんだった。みんなと仲良くして、潤滑剤みたいな役割を果たしていたのが加藤さんだった。P亮の懐にいつの間にか入り込んでいたのももちろんだけど、それは増田さんに対しても発揮されていた、と思う。

いつも一緒にいる必要はなかった。それでも大事な人だというのは変わらないから。一番付き合いが長いのもわかりきっていたし、役割分担もはっきりしていて、大事な『幼馴染』を助けてあげたり助けてもらったりしながら、わりと平和な関係を築けていたと思う。当時から加藤さんは結構雑草魂ちょい見えではあったし、そこは増田さんとはイマイチかみ合わなかったかもしれないが、あの頃そこまでコンセプトを突き詰める必要もなかったし物語を売りにするかどうかを考える必要もなかった。増田さんの職人気質というかそういうところはテゴマスにぶつけることができたし、むしろそれでこそNEWSとテゴマスの差別化が図れていたのかもしれない。あの頃のシゲマスを一言で表すなら『平和』だったなあ。幼馴染感はそこまで出てなかったような気がするけどそれは私が観ていなかったからそう思うだけなのかもしれない。仲悪いんじゃねーのって疑う要素もなく仲良しで、かわいくて、雑草魂を秘めた元エリートと、エリート根性を発揮する元雑草は、仲良く4人で愉快な仲間たちをやっていた。

 

 

・奇跡⑴――平和の終わった日

シゲマスの平和は終了しました。といったら変な顔をされるかもしれない。でも本当だ。2011年4月、彼らの平和は幕を下ろした。去年4人分の10000字インタビューを読んでいろんなことを考えた。それはもう色々。私は結局山下くんのことをどう思ってるのかとか、アイドルって結局なんなんだろうとか、そういうこと。その中でものすごく考えさせられたのが、マスシゲの方向性の乖離の甚だしさだった。

チャンカパーナのリリースまで、本当に待った。脱退発表から1週間ぐらいで一応ポジティブモードに切り替えたはした私が思ったことは「とにかく早く動いてほしい」だった。それから、たくさん活動してくれること。年に3公演しかライブがないなんてもう嫌だった。山下くんと錦戸くんがいなくなって人気が落ちるのは分かりきってて、それでもいいから活動してほしかった。全部ホールでも構わない。近くにきて、年に数度の音楽特番以外でも活動して、地に足つけてほしかった。私の思考は随分加藤さんと似ていたのだなあと、4年経ってから知れて面白かった。面白かったけれど泣きたくなった。

大丈夫だよ、安心して、もう裏切らないよって一生懸命伝えてくれていたあの頃、2人の胸にある未来図はこんなにも違ったなんて。それでも一緒にやっていこうと決めて、これからのことを考えてくれていたなんて、嬉しくて悲しくて切なかった。あれほど待ったのは増田さんのゴーサインが出なかったからだったこと。中途半端なものを出すくらいならNEWSを続ける意味がないと思っていたらしいこと。増田さんらしかった。私が好きになった増田さんだった。でも、この2人が共に歩んでいこうと決めてくれたことは奇跡なんだなあと思った。

 

 

・奇跡⑵――雑草魂とエリート根性

シゲマスの方向性の甚だしい乖離が問題点にまでなったのは、彼らがフロントマンになったからだ。今、NEWSの楽曲や衣装、コンサートなどは、昔に比べ明らかにセルフプロデュースの割合が激増している。4人になったことで1人1人の存在の大きさが重くなり、1人1人の意見の反映率も大きくなったことで、みているだけのファンにもこの2人のタイプが違うこと、2人の理想のアイドル像が違うことがたやすくわかるようになった。それを一番分かっているのは当然本人たちで、それでもなんでもないみたいな顔でいろんなものを届けてくれている。

この2人のすごいところは、それでもなお互いが互いについて「あいつの一番の理解者は俺だ」と思っているところだと思う。理想が違う。輝き方が違う。手に入れてきた武器も、目指しているものも違う。それでも、それだけ違っても、一番『わかってる』のはお互いなところがとても優しい。

特にわかりやすいのが増田さんで、ラジオでも「しげの話をしないと死ぬ病気なのでは…?」とファンに揶揄されるくらい加藤さんの話ばかりしている。小山さんと手越さんに対してはそれほどかわいい顔をしないのに*5、加藤さんに対してだけ飛び切りかわいい顔でうざがらみをしにいく。加藤さんがグループ内でいじられ役に徹していたときには加藤さんをしきりに褒めていたのに、そのバランスが変わってからは超積極的にいじりに行くようになったのもやさしさの発露なのかなとちょっぴり思う。このいじるか、上げるかに関しては私の主観でものを言っているので、データ的な証拠は見せられないのですが多目に見てください(笑) だいすき!って顔にも声にも態度にもフルで現れているところがずっと変わらなくて、2人の違いに不安になるたびホッとできる。

アイドルとしての在り方はぜーーーんぜん違うくせに、加藤さんもやっぱり「俺がまっすーのこと一番分かってるよヅラ』が大好きだ。ここからは完全に妄想になるのだが、増田さんの辛さを一番分かってくれているのは実際加藤さんなんだろうなと思う。私はよく加藤さんを形容して『加藤さんは舞台裏まで公開して裏側の様子でさえも魅せるための武器にする人』といっている。脳みそ露出狂なんて言われたりする加藤さんの思考のさらけ出し方は、確かに彼の主人公力を高めてくれていて、戦い方として一つの正解なのだと思う。これと対照的なのが増田さんで、増田さんはたとえるなら『舞台裏の存在を認めない、見せない、隠しているということすら隠す人』だ。もちろんそんなわけはなくて、増田さんにだって裏側も悩みも苦しみも当然あって、でも増田さんは自分のそういう面をファンに魅せるのを極度に嫌う。

4人になってから一番もがいて一番苦しんで一番今の自分に苛立っていたのは、多分増田さんだ。歌と踊りで戦えていたし、自分の戦場では誰にも何にも負けていないつもりだっただろうけれど、客観的にみてこの4年余り一番負けていたのは増田さんだった。出演番組で長く続いたものはなかったし、小山さんと加藤さんのようなテレビに呼ばれやすい売りもなくて、かといってバラエティがめちゃめちゃ得意なわけではないけれど、恋愛ドラマにバンバン出るような需要もないし、これだ!!って思う自分、胸を張って振りかざせる武器が無くて苦しんでいたんだろうなと思う。確かに歌はうまいけど、確かにダンスは上手いけど、そんなのみんな一定レベルではできていて、それだけじゃ渡っていけない。増田さんは『アイドルだから』という種類の魅力はとっても輝いている人だけど、『アイドルなのに』ではとても弱い。この苛立ちを一番分かってくれていたのは多分加藤さんなのではないだろうか。もちろん唯一無二の相方は手越さんに決まっているけれど、増田さんは手越さんに対して「悩み、苦しみをわかってほしい」とはあんまり思っていなさそうにみえる。どちらかというと「こいつにだけは負けたくない」という気持ちが一番強くて、次に「俺の作りたいものをわかってほしい」かなあ。でも、加藤さんに対してはそういうバチバチはなくて、グループの一員である前に幼馴染で、だから傷付いていることを悟られていてもぎりぎり許せるんじゃないかなと思う。

そう、増田さんは、傷付いている事実を知られることが多分大嫌いだ。大嫌いだけど、加藤さんにならそれを悟られていても我慢できるんだろうなと思う。加藤さんだから、加藤さんにだけ許すんだろうなって時々ぼんやり感じる。

本当は、一緒にやっていくのは向いていないのかもしれない。お互いがお互いの武器を殺しあってしまうようなそんな危うさがマスシゲにはあって、そのくせお互いがいないと駄目なんだからおかしくて切ない。それでもきっと心から「いてくれないと嫌だ」って思っていそうで、陳腐な言葉だけれど「尊いなあ」って何度も何度も思う。

 

 

・輝石――NEWSのクリエイター班

この2人は本来的には相性があまりよろしくない、と私は正直思っている。思っているのだが、仕事面でも実はお互い必要不可欠だよね、とも思っている。ダブルスタンダード万歳。

志向する方向があまりにも違うのは、得意なことがあまりにも違うからだ。それは裏を返せば、長所と短所がぴったり重なっているということでもある。

増田さんは優秀なクリエイターだけれど、思考の言語化が極端にへたくそだ。しかも、新しいものを生み出す能力が高い。その結果、『やりたいこと』『作りたいもの』を他人に伝えること、そしてその『素晴らしさ』を他人に伝えることがモノづくりの才能と反比例してしまっているところが多々ある。6人時代は、そんなときにはただ提案を却下されてしまうことも多かったんじゃないかと推察しているのだが、今加藤さんはそんな増田さんのパイプになるべく尽力しているらしいことが伺える。「まっすーのこと一番分かってるのは俺」という自負の通り、増田さんの頭の中にあるきらきらを現実世界に持ち込む役割を果たしているのが加藤さんなのではないだろうか。

増田さんの中にも、加藤さんをいかに魅力的に見せるのか、加藤さんのきらきらをいかに引き出せるのか、という意識が常にあるように思う。増田さんの場合はNEWSのメンバー全員に対してそう思っているのだろうけれど、「俺が一番こいつを輝かせられる」って思っているようにみえる。

「俺が一番こいつをわかってる」から、「こいつの良さも一番分かってるのは俺」で、だから「こいつを一番輝かせられるのも俺」って思っていそうなこのコンビ、ここまで一緒に歩いてこれて本当によかったと思う。お互いを一番きらきらさせられるのはお互いで、理解者の座を譲る気がさらさらない。金八コンビは、たとえるならば手をつないで歩く2人の子供だ。手をつないでいるだけだし別々の人間だから、行きたい方向が全然違うことも多い。その度「どちらにいこう」「どうしよう」と話し合っては手を繋ぎなおして、絶対離さず歩いていく。二人三脚のように脚を縛られているわけではない。おつかいのように目的も行先も決まっているわけじゃない。それでも2人で手を繋いで歩く。離さないのは2人の意志だ。離さないから強くなれる。転んだ傷が痛いことは、お互いだけが知っていればいい。いつかかさぶたになる頃にはきっと笑えるから。転んだことも、頑張ったことも、泣いたことも笑ったことも全部みている。全部いつか輝きに変えてみせる。めんどくさくて頼もしくって愛おしい2人なのです。

 

 

 

 

 

 

去年の7月から始めたこのシリーズ、いつになったら終わるんだろう……

*1:赤西仁さん、亀梨和也さん、藤ヶ谷太輔さん、中丸雄一さんなどが同期

*2:正確には、「いたはずだが既に辞めている」が正しい

*3:いたといっても1人か2人くらい

*4:これに関しては私がこれらのコンビが好きでこのコンビばかり見ていたせいもあるので何とも言えないが

*5:最近コヤマスの距離が本当にものすごく縮まって仲良くなってきて、結構デレデレしているのをみられるようになったけど

映画『ピンクとグレー』感想/余裕で翔べないすべての人へ

映画『ピンクとグレー』2度目の鑑賞を無事終えた。1度目は公開初日の朝イチの回を観たのだが、小説『ピンクとグレー』を読み直す時間がなかったのでちゃんと読んでからも観たいなあと思って2回観た。あと1回は渋谷で観たかった(初回はスケジュールの都合がどうしてもつかなくて大阪で観た)ので。同じ映画2回観たの初めてだわ。

色々考えさせられることがあったので備忘録も兼ねてつらつらと感想を。参考までに書いておくと、

・原作:発売日(2012年1月)に購入して読了

・でもその一度しか読んでなかった

・映画:公開初日と2月1日の2回鑑賞

・原作文庫版:2度目の鑑賞前日に再読

・宣伝やインタビュー、解説など:SORASHIGE BOOKでの言及以外ほぼ何も知らない

って感じなので、監督や役者さんの解説とかと矛盾してるところもあるかもしれません~まあそれも味かなってことで(笑) 考察というよりは解釈に近い感じです。

ストーリーにもガンガン触れるのでこれから映画が公開になる地域にお住いの方は読まない方がいいと思います。

 

 

 

裕翔くんの最後の台詞を聞いた瞬間私はニヤッと笑って、そしたらそのままアジカンの主題歌が流れ始めてちょっと変な感じがした。そうか私は泣かないのか。映画中も別に一度も泣かなかった。エンドロールを眺めながら、泣けなかったなあとかあそこどういう意味かなあとかくだらないことを考えた。スタッフに田口貴久さんて人がいるとかその少し後に増田さんて人も出てくるんだなとか、そういうことも考えた。(ちなみに2回目で気づいたけど錦戸さんと加藤さんもいる)

裕翔くんの初登場シーンの靴が白黒のぴかぴかで妙に記憶に残った。上唇の左側に古い傷跡があるの、知らなかったな。菅田くんの髪型くそダサいと思ったけど後ろでちょこんと結ぶとかっこいい。それから、ごっちのお姉さん綺麗だった。岸井さん初めて見たけどかわいい。それからそれから、コピーバンドでやるのがフジファブリックくるりってなんかいいな、それから、

 

 

それから、少しこわかった。

 

 

正直言って62分後の衝撃は全くの予想通りで大した衝撃でもなくて、でも、そこからの展開はある意味衝撃だった。いや、衝撃とは少し違う。怖い、としか言えない感覚。少しずつ背筋を這い上ってくる、うっすらとした不安。どうしよう。どうしよう、もし、

 

もし、

 

 

 

もしも本当は、菅田将暉さんが中島裕翔くんをこんな風に馬鹿にしてたら、どうしよう。

もしも本当は、行定監督が加藤さんのことをしょうもないと思ってたら、どうしよう。

 

 

 

中途半端にほんの少しだけ試写会に行った人の感想などを観ていて、すだゆとコンビの微笑ましさのレポをなんとなくみていて、だからこそ余計に怖くなった。成瀬凌が川鳥大に思っていたようなことを、本当は菅田将暉も中島裕翔に思っていたらどうしよう。そう思ったから、そう思えたから、私は映画『ピンクとグレー』を肯定することにした。私は映画を正解だと思っている。だけど映画に怒ってもいる。けれど映画を肯定する。

 

 

・映画『ピンクとグレー』が捨てたもの

映画に対するざっくりした印象は、「小説『ピンクとグレー』から可能な限り加藤シゲアキをそぎ落としたらこうなるのかあ」だ。映画では、出会いのシーンの「しょうもな」エピソード/毛虫を握りしめるごっち/スタンド・バイ・ミーになぞらえて大人たちがつけたあだ名/スタンド・バイバイ・ミー/サリーと木本がいなくなって幼少期のうちに2人ぼっちになるという経緯/りばちゃん作曲ごっち作詞のファレノプシスetc etcとにかく2人の関係性に関わるシーン、2人の絆の根幹がカット(あるいは改変)されまくる。あれもカットこれもカットそれもカットついでに改変!祭りじゃ祭りじゃー!!!くらいの勢いだ。

で、このカット&チェンジフェスティバルで何がしたかったのかというと、とにかく加藤シゲアキをそぎ落としたかったのかなあ、と思う。加藤さんの生い立ちや育ちを思い起こさせるような描写はほぼほぼ祭りの餌食(?)になった。その結果、映画ごっちと映画りばちゃんはどちらも加藤シゲアキではなくなった。逆に言えば、小説『ピンクとグレー』では、ごっちとりばちゃんはどちらも加藤シゲアキだった。彼らはどちらも加藤さんの分身で、サリーも多分そうで、登場人物みんなが少しずつ加藤さんだった。小説では、ごっちとりばちゃんは同じ人物で、ただほんの少しのきっかけでいつの間にか全然違う道を歩むことになってしまっただけで、本当は一緒に歩いて行けるはずだった。だから小説の最後は2人が一体化して終わるけれど、映画は決別して終わる。映画の2人は違う人間だから。河田大貴は加藤シゲアキの中の凡人ではなくてただのうだつの上がらない売れない若手俳優モドキだし、白木蓮吾は加藤シゲアキの中の芸能人じゃなくてただのカリスマ芸能人で、だから2人は分かり合えない。一体化できない。

監督のお話などをそれほど読んでいないので見当違いの可能性もなくはないが、すくなくとも私が映画に対して『別物感』とでも言うべき感覚を抱いたのは主にこれが原因だった。で、私が映画に怒っているのもこれが大きいと思う。改変が多いのは言うまでもないが、「加藤シゲアキをそぎ落とす」「2人を分かり合えない他人にする」の2点を目的として手が加えられているので、その改変が、なんというかいちいちむかつく(笑) 私の愛したりばちゃんと私の愛したごっちと私の愛したサリーが画面にいない。木本に関しては愛した記憶ないやごめんね。これから野性時代読んで愛する予定なのごめんね。

小説『ピンクとグレー』に込められた加藤成亮の情念、過去、鬱屈、希望、そういうものが大体取っ払われているように感じた人も少なくないと思う。映画はそれを捨ててしまった。もっと大きな捉え方で言うと、映画はこれらの改変によって『ピンクとグレー』が備えていた特殊性と普遍性を捨て去った。

 

 

・小説『ピンクとグレー』――分身、通過儀礼、自我の統合と確立

特殊性と普遍性についての解説の前に、私にとっての小説『ピンクとグレー』の話を少し。小説『ピンクとグレー』は、加藤成亮にしか書けなかった小説で、けれど誰にでも書ける小説だ。なぜなら『ピンクとグレー』は加藤成亮の分身だから。分身だから加藤成亮にしか書けなかったし、分身だから誰にでも書ける。完全に個人的な見解だが、プロの小説家と趣味の字書きを隔てる最大の壁は『自分ではない人物を描けるか』『自分の分身ではない小説を書けるか』だと常々思っている。そして、この意味で言うと『ピンクとグレー』はプロが書いた小説ではないとも思う。ここら辺わりとデリケートで解釈は様々あるけれど、私はそう思っている(強調)。フォローしている方が作家性の話題でおっしゃっていた、『生きているだけでたまる創作ボーナス』という表現が一番しっくりくるので使わせてもらうが、ピングレはまさにこの『ボーナス』で構築された物語だ。ジャニーズになって、よくわかんないけどなんでか前の方で踊る立ち位置を手に入れて、でも何もかもは上手くいかなくて、デビューはしたけど全然思い通りにならなくて、上手に生きれていない気がしていた加藤さん。幼少期の引っ越しで思ったこととか、売れる人と売れない人の違いが分からないのに差がとてつもなく開いて行ったり、友人の活躍が嬉しいのに喜べなかったり、そういうこと全部。どうすれば上手に生きられるんだろうってとにかくもがいてた人が書く、とにかくもがいてる人たちの話が『ピンクとグレー』だった。自分の人生を振り返って、悩んだこととか楽しかったこととかを題材にして自分を主人公にすれば、誰でも一冊は小説が書ける。ピングレはそういう世の中にあふれる分身の一つだ。上手に生きられなくて息苦しさに喘いでいた若者がどうにかこうにか自分と対峙して、折り合いをつけて立ち上がる話。

そして小説『ピンクとグレー』を語る上で欠かせないのが通過儀礼という概念だ。りばちゃんにとってごっちの死とそれにまつわる一連の出来事、そして小説の執筆は、河鳥大として必要な儀礼だった。りばちゃんが河鳥大になるために、この世界で息をする人間になるために。友達の死体を綺麗にして、彼の最期を作り上げて、彼の唯一無二の語り部になって、そして彼と一体化する。パンフレットで監督が小説ごちりばを「成り代わる」と表現していたが、成り代わるというよりは『成る』、もっと言えば『一つになる』が一番近いと思った。この過程を経て彼はようやく本当の意味で『河鳥大に成る』ことができたのだ。

りばちゃんにとってごっちの死が通過儀礼だったのと同じように、加藤成亮にとってもごっちとりばちゃんは通過儀礼だった。この小説が書かれたのは2011年3月。上手に息ができなくてもがいていた、いや、もがき方さえ分からずに暗闇の中途方に暮れていた加藤さんが見つけた起死回生の一手が小説を書くことだった。壊れてゆきつつある自分のグループをどうにか守りたくて書いたこの作品は、結果的に当初の目的を果たすことはできなかった。「俺にも存在意義を」「俺がいてよかったと思わせられるような『何か』を」という思いは願い通りの形では報われなかったけれど、けれど加藤成亮が『加藤シゲアキに成る』ために決定的な役割を果たしてくれた。自分の分身2人を小説という形にすることで、自分の中のせめぎあう自我を統合し確立するという意味でも、小説家という肩書を手に入れ喉から手が出るほど欲しかった『何か』をついに見つけるという意味でも、『ピンクとグレー』という通過儀礼は決定的な役割を果たした。

だからこそ私は『ピンクとグレー』が愛おしかった。りばちゃんが、ごっちが、サリーが愛おしかった。加藤さんがやっと見つけた一筋の希望の光であるという意味でも、もしかしてNEWSはもう活動しないんじゃないかと思っていた時期に発表された仕事という意味でも並々ならぬ思い入れがある。その登場人物であるごっちやりばちゃんにも、本当に言葉では語りつくせないくらいの思い入れがあるのだ。青臭くてやりきれなくて閉塞感と有り余るやり場のない生命力に満ちた登場人物が好きだ。それは加藤さんをそこに重ねて見ていたからでもあるし、重ねて見てしまうほど圧倒的なリアリティに魅せられたからでもある。ごっちもりばちゃんもそこらへんにいそうなところが好きだった。2人の送る数奇な人生が好きだった。彼ら2人は、私と同じように息をして、笑って、何かを愛して生きている人間だった。私は、ごっちとりばちゃんが大好きだ。加藤さんと魂を分けた存在である河田大貴と鈴木真吾が、本当に本当に大好きだ。

 

 

・映画が捨てた普遍性と特殊性

映画が捨てた特殊性は、そのままずばり『加藤成亮が書いた小説であるという点』だ。これは捨てたというかむしろ維持する方が困難だし、さらに言えば維持する意味もあまりなかったと思う。あのとき、あの状況だから書けた、多分今の加藤さんにはもう書けない作品が『ピンクとグレー』だし、その種々の状況を映画に持ち込むのは不可能だ。強いて言えば、加藤さんを主演にしていればまた話は変わったかなと思う。あの温度と湿度をそのまま再現する方法はそれくらいしかないし、でもそうすると「世界が閉じ過ぎ*1」だなあと思う。で、その結果、温度も世界観も少しずらして加藤成亮をそぎ落とす方向に走ってああなったのかなあと解釈している。やり過ぎなのかそうでないのか何なのかなんだかもうよく分からないけれど『テーマの描き方を235°くらいひねったら必要になる改変』『脱・加藤成亮のために要請された改変』が大半だと思うので、つまりは大体なるようになっただけだと思うので不可抗力なのかなと。何もかもを好意的に受け止められたと言ったらウソになるけどさ。

ただ、普遍性に関してはもう少し何とかならなかったのかなと思わないでもない。加藤さんの魂を分けた存在だった小説ごっちと小説りばちゃんは血の通う人間だった。その人生の軌跡もどこかで起こっていそうなもので、アイドルを好きな人はもちろん、一度でも挫折や懊悩を経験した人ならだれでも心の隅をつつかれるような、そんな普遍性が小説にはあった。で。

 

 

で、ですよ。

 

 

映画りばちゃん、馬鹿過ぎじゃない????

 

 

IQ下げの必要については分かる。この映画に関しては商業的な成功が筆頭意義だとも思う。だけども、本当にりばちゃんが馬鹿なのだ。悲しいくらい馬鹿なのだ。何が悲しいって、馬鹿過ぎてもはやりばちゃんがのことがよく分からないくらい馬鹿なのだ。小説みたいな、ほんの一つ何かが違えばごっちの立場に立てたようなりばちゃんはべつに望んでないけど、せめてそこらへんにいそうな凡人に仕立て上げてほしかった。特に菅田りばちゃんは何考えてんのかよくわからないシーンが結構あった。

普通友人の家で友人が飲み物取り行ってる隙に女の子は襲わないでしょーとか。あとこれは好みの問題なのかもしれないけど、裕翔ごっちと菅田りばちゃんの別離のシーン、夏帆サリーを襲う必要はあったんだろうか。そこは抱き着いて泣くくらいの方が小者感が出たような気がするし、何よりあれでりばちゃんとサリーが付き合うのは不可解過ぎた。もうだめだサリーのこともわかんない。付き合うか?あの流れでなぜ付き合うんだ好きになられたら好きになっちゃうのか?そいつレイプ魔だぞほんとにいいのかお前IQ30か??エロ同人か???(エロ同人への圧倒的な偏見)

そう、サリー。「俺といるべきは君じゃない」って言ってくるような男に「私といるべきもあなたじゃない」って言えた賢くてかっこよくて素敵なサリーが、IQ下がるどころかもう別人。名前が同じだけの別人。まあこれに関してはしっかり納得はしてるんだけど、やっぱり残念なものは残念。あと、わかりやすさのためには残しようがなかっただろうけれど、幼少期は表に立つタイプだったりばちゃん、少し不思議で言葉にするのが不得意なごっち、互いが互いの兄であり弟だったごっちとりばちゃんの姿が映像化される機会がなくなったのは少し悲しい。

 

 

・映画が得たもの――普遍性

映画はこうして普遍性を失った。代わりに得たものがある。普遍性だ。

 

(笑)

 

世界の片隅に転がっていそうな、似ていたはずなのにひょんなことから道をたがってしまった2人はいなくなった。残されたのは、カリスマ性でも才能でも圧倒的に差のある、住む世界の違う2人だ。あーーーいそう。こっちも世界の片隅にいそう。舞台俳優からのし上がってきた人の過去とかにいかにもいそう。そして、悲しいことに実際世界は割と優しくないし結構こんな風に回っている。登場人物にいやなやつが追加されたのも現実に即している。小説では小出水社長も赤城さんも香凛も皆『いい人』だ。でも映画では違う。小出水さんはりばちゃんに現実を突きつける役割を担っているし、香凛の魅力もよくわからない。(個人的にはもっと特徴的で説得力のある半端ない美人を使ってほしかった…)

菅田りばちゃん、馬鹿だけど、わからなくもない。自分より圧倒的にすごい人がすぐそばにいて、そいつのおまけみたいな人生で、好きな子の気持ちも持ってかれるし主役はいつも向こうだし、なんなら仕事までごっちありきのものばっかで、しんどいし苦しいしどうすればいいのか全然わかんないし、だからもう食堂で牛丼食べることくらいしかできることなんてないのだ。自分はアイツには勝てないんだ、って認めるのはすごくしんどい。せめて、アイツに出来ない何かが一つでもあればまだいいけど、映画りばちゃんにはなんにもない。映画ごっちに勝てるところがひとっつもない。

りばちゃんとごっちの対比として残酷なのが、映画では白木蓮吾の死をもってしても河鳥大は『あちら側の人間』にはなれないところだ。小説では丁寧に丁寧に2人の絆が描かれていて、ごっちに口から(口っていうか遺書だけど)「僕よりも有名になってね」「りばちゃんなら大丈夫」と、それから一体化の過程でも「りばちゃんは僕のヒーロー」「彼はもっと輝くべき人間」「僕を存分に利用してでも僕の隣に並んでくれるのを待っていた」と描写される。2人はほんの少し歯車が狂ってしまっただけ、ほんの少しの違いで大きな違いが出来てしまっただけだ。だから、きっかけさえあればりばちゃんもごっちになれる。映画ではそうじゃない。「お前、白木蓮吾がらみのやつ断ったら仕事なくなるよ」/「蓮吾はもっと努力してたよ」「蓮吾じゃないですから……俺は白木蓮吾じゃないですから」「そうだよ、全然違う」などの台詞や、成瀬とサリーのやり取りなどから、りばちゃんは『向こう側』にはいけないことが分かる。白木蓮吾の死、という十二分に大きなきっかけがあってもりばちゃんは駄目なのだ。ここはとても強烈に映画と小説を別物にしているし、普遍性を生んでいると思う。

普遍性っていうのは、ありふれてるってことじゃない。あるかもしれない、あったかもしれないって誰かに思わせる力だ、誰かの心に刺さる鋭さだ。そんなもん必要ない創作物もあるけど、あった方がいい創作物もある。それは世界観とか状況設定とか登場人物次第で、『ピンクとグレー』に関しては完全にあった方がいい側の創作物だと思う。だから、これでよかった。どこかにあるかもしれないし、いつかあったかもしれないと思えるような挫折と再生の物語になっているから。

 

 

・小説と映画が共通して抱える主題

小説と映画は別物だ。それはもう完膚なきまでに。

でも、実は同じものを違うやり方で描いてるだけなのではないかと思う。ごっちとりばちゃんの人柄や関係性に注目していると、まるで入れ物だけそのままにコーヒーが入っていたマグカップにウィルキンソンの辛口ジンジャーエールを注いだみたいだけど*2、どちらかというと親子丼をいったん下げて鮭とイクラで親子丼亜種を作りましたって感じだなと思う。

小説と映画は共に、自我の確立と自己の統合が最大の見せ場になっている。ここで注意しなくてはならないのは、映画と小説では『確立』も『統合』も同じ形では成されえないということだ。

小説では、ごっちとりばちゃんは誰よりも分かり合い認め合いお互いがお互いを規定できるほど深い仲だった。ごっちは自分の最期をりばちゃんに託して、『白木蓮吾らしさ』を丸ごとりばちゃんに委ねてしまう。また、りばちゃんもそれを引き受ける。そして映画撮影に入ると2人はどんどん同化していく。ごっちとりばちゃんは、もともとは同じ魂を分かち合い世界中で互いだけの特別な関係を築いていたのに、別離によってお互いに自分を見失う。そして一つになることで『自分』に成る。お互いを本当に理解できるのはお互いだけだった2人、『表人格』と『内部人格』が統合され、『世界に共にある』ようになることがゴールなので小説はそこで終わる

一方映画では、2人の自我の確立は小説とは真逆の形をとる。こちらの2人は決して分かり合ってなどおらず、根本的に違う人間だ。だから、映画においてはごっちがりばちゃんを想うこともりばちゃんがごっちを追いかけることも、自我を揺さぶる要因にしかならない。お互いがお互いを意識することはむしろ『自分』をぐらつかせてしまう。だから映画の2人は同化をゴールにすることができない。2人が自己を確立するためには、2人は互いを自分から切り離さなければならない。映画では、りばちゃんがごっちを理解できないことを悟りライターをぶん投げて終わるが、あれが映画における『自己の確立』なのではないかと私は思う。りばちゃんの表人格と内部人格はりばちゃんの中にだけあって、ごっちもそれは同じで、決別によって一人前になる。俺たちはべつの人間だということ、理解しあえないということを理解することこそが『統合』になる。

そう考えると、小説と映画のラストシーンは全然違うけれど、最後の瞬間に描いているものは実は同じなのではないだろうか。

 

この主題の現れ方の変化に絡んで、ごっちとサリーとりばちゃんの関係性の変化もここに帰着する。小説ではりばちゃんとサリーがごっちを『こちら側』に引っ張る役割を果たしている。2人ともごっちにとっては愛おしくて離してはいけなかったもので、両方を失ってごっちの中には『表人格』しかいなくなってしまう。映画ではこの構図はがらりと変わって、ごっちとサリーが『向こう側』と『こちら側』からりばちゃんを引っ張り合う。

ここから完全に超自己流解釈になるので真偽は分からないが、事務所移籍と引っ越しで衝突した挙句サリーのもとに転がり込んだりばちゃんをみて、多分ごっちはあきらめたのだ。自分が引っ張ってもりばちゃんは『向こう』(ごっちにとっては『こっち』だが)には来ないのだと、そう悟った。だから同窓会の後、飲んだくれながらごっちは言う――「サリーのことは、大事にしてやってよ」

あれは、『自分のことをかつて好きだった大事な幼馴染』を大事にしてほしかったのではなくて、『りばちゃんが選んだ場所』を大事にしてほしかったんじゃないだろうか。でもごっちは意地悪を一つした。意地悪な賭けを一つ。自分の死をりばちゃんに看取らせて、自分のことを小説にしてほしいと頼んで、りばちゃんに『きっかけ』を与えた。捨て身の賭けだ。りばちゃんを『向こう側』に呼べるかもしれない最後のチャンスだった。結局それは失敗に終わったようだけれど、きっとごっちは本当は、りばちゃんにも『向こう側の人』になってほしかった。『表』も『内部』もきちんと備えた人間として、自分の隣に立ってほしかった。

 

さてこの賭けは、ごっちにとってどの程度重要だったのだろう。映画をそのまま素直に受け取ると、ごっちの死はただの姉の後追いなのでまあついでに過ぎない。ついでだけどどうでもよくはなくて、きっとごっちはりばちゃんに幸せになってほしかった。幸せを望んではいたけれど、違う人間なのは分かっていたんだろう。

最期のシーン、ごっちが首を吊った場所でりばちゃんも首を吊ろうとするシーン。あそこがどこなのか、現実なのか何なのか話題になったが、私はあれは夢じゃないかと思いたい。そうじゃないと鍵の整合性が~とかそういう話ではなく、映画『ピンクとグレー』は分かり合えない通じ合えない2人の話だから、最後のあの邂逅もりばちゃんの中だけで完結していてほしいなあと思うからだ。りばちゃんは『りばちゃんの中のごっち』と対話して泣いて文句言って色々わかってりばちゃんに成る。『河鳥大』になって『河田大貴』になってりばちゃんになる。映画のりばちゃんは、芸能人を辞めてしまうかもしれないし続けるかもしれないしサリーと別れるかもしれない。でも大丈夫なのだ。りばちゃんは『絶望的に素晴らしいこの世界の真ん中』に辿りつくから。『果てのない世界』ならこれから見る。自分の目で、自分だけの目で。

 

 

 

・映画が再生産したもの――めっためたにしてあげる♪【してやんよ】

さて、映画『ピンクとグレー』はNEWSの進退とは関係ないし、あの湿度もあの熱量もない。ドライに描かれた青年のアイデンティティストーリーだ。小説が持ちえたあの特殊性、あの頃の加藤成亮があの状況で書いたという事実はどう頑張っても再現不能だ。

しかし再現されている。いや、生みなおされている、と思う。

先に述べたように、私が映画を観て真っ先に浮かんだ感想は「こわい」だった。微妙な改変が連ねられた前半から、「62分後」を境に裕翔りばちゃんと成瀬、岸井サリー、三神を中心にほとんど二次創作に近い展開が始める。これがメタい。強烈にメタい。映画初主演を果たしたりばちゃんに対してごくごく友好的な態度をとる成瀬。成瀬の方が先輩だけれど、成瀬はりばちゃん役、りばちゃんがごっち役ということもあって成瀬はりばちゃんを尊敬し、互いに高め――あわない。全然そういうことしない。成瀬は映画『ピンクとグレー』をクソだと思っているし、りばちゃんが芸能界に残れるわけがないと思っているし、ごっちを追いかけるりばちゃんを馬鹿だと思っている。ほ、本当に菅田くん裕翔くんのこと好き?大丈夫?よくわかんないおっぱいがいっぱいの変な店連れてったりしてない?ていうか、ていうかていうか行定監督「くそ原作押し付けられたわー」とか思ってない?大丈夫??

なんだかくらくらする。役者の役の役者さんが、インタビューに答えているという演技をしている。芝居をしているという芝居をしていて、虚構の中で虚構を演じている。『本当』があるのか不安になる。三神は「ホントウのあたしとか誰が決めんの?」とか言ってるしパンツ穿くの超スムーズだしりばちゃんは駄目駄目だし。

そう、りばちゃん駄目駄目。びっくりするほど駄目。りばちゃんとごっちはどっちも加藤成亮の一部を反映したものに過ぎない。どっちも加藤さんの一部だしどっちも加藤さんの全部じゃない。わかっている。でもどうしても、誰か一人に加藤さんを投影するならそれはりばちゃんだ。それがもう、ほんと駄目。全然芸能界で生き残れなさそう。小説の『その後』をこんな風に創作してみせるなんて加藤さんへの挑発にしか見えない。お前ほんとにやってけんのかよって、お前のオハナシ綺麗事過ぎんじゃねえのって言われてる気になった。試写会が終わった瞬間に観客が一斉に加藤さんをみたのも納得だ。映画の中に映画が入っているわけだけど、現実ももしかしたら何かの中に入ってるんじゃないかとか、あれはこれを暗示してるんじゃないだろうかとか、色々ぐるぐる考え込んでしまった。たとえば渋谷駅のピングレジャック。小説の中のいくつかのシーンが柱に貼られてて話題になったアレ。でもあれ、映画の宣伝なのにあそこに抜粋されてた台詞はほとんど映画に出てこない。だからもしかして河鳥大の『ピンクとグレー』の中の台詞として貼られてたんじゃないかとか、なんかそういうあれこれ。

 

ぐるぐる考え込んでたら、急にすとんと「裕翔くんでよかった」と思った。

 

私にとって映画『ピンクとグレー』は、中島裕翔が主演したことで完成した。小説『ピンクとグレー』が作者が加藤シゲアキであること抜きには語れないのと同じくらい、映画をこうするなら主演は裕翔くんでなければならなかった。映画では、柳楽ごっちと裕翔りばちゃんは分かり合えない。それは仕方のないことで納得はしているし、473°ひねってあったって主題が描かれてないわけじゃない。普遍性を捨てた代わりに普遍性が加えられて、特殊性をそぎ落とした代わりに裕翔くんがいる。裕翔君にとってこの映画が、中島裕翔をつくるための一片になっていたらいいと思う。演じながら、自分の中のりばちゃんと自分の中のごっちと向き合っていてほしいと思う。私はNEWS単体のファンでしかないから、Hey! Say! JUMPのことは深くは知らない。彼らの栄光も挫折も軌跡もうすぼんやりとしか知らない。でも少しだけ知っている。加藤さんと裕翔くんは、少し似ている。目立つところにいて、後ろに下げられて、武器を探してた。置いて行かれてもがいていた過去があることを、ほんの少しだけど知っている。

小説『ピンクとグレー』でごっちとりばちゃんを書いたことが加藤さんにとって加藤シゲアキに成るための通過儀礼だったのと同じように、映画『ピンクとグレー』でごっちとりばちゃんを演じたことが裕翔くんにとって中島裕翔に成るためのに重要な一コマになっていてほしい。「小説処女作『ピンクとグレー』」が加藤シゲアキの見つけた『何か』として道を切り拓かせてくれたのと同じように、「映画初主演作『ピンクとグレー』」が中島裕翔が自分のあり方を確立していく一助になっていてほしい。いつかそんな日が来たら、そのときこそ私は心の底から映画『ピンクとグレー』の存在を喜べると思う。

映画『ピンクとグレー』の存在そのものが、小説『ピンクとグレー』が加藤シゲアキに対して果たした役割を中島裕翔に対して果たしているのでは?って気づいた瞬間感動したけれど、あまりにも作者が生きすぎているなあとも思うので考察というより解釈です。でも裕翔くんでよかった。裕翔くん以外のジャニーズの誰にもこの再生産はできなかったと思う。ただ、これを監督や事務所が狙っていたということはまずないと思うので副産物ですね完全に。

 

 

・雑感

映画に怒ってる人の言葉をみて「わかる~~」ってなって映画を褒める人の言葉をみても「わかる~~~」ってなって、結局自分どう思ってんだろ…って整理するのに時間がかかったけど、結局「映画を正解だと思うけど、映画に怒ってるけど、映画を肯定する」以上にシンプルな言語化はできない気がする。

出来ないついでに少しだけ、もやっとポイントというかなんか細かいことあれこれ。ちょっと批判的な要素も入ってるので苦手な方はこの項読み飛ばしてくださいな。

ごっちと唯さんの関係がああなってたのは割とびっくりしたしどちらかといえばそういうんじゃない方が好みだったかな~。何も言わずに「姉ちゃんと同じ日に死ぬことにしてた」とか「姉ちゃんと同じように死ぬって決めてた」くらいしか言わずに突き放されたかった。香凛とサリー、デュポンとラブホのライターのくだり大好きだったから、サリーも香凛もだいぶキャラ薄くなっててびっくり。ただ、私は小説とだいぶ変わってサリーとごっちがりばちゃんを引っ張り合う図も嫌いじゃなかったです。しかしそれはともかくやっぱり一回目のレイプ的なあれそれは理解不能だった。その前から「俺もうごっちごちだよ」だったにしてもっすよ。にしても襲わねーだろ。ていうかあれを赤裸々に本に書いた裕翔りばちゃんの勇気がすげえよ。露出狂かよその度胸があるなら芸能界やってけるよ。知らんけど。あとファレノプシスが最初から全英語詞なの、小説と映画でごちりばの関係性が違う感じがしてよかった。

文句っていうかこの映画化に際して残念なのは、湿度高めでモノローグ多めでちゃんと友達の死体を綺麗にするバージョンの映像化の機会がおそらくは失われたのは惜しい。まあどちらかしか選べないし、こちらが正解だったとは思うけど、もっとじめじめした映像化もみたかったなあ。イメージは岩井俊二さん的な。映画詳しくないから『スワロウテイル』をぼんやり見たことがあるだけなんだけど、イメージあんな感じの雰囲気で撮ったやつも観たかった~。

あとこれだけ言いたいんだけど、裕翔くん顔小さすぎ。誰と並んでも顔が小さくてここまでスタイルがいいと逆に仕事の幅が狭まったりしないのかと意味不明な心配を始めるレベルで小さかった。スタイルから既に凡人のそれではない。

 

 

 

・最後に/僕をつくるのは僕だ

2回目の鑑賞時は考える余裕がそれなりにあったので、あれこれ思いを巡らせながら観ることができた。どのシーンだったか忘れたけど、急にふと「裕翔って、『余裕で翔ぶ』って書くんだなあ」と思った。そんな名前の子がこんな映画をやって、「主人公に似ているね」って、なんなら原作が発表されたときから「この主人公裕翔くんっぽいね」と言われていたらしいの、なんだかとても皮肉なような胸アツなような。ごっちに似てるねって言われてた方は涼しいって字が入ってるんだなあ熱い人なのになあとも思った。

『向こう側』がどんなところなのか、多分私は一生知ることがないし、映画と小説どちらが『ホントウ』に近いのかも永遠にわからないんだろう。けど、余裕じゃなくても涼し気じゃなくても、とにかく翔べたらきっとそれでいいんだと思う。これが僕の羽だよって、いつか誇らしげに広げられるように頑張るしかないんだなあ。そう、目の前のこと、できることを頑張るしかない。

 

 

 

やるしかない、やらないなんてないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

どうかこの映画をたくさんの人が観てくれますように。

*1:何かの折の加藤さん本人の発言

*2:ちなみにこのたとえはフォロワーさんがしていて面白いなと思ったものである

他Gの印象後輩編

来春もしくは下半期の自分のための覚え書き
Twitterに書いたやつの改訂増補版
誹謗中傷の意図は全くない



Hey! Say! JUMPの印象
薮:帝王とゴボウ兼任の美声マン。JUMPの要。
光:オードリー春日の想い人。万能なポンコツ。
髙:田舎のギャル。声かっこいい。
有:コロコロの主人公だが裏の顔は爆モテ成人男性
伊:間違えて高田純次型AIを搭載してしまったラブドール
山:外見の美しさに内面を追いつかせた努力の人。アイメイク濃い。
知:ポケモンに例えるとクチート。小顔で小悪魔だけど小賢しくはない。賢しい。
圭:英国紳士と見せかけて英国天使。
裕:美術室から逃げてきた石膏像。ものすごく恵まれて見えるけど本当に欲しいものを掴むのにはものすごい努力を要するタイプ。


Sexy Zoneの印象

健:女子高生を宿主にした寄生獣が乗っ取りかえされてアイドルをやらされてる、って言われたらギリギリ信じられるレベルの奇才の持ち主。人類の特殊サンプルとしてキャトルミューティられる日も近い。
風:歌がめっちゃ上手くてめっちゃ仲間思いの餅。あざらし。エンダッシャ
勝:ツッコミを一手に担う奇人
聡:1秒ごとに綺麗になっていくバカ。Jweb上で『松島聡の先生、あのね』を書き綴っている。ギャーァアア。
マ:美巨幼女。鳴き声:聡ちゃん


A.B.C-Zの印象

五:五関様。グループ内に信者を擁するスキルフルリトルモンスター
戸:社会的生物としてのヤバさを顔でカバーしている奇行子。
塚:狂気にみちた金髪筋肉天使。手越、ダメ絶対
河:世界一美しい馬。元祖ジャニオタジャニーズ。
橋:A.B.C-Zは子育て本を出すべきだという事実の生きた証。大型犬の見本。優しくって、少しバカ。


Kis-My-Ft2の印象
北:カッコつけの天才。自分に色をつけるのがめちゃくちゃ上手くてポスト中居を狙えるリス。
千:ダンスの神に愛されたゴリラ。舞祭組トップのスキルメン。
宮:カレは玉森を愛しすぎてる。結婚おめでとうございますオタジャニーズ界をリードしてください。
横:包丁持ってる時と動物触ってる時はモテオーラを発するお母さん。八重歯が好きでした。あと加藤さんにナナくれた。
藤:カッコつけの天才その2。藤北シンメとしてカルト的人気を誇るが横尾さんを愛しすぎている。Jwebで3回に5回の割合で「わた」という単語を発する呪いに掛けられている。
玉:絵に書いたようなツンデレ。自覚ないまま巨大ロボに乗らざるを得なくなるタイプの主人公。
二:ニッカちゃんだよー↑↑キスマイの中で1番印象薄いけど1番底が深い沼。社会常識的な意味でバカ。



ジャニーズWESTの印象

淳:セレブリティたらこ唇。今年中に彼女を作るらしい。なんかドMっぽい。
濱:小瀧さんの飼い主。一見縁の下の力持ちタイプに見えるがガンガン表立ってWESTを支えている。
桐:そこら辺にいたら誰もが恋するはずなのに何故かテレビの中にいる、親しみやすさ天元突破の憎い人。でも「BABY BABY MY V.I.P シャンパンゴールドに染まれ」とか平気で歌う。
重:ゲス岡クソガ毅。特色はないのに説得力はあるセンター。
神:タカヒサマスダみが半端ないオシャレ番長。スキルはピカイチ。よく韓流みたいな髪色に挑戦する。
流:顔が美しいバカ。バカで天然。右手と左手が連動する。
望:ビックベイビー。加藤シゲアキっぽい顔だが甘いセリフを言う能力に関しては完全に彼を凌駕した才能を発揮する。濱田さんを見るとじゃれつかずにはいられない病に罹っている。


以上!
下半期に私の印象がどれくらい変わってるか楽しみ〜

NEWS担年齢分布アンケート〜4700人にきいてみた〜


・はじめに
NEWSにCMのお仕事が来た。やばい。超かわいい。犬と戯れる加藤さん、水の滴る手越さん、もぐもぐ顔を披露する小山さん、天使の寝顔で微笑む増田さん……。やばい。どストライク。

元気になローソン♪以来のこの姿*1*2、しかもツボをつきまくりのこの映像、高まらないわけがない。


そう、わけはなかった。のだが。


勇んでニッセンのサイトを開いて、一瞬のち固まった。
欲しいものが、あんまり、ない。しかもなんか、思ったより、高い。
モデルさんもなんとなく自分より大分年上なような……?あれ?これ割とお姉SUMMER向け……?
誤解を恐れずに率直な第一印象を述べると、「ニッセンのメインターゲット=30代〜40代っぽいな」「なんなら主婦層が1番の顧客っぽい?」と感じた。普段Twitterをやっている限りでは、NEWSファンの年齢層は25〜32,3歳くらい(NEWSよりちょっと年下〜同年代くらい)が最大手だとぼんやり思っていたので少し意外だった。

本当はNEWSファンはこのくらいの30〜40代が1番多いのだろうか?それとも、それくらいの年齢のファンを新規獲得する狙いがあるのだろうか?

という疑問が今回のアンケートを実施してみたきっかけである。(ちなみに、後述するがニッセンのメインターゲット層は私の第一印象よりは低いか、あるいは広いと思う)


・アンケートの方法と結果
Twitterのアンケート機能を利用して実施
▽期間は2016年1月7日12時35分〜の24時間。
▽①〜22歳 ②23〜27歳 ③28〜34歳 ④35歳〜 の4択。
▽最終投票数は4760票。
あわよくば1600票くらい集めたいなあという軽い気持ちで行ったアンケートでしたが、欲張って1600のはずがその3倍近い人数の方に投票していただきました。ご協力してくださった皆さまありがとうございました。

まぁそんな感じでとりあえず結果です。はいどーん。

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NEWS担わっっか!!!

PCからだと見辛いかもしれないので一応文字でも書いておきます。

①〜22歳 :57%(約2713人)
②23〜27歳:20%(約952人)
③28〜34歳:12%(約571人)
④35歳〜 :10%(約476人)

わ、わかーーーい……!!!!
②③がNEWS担のメインだと思っていたのですが、なんと合わせても①に届かないという驚きの結果に。私が今まで感じていた印象はなんだったの。。


・補足説明
今回のアンケート、選択肢の年齢の分け方がやたらでたらめに見えるかもしれないが一応多少は考えた結果この4択にしている。
①〜22歳=学生
②23〜27歳=NEWSより年下の社会人
③28〜34歳=NEWSと同年代の社会人
④35歳〜=NEWSより年上の社会人
という想定で分けたため切れ目が一見意味不明になってしまった。最初は単純に10代/20代前半/20代後半/30代〜にしようかと思ったのだが、どうにか4択で経済力や趣味嗜好などに沿った分け方が出来ないかと頭をひねった結果こうなった。あと30代前半と後半をどうにか分けたかった。〜22歳だと社会人も一定数含まれてしまうので厳密には学生世代とは言えないがそこら辺は目をつぶってほしい。
投稿時間は、昼ごはんの時間なら世代に関係なくTwitterを見てる人が多いのではないかと思い12時半頃にしてみた。まぁ何時にしようが大した変化はなかったような気もする。30分足らずで200超の投票数に届いたのだが、そこから最後まで割合はほとんど変化せず最終結果もほぼそのままの分布になった。
RTで感想を述べている方が時々見受けられましたが、ほぼ一様に「こんなに若いのは予想外……!!」と仰っていました。同感です。

それと、「新規かどうかを知りたいのに年齢を聞いてどうするのか、〜22歳だからといって新規というわけではないしアンケートの趣旨がよく分からない」と仰っている方がいたのですが、私の意図は「現在のNEWS担の年齢分布を知ること」そして「NEWSが狙い撃ちしているように見えるやや年上世代が『現にNEWS担の中で大手』なのか『現在NEWS担の中で少ない層』なのか知ること」でした。年上層が多いなら今回のタイアップは現状抱えているファンへのニッセン製品購買意欲促進、少ないならば年上層を取り込むことを狙ってNEWSとニッセン双方が顧客を共有しようとしている、と言えるのではないか?との仮説に基づいています。
ただ、私自身の統計やマーケティングに関する知識は皆無に近いため、たとえ今回のアンケートが満足に現実を反映出来ていたとしてもこれらの仮説が全くの的外れである可能性が大いにあることにご留意いただければと思います。

 

・この結果が信じるに値する理由及び信じるに値しない理由
+4760票という数。今回年齢分布を調べようとしたNEWS担という集団全体の人数は、おそらく多くても10万〜15万程度だと見積もっている。推測の根拠はファンクラブの会員数や直近のCDの売上など。10万程度の規模の集団の場合、1000ちょいのサンプルを集めることが出来れば誤差±3%の結果を出すことができるので*3、4700超のサンプル数は十分信ずるに値すると言える。

-おそらくサンプルの無作為抽出が出来ていない。これが最大のネック。理由はいくつかあるのでとりあえず箇条書き。
①世代によりTwitter利用率に差があるはず。全然ちゃんと調べてなくて申し訳ないのだが、これはほぼ間違いないと思う。高校生、大学生の場合はTwitterをやっていない人の方が珍しいくらいだが、今回のアンケートでいう③や④に該当する方はおそらくそれよりは低い利用率なのではないか。『Twitter上にいるNEWS担』から無作為にサンプルを抽出出来ても、そもそもの利用率に差があるならば誤差が生じるのは必須である。
②回答率にも世代により差があることが予想される。そもそもこれは単なる一NEWSファン、単なる一Twitterユーザーの『私』がとりおこなったアンケートである。こういうファン発信の限りなく私的なイベントにノってくれる人の割合は、おそらく若い世代ほど高まる。友達集めタグによる日常的な軽い気持ちでのRTや、誕生日ぴったりでとめてね企画などの様子を見ても、若い人の方が圧倒的に『アンケートを見た人のうちの投票してくれた人の割合』は高いと思われる。
③リツイートという仕組みの特性。リツイートとは、『人のツイートを自分のTL上で共有し、フォロワーに見せる』という機能だ。その仕組みの特性上、RTは広まる集団にはかなりの勢いで広まるがその導火線となるユーザーがいない集団にはほとんど広がらない。今回500を超えるRTをしていただいたのだが、おそらく若年層ほどアンケートが届いている率が高く、大人になればなるほど届いている率は低かったであろうことが予想される。

Twitterアンケートの手軽さ。特に何かにログインする必要もなく、自分の個人情報やどれに投票したかが誰かにバレる可能性もなく、しかも選択式。アンケートに回答しようと思ってもらえさえすれば投票のハードルは高くなかったはずである。

-各選択肢ごとに対象年齢の幅に差がある。①はおそらく7〜8歳、②は5歳、③は7歳、④も7〜8歳くらいの幅の方々が投票したと思われる。特にそれなりの人数がいると考えられる②が20%という意外と低い数字になったのはこのせいもあると考えられる。


以上を踏まえて考えるに、おそらくこの結果をそのまま信じることは到底出来ない。しかし、では無視できるレベルのお遊びだったかというとそこまで無力でもなかったのではないかと思う。個人的には、様々なバイアスを考慮しあれこれ差っ引いても、NEWSファンのうち30〜45%程度は22歳以下と考えていいのではないか?という結論を下した。この結果をどう解釈するかは自由ですが、とりあえず私はそういう体で話を進めます。


・アンケート結果のへなちょこ分析
2017年には全員が三十路に到達するNEWSだが、どうやらファンの3〜4割は学生世代であるらしい。この結果について考えてみると、ニッセンCMというタイアップは極めて理にかなった戦略なのではないかと思う。年齢の若さは、ほぼイコールで購買力の弱さを意味する。特に中高生と25〜35歳世代とでは、おそらく絶望的に経済力に差がある。加えて、NEWSは既にジャニーズ事務所の中では中堅層だ。近年デビューした若手グループとファンを食い合わないためにも少し上へとファン層をスライドさせたいのではないかと思った。
もちろんニッセン側もリターンを求めてNEWSを起用しているわけだから、NEWSを知っている・いないに関わらずニッセンのターゲット層への訴求力があると判断してもらえたからこそ今回グループでのCMを獲得出来たのだろう。ということはつまりニッセンを説得できるだけの『NEWS、おたくのターゲット層に刺さります!』っていう証拠があったのではないかと思うので、NEWSと同年代のファンがそんなめちゃくちゃ少ないということはない……と、思う。多分。
ちなみにLOVEコーデを拝見した結果、「あれ?ニッセンそこそこ若い世代向けかも?」とも思ったのだが、高級路線に切り替えようとしているらしいことが窺えたのでGRLやGU、shoplistがライバルということは多分ない。少なくとも中高生向けではないと思われるし若い世代(20代)に対しても、プチプラ路線よりは高級路線で売り込んでいきたがっているようにみえる。
もしも万が一、億が一アンケート通りに学生世代が半分以上なのだとしたらまじで死ぬ気で新規開拓しないと多分今後も干され期がちょいちょい訪れる。多分ないと思うけど断言は出来ない。

 

・NEWS担の若さについて2つ
①NEWS担若い!とか、新規多い!?という声が散見されたが、〜22歳という年齢設定は別に新規ファンをくくり出せるような区分けではない。実体験を踏まえ、大体13〜14歳だったら十分にジャニオタデビューの可能性があるのではないかと思うのだが、2010年(6人NEWSが活動していた事実上最後の年)に14歳だった人は今まだ20歳だ。22歳以下であることと新規か否かとはあまり関係ないのではないだろうか。何せ自分が22歳以下の新規ではないファンなので尚更そう思う。とここまで書いて思ったが、2011年の脱退以後にファンになった人もそろそろ『新規』ファンではなくなっている気がしてきた。

②「NEWSとKAT-TUNはほぼ同期なのにファンの年齢層が意外と違うんだな〜」という感想も幾つか見掛けた。これに関しては、今私の中で「KAT-TUNも同じようにアンケート取ったら案外同じような結果になるのでは……??」という疑念が渦巻いている。真相を確かめられる日が来るか不明なのが大変残念だ。下手したらJUMP担アンケートとっても同じ結果になる可能性もあるような気がする。こちらも確かめようがないのが非常に残念だが、もしそうなったら逆にTwitterに生息するジャニオタの統計になるのでは……!?とちょっとわくわくする。重ねていうが実現の機会はない。


・最後に
今回珍しくポエム成分が少ない記事を書いてみたがめちゃめちゃ疲れた。いつもなんか分析してる人すごい。向いてねえわーと思ったので次からはまた語りたがりに戻ろうと思う。
今回のアンケートで残念だったのは、中高生と大学生を分けられなかったことだ。ここをわけていたらどれくらいの比率になっていたのか気になる。あと、2011年以後のファンもそろそろ『新規』ではなくなってきているのでは、と書いたが、私の中に「4人になってからの新規ファン=何よりも雄弁な4人の努力の証」という意識があるためついつい新規と呼んでしまう面も多分にある。申し訳ない。
1月はもうブログを書けないかもしれないのでとりあえず新年のご挨拶。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

*1:ローソンの時はコヤシゲテゴマスでのCMだったため、グループ全体でのCMとしてはこれより更に久しぶりである。

*2:走魂内で流れてたCMの印象が強すぎて忘れてたけどローソン6人だった。そういえば無人島行ってたね…

*3:計算する能力はないのでこの数字はネットで拾ってきたものです

『星』に手が届くまで――舞台『TRUMP』および『リリウム』感想

フォロワーさんがあまりにも熱烈にダイレクトマーケティングを展開していてつい興味をそそられたので、舞台『TRUMP』を観に行ってきた。舞台をまともに見るのは初めてだったのだがとてつもなく面白かった。「満足できなかったらお金返すから観て!!!」とまで言わせるだけのことはあるな……!?と感激しきりである。そして勢いのままにシリーズ作である舞台『少女純潔歌劇リリウム』のDVDを購入しそちらも観た。冷めやらぬ興奮のままに感想を書いておく。って言ってももうTRUMPからは1週間経っちゃったけど!多分すでにそれなりに忘れてるけど!!って言ってるうちに1か月近く経った。すでに記憶がおぼろげです。

 

 

というわけで『TRUMP』および『リリウム』の感想です。考察というほどのレベルではありません。そしてがっつりネタバレします。ご注意を。

 

 

TRUMPについてはAsk.fmでも軽くお話したのでそれと結構かぶってますがとりあえず全部書きます~。

 

 

・『TRUMP』感想

冒頭でも述べた通り、舞台を見るのは初めてだった*1。しかも若手俳優の舞台。予習ゼロ、ストーリーの知識皆無、キャストの顔と名前は誰一人わからないという結構アレなコンディション。その上4泊6日の海外旅行から帰ってきたその足で成田から六本木直行で、さらに海外で田口くんの脱退報道を聞きHP削られまくり――というフルコンボにもほどがあるやろ状態。なんなら開演直前までブログ書いてた。(2個前の記事『君が幸せでありますように/君の幸せでありますように』) 該当記事をさらっとななめ読みすればわかるが結構なお葬式気分。ていうかもう正直言って入場時点ではチケットとったの後悔してた。だってこんな気分で楽しめる気しない……。

 

何はともあれ幕が上がってみると、ダイマ(※ダイレクトマーケティング)通りの厨二チックな世界観。と思いきや、ティーチャーグスタフとやらが「今日も髪立ってるぜぇ~~!!!」とかいいながら出てきて突然のロックなショーマストゴーオン。誰だお前は。そしてなんだこのテンションは。なんだろう、たとえて言うなら週刊少年ジャンプギャグマンガとして始まった作品の1~5巻くらいの感じ。あるじゃないですか、ギャグで始まってシリアスになだれ込むジャンプあるある。まんまあれ。ギャグシーンはリボーンの3巻でシリアスシーンは30巻台、みたいな。ヴァンプたちのイニシアチブの説明シーンのBLっぽいくだりとか、ギャグを披露するとこ、あとは歌の授業のソロ歌唱のところなんかは周りから黄色い悲鳴とか断末魔の声とかそれなりに聞こえて(あっ畑違うわ、、、)って思いました。あの辺はやっぱりキャスト本人のことを知ってるかどうかで面白さがけっこう変わる気がする。

まあそんな感じで、TRUMPという作品が本来持つ力のうちの「非・お笑い」な部分しか受容できなかったな~と思います。体感で多分6~7割くらいかなあ受け止められたの。っていう、120%を咀嚼できなかったであろうことを踏まえてもなおとても面白かった。観に行ってよかったです。観てる間だけ田口くんのことも忘れられたし。観劇してる間にTwitterの通知欄爆発して劇場出た瞬間全部思い出したけどそれはまあ置いといて。

 

 

 

『TRUMP』単体の感想を端的に述べると「舞台すげえ!!!!」です。これに尽きる。舞台の上っていう限りなく狭い空間で、ドラマや映画のようにあちこちでロケをすることも天気や背景を合成したり操作したりすることもできない。この不自由な表現形態だからこそできるトリック(?)だと思う。もちろん、照明や音響、ある程度の舞台装置とかはあったけど、それでも観客の想像力で補完しなければならないところがとても多い。それはたとえば雨が降っていることだったり、星がきれいなことだったり、そこが屋内なのか屋外なのかとか、廊下なのか地下なのか、現在なのか4500年前なのか、そういうのを全部観る人の脳内で補わなくてはならない。その不完全さを生かし切っているように感じられて最高にゾクゾクした。だって、舞台じゃなかったら100年のズレがある場面を同じセットで演じてそれが同時点の出来事であるかのように見せかけることなんてできない。しかもこの作品では、4600年前に火事が起きて城が焼けている。かなり最初のギャグ比重の重いとこで、「100年前に起きた火事でこの古城もボロがきてる」というセリフがあった*2。その「100年前(観客から見た4600年前)の火事が起こるまでの回想」が実は「今(4500年前)」と同時に展開されていて、観客の脳内補完としてはアレン、クラウス、ピエトロのシーンでは古城、ソフィ、ウルetc…のシーンでは焼け落ちた古城を思い浮かべなきゃいけないんだけど初見でそれができる人多分誰もいない。普通に同じ城だと思ってたわ。

違和感がなかったわけじゃない。話のつなぎがやたら不明瞭だなーとは流石に思っていた。ソフィ&ウルパートと、アレン&ピエトロ・クラウスパートのぶつ切り感は特に隠されてなかったとも思う。ストーリーの構築の仕方がやたらガッタガタで話の筋が見えにくいなあ~と初見はみんな思うんじゃないだろうか。特に顕著だったのがソフィ・ウルとアレン・ピエトロの間に一切の絡みがないこと。絡みがないだけならまだいいんだけど、まるでお互い知らないみたいな振る舞いだった。まあ知らないみたいっていうか知らないんだから「みたい」もくそもない。この2つの主要そうなパートが待てど暮らせど関連づく様子がない。話の筋isどこ。

でもまさか100年のズレがあるとは思わなかった。だってクラウスは一貫して「アレン」を探してるし、何よりクラウスはソフィたちともアレンたちとも会話してる。「アレンを探し回るクラウス」がどちらの時代にもいるから、なんとなくあるいろんな違和感を「演劇観るモード」に入った脳がなんとなくなんとなく処理してくれちゃう。一番「あれ??」と思ったのはかなり後半、クランフェスのところ。度々人里に下りてはメリーベルと逢引きを繰り返していたアレンがヴァンプ狩りの標的になり、瀕死の重傷でクランの懲罰房に入れられる。メリーベルの元に行きたいとうわごとのように言うアレンの元に迫る人間たちの魔の手、叫ぶピエトロ、上がる火の手――。

で、だよ。その頃ソフィたちは何をしてるのかというと、なんと剣術の試合してる。いや試合どころじゃないだろ地下に人間きてますけど!?何のんきに模擬戦してんの!?って思ってたらまさか!!という。

ティーチャーミケランジェロが「あらアレンったらまた逃げてたのね~」と猫を抱き上げた瞬間、積み重なっていた違和感が全て綺麗に繋がって一瞬息がとまった。ソフィパートとアレンパートにつながりがなく断絶感が強い分、無意識にフラストレーションがたまっていたのだと思う。わからない、どういうことだろう、みえない、が全部一気に解消された。あの感覚って何て名前なんですかね。誰か教えてください。

ウルがダンピールなんだろうな~というのは薄々気づいていたのでそこまでの驚きはなかった。しかし、ダンピールは短命で繭期を越せない者も多い、ウルはそんな種であるダンピールなのだ、という2つの設定は、絶望の連鎖・輪廻としてのTRUMPシリーズを考えると極めて重要だったのではないかと思う。

 

アイドルと星のたとえ話が大好きなので、「不思議ちゃんアレンが『星に手が届きそうだよ』と空に手を伸ばす」→「『星には届かなかったよ』と死ぬ」→「『星に手が届いた』と言いながらソフィをかき抱き永遠の命を与えるクラウス」→「『死に手が届くまで』と言いながら空に手を伸ばすソフィ」という一連の流れに最高にゾクゾクさせられた。観ているときはただの興奮だった。かみ砕いて考えを巡らせる余裕ができた今、『星』について考えてみるとますます絶望が増す。観ているときは、一般に希望の象徴として使われる星がソフィにとっては死になってしまったこと、ソフィは死という希望を追い求めなくてはいけなくなってしまったことがとても皮肉な悲劇だと思った。しかし、よく考えてみるとおそらくはここで言う『星』はただの希望ではないのではないだろうか。確かに一貫して希望の象徴として描かれてはいるが、ただの希望ではなく『到底手の届かない希望』こそが『星』なのではないかと思う。劇中で自分の『星』を手に入れることができたのはクラウスだけだったが、あれは正攻法ではない。正攻法ではないし、もっと言えば本当の本当に欲しかったものを手に入れられたわけではない。クラウスが求めていたのは『永劫の時を共に生きる友人(?)としてのアレン』だが、ソフィはもちろんアレンではないし(アレンの血をひいてはいるがアレンとは別の個人であることは明らかだし見た目はどちらかと言うとメリーベル)、クラウスと共に生きることも選ばない。おそらく、星を比喩として使用するにあたって『手が届かない』というのはなかなかに重要なポイントだ。

 

話をウルとソフィに戻そう。作中、うわごとのように死を恐れるウルの姿が執拗に描かれる。繭期を越せる見込みがなさそうなウルは、ダンピールであることを恥じないソフィに憧れ、死を恐れ死にたくないと叫び、TRUMPになることを望む。ウルにとっての『星』はTRUMPになること、つまりは『生きること』だ。けれどその望みは叶わない。ウルは、不老不死となったソフィの腕の中で「生まれかわったら君になりたい」と言いながら息絶える。そして実際にウルとソフィは互いが互いに生まれ変わり輪廻を繰り返す――という裏設定がTRUMPには存在する。TRUTH公演(私が観たのはこれ)と主要キャストを反転したREVERSE公演を繰り返すことで輪廻を演出しているらしい。それを示すのがウルの今際の際の台詞ということになっている。

ソフィは生まれ変わったらウルになり、ウルは生まれ変わったらソフィになる。これをごく単純に解釈すると、ソフィとウルは同じ輪廻の輪の中をぐるぐる回り続けているようにみえる。しかし、TRUMP世界においてそのように小さな輪廻の輪はおそらく成立しない。なぜなら、不老不死が存在するため設定上物語世界の時間は永遠に続くからだ。『輪廻転生』と『永遠の命』は明らかに組み合わさりがたい概念だ。しかも生まれ変わりの片割れであるソフィが永劫の時を彷徨う、というのが主要な筋の1つでさえある。これを考慮すると、ここで言う生まれ変わりは循環し続ける輪というよりは分岐し続ける世界線に近いのではないか。ウルの台詞によりお互いの魂が入れ替わって『ウル』と『ソフィ』が誕生する世界線が発生し、その世界でもまた同じことが繰り返され望まぬ死と望まぬ生(不死)が与えられ永遠に世界が続いていく――

ウルとソフィは、何度も何度も世界の分岐を繰り返し互いを大事に思い大きな望みを抱いて、そして、今まで発生したすべての世界線で絶望を味わっている。2人の魂は何度も何度も何度も何度も生を望んでは潰え死を望んでは潰え、無数の世界線を漂い彷徨っているのではないだろうか、という想像に辿りついたとき本当にぞっとした。どちらを望んでも絶対に掴めない。何度も何度も何度も何度も何度も何度も絶望だけを繰り返し、永遠に『星』には届かない。こいつら繭期のヴァンプじゃなくて思春期の少女だったらまどか*3なんか目じゃないくらいの魔法少女になれるのでは……?キュゥべえ、ここにすごい逸材がいるからとりあえずまどかはあきらめてスカウトしてみたらいいと思うよ……??

この脚本考えた人まじ精神歪んでんだろ、と思ってたらまさかの脚本書いた人キャストもやってたっていう衝撃の事実。しかもウルの父親役。ウルの生みの親ってもはや苦しめてる張本人じゃん。それが父親って。

 

 

 

・『リリウム』感想

「舞台すげえ!!!!」となった観劇後、わりと速攻で『リリウム』のDVDを購入した。そして『四銃士』観る前にこっちを見た。我ながら心囚われすぎてて笑う。

こちらも端的に感想を述べますと、「『TRUMP』観る前に観たかった!!けど『TRUMP』観てから観れてよかった!!!!けど!!!!」です。あと絶望を共有したすぎて観て速攻人に貸してしまったので1回しか見てません。

 

こちらは『TRUMP』と違って若干キャストを知っている状態。最後まで誰だかわからなかったのは、紫蘭(福田花音)、ナスターシャム(勝田里奈)、キャメリア(中西香菜)の3人。スマイレージ時代に全員の顔と名前を一致させたつもりでいたけどタケちゃんさんとあやちょさんとめいめいさんしかわかりませんでした。反省。やっぱ知ってると違うわーと思えたのは、繭期の説明シーンなど『TRUMP』と同じく『リリウム』でもギャグパートになっている部分だ。なにせキャストを知っているから楽しい。後ろで役を忘れてきゃはきゃは笑うマーガレット(佐藤優樹)がめっちゃかわいいー、とか、滑るチェリー(石田亜佑美)がかわいいーとかそういうのが分かると楽しさ3割増しだなあと思う。

前情報はなんにも仕入れず観たので、時間軸的にどこにあたる物語なのかすらわからず、途中まで「もしかしてこの中にアレンの母親でもいるのか?」とか思ってたんですけど、まさかね、まさか。ファルスお前がソフィかよ!!!!

一番の絶望は、この事実により『絶望の連鎖』があらわになったことだ。『TRUMP』ではあれほど不老不死を拒んだソフィが、3000年の時を1人で生きる中他人を思いやることが出来なくなってしまったこと、そしてそれにより殺したいほど憎いはずのクラウスと同じことを繰り返していることがわれわれには見えるから絶望する。ただの絶望ではなく、これが繰り返された絶望だということが分かってしまう。そしてだからこそこれからも繰り返されるのではないかと思ってしまう。実際、ファルスの作り上げた『永遠の繭期』の中で生き続けることを拒み集団自決に走ったリリーは、絶望の蘇生ののち「みんな、起きて」と叫ぶ。リリーの中にも「ひとりで生きたくない」「一人ぼっちで永遠に生きるなんて嫌だ」という気持ちがある、もしくは今後芽生えるであろうことが分かる。そして、その気持ちはきっといつか「だから誰かに一緒に『永遠』という牢獄に入ってほしい」へと変貌する。

 

そして『TRUMP』を観劇した者だけがあの瞬間に味わえる絶望のような悲しみのような何か。

「この薬の名前は、『ウル』さ」

一体どんな気持ちで救えなかった友人の名前を付けたのだろう。「俺は君で、君は俺」だから自分の血にその名前を付けたのか。それとも、あの時これがあれば彼を救えたのにという思いからだろうか。どんな気持ちからだとしても、そこにウルへの何かしらの思慕があることだけは疑いようがないと思う。ファルスになったソフィもウルを忘れていない。ウルとの間に起きたこと、あのクランで自分を巻き込んだ運命、そういうものを忘れたわけではないのに、それでもファルスはあのサナトリウムを作りたい欲求に抗うことが出来なかった。って考えると、どんな暮らしをしてきて、どんな平穏とどんな失望を送ってきたのかなあと思ってしまう。

『TRUMP』観劇後からずっと気になってたんだけど、クラウスは結局ソフィを置いてどこかへ行ってしまう。不老不死にするだけして、共に生きることを選ばない。じゃあソフィが不老不死になった意味ってなんだろう。ソフィの苦しみは何のためなんだろう。それがどれほど救えないことか、その虚しさを否応なく思い知らされてるソフィが、結局はリリーに同じことをしてしまうというのもやりきれない。

ソフィは、多少のズレはあるものの自分がクラウスにされたことをなぞってリリーにほぼ同じ仕打ちをする。『TRUMP』のみを観劇した時点では、ソフィは『巻き込まれた哀れな主人公』でクラウスは『身勝手な欲望を抑えられなかった諸悪の根源』だった。しかし『リリウム』を観ることで、その印象は変わる。ソフィは、絶望の連鎖の中の1つのコマへと変わり、与えられた分の絶望を誰かに受け渡してしまう。だったらクラウスがソフィにもたらした絶望も、いつか誰かに押しつけられたものだったのかもしれない。そして、『リリウム』中では『TRUMP』のソフィと同じく『巻き込まれただけの主人公』を完遂したリリーもゆくゆくは誰かに絶望を受け渡してしまうのかもしれない。

 

『リリウム』のすごいなあと思ったところは、『TRUMP』を観なくても全然大丈夫だったところだ。ソフィが誰なのか、ウルとは何なのか全くわからなくても十分に謎があり、十分に迫力満点の展開であり、何の不満もなくストーリーに納得できる。でも、観ていると全然違う。特に大きいなと思ったのは、おそらくリリーはファルスに殺してもらうことはできないであろうことだ。『リリウム』だけを観劇した人は、おそらくファルスのことをTRUMPだと考えるだろう。しかし本当はファルスはTRUMP=True of Vampではない。ただ不死なだけのヴァンプだ。ソフィはクラウスにイニシアチブを掌握されているから、クラウスならソフィを殺すことが出来る。クラウスならソフィに『星』を贈ることが出来る。しかし、ファルスはリリーのイニシアチブをおそらくは既に失っている。リリーがソフィと同じく死を望んだとして、そのための彷徨の末ファルスに再び廻り逢っても彼はリリーの『星』を掴んではくれない。

私の記憶が正しければ、一度発生したイニシアチブは死ぬまで消えないという設定があったような気がする。これはおそらくヴァンプの中では当然の常識であるはずだ。でも、多分ファルスとリリーのイニシアチブは同化してしまっていて、この2人はお互いにお互いをどうにもできないのではないか、と思う。

 

忘れることと忘れられること、そして忘れられないことの残酷さが三重奏で襲い掛かってきてやっぱりこの脚本書いた人精神歪んでるのでは…と思った(褒め言葉)

スノウは徐々にファルスのイニシアチブの影響を受けなくなり、自分たちが閉じこめられているサナトリウムの真実をおそらくほぼ知っている。それでもなお、死ぬのが怖くて一度はそれを受け入れた。イニシアチブの影響下にあるほかの少女たちに何度も存在を忘れられ、自分だけが一方的に思い出を紡いでいくのはどれほど寂しいことだろう。そうして結局は人とあまり関わりを持とうとしなくなったスノウにとって、生きることはどんな意味を持っていたのだろう。「私を忘れないで」と言いながら死んでいったシルベチカにしても、死に方を観る限り自分が存在したという記憶が今後どうなるか薄々はわかっていたのではないかと感じた。愛した恋人にさえ自分を忘れられるとわかっていてもなお受け入れられないくらい、彼女にとって『永遠』の檻は苦痛なものだったのだろうか。

キャメリアとリリー。何か大切なことを忘れている、忘れているのはわかるのに何を忘れているのか思い出せない。私は覚えているのに周りは誰も知らない。本当は『覚えている』んじゃなくて『夢でも見ていた』だけなのかもしれない。ただでさえ不安定な繭期の少年少女にとって、自分の記憶さえ信じられないというのは相当な精神的負荷なのではないかと思うのだがどうなのだろう。

そして何よりもファルスだ。自分だけが覚えているたくさんのこと。自分だけが生きてきた時間が違うこと。自分だけの、自分だけで、自分だけが…本当にサナトリウムでの時間はファルスにとって幸せだったのだろうか。『永遠』にここにいたいと思うくらい幸せだったのだろうか。それを考えると、このサナトリウムにたどり着くまでにソフィが過ごした時はきっととてつもない孤独に満ちていたのであろうことが窺える。誰かと話して、軽口叩いて退屈だなあってうんざりして、そんな暮らしをソフィが味わうことはもう二度とできない。サナトリウムでの時間なんて嘘ばっかりだし、自我は奪ってないと言っても何度も何度も記憶を消してあれこれリセットして、って繰り返してそれを800年も続けたら普通は飽きる。脆くて嘘だらけで自分だけが異質で、そんな出来の悪い偽物でも愛してしまうくらいソフィは切羽詰まっていたんだなあと思うと、なんだか憎めなくてもっとうまいやり方あったでしょって叱ってあげたくて。しかもその始まりがただ遠い祖先にある少年がいただけ、というのがますますやりきれない。別にソフィの父親でも息子でも孫でもひいじいさんでも、誰だってよかった。クラウスにとってはアレンの血さえひいていれば誰だってよかったのに、そんな理由で背負わされるにしてはソフィの運命はあまりにも過酷だ。

 

ここからしばらくただただキャストを褒めるのだが、ファルスの前にまずはスノウから。

この舞台の中で一番清涼感があって、“静”の存在感に満ち溢れていた。人と関わらず、シルベチカを探すリリーにも意味ありげなことしか言わず、裏には長い絶望と苦悩がある。その末の静けさに和田彩花さんがとても似合っていたと思う。何より声がいい。なにせキャストが全員ハロプロなので大体みんなハロプロっぽい歌い方なのだが、スノウだけはあの歌い方は似合わなかったと思う。儚くて細くてなめらかでしなやかで、あの舞台にいた人の中で和田さんが一番スノウらしい声をしていた。お姫様みたいだった。

スノウと並ぶ主人公、リリー。物語のクライマックスに差し掛かるまで、出番こそ多いがほぼ自我がないようなものなので感情移入して憑依して演じるのはとても難しい役なのではないかと思う。だからこそ憑依に頼らず演じる必要があったと思うのだけれど、鞘師さんはこの触媒のような主人公にとてもあっていたと思う。そこからの後半の怒涛の歌唱。力強さ。でもそれはどこか身勝手で、必ずしも正しいわけではない。「まっすぐな心で『運命』に抗おうとするリリー」がまっすぐまっすぐ演じられるのが余計に怖さをそそる。ここからリリーもまた誰かにとっての過酷な『運命』になってしまう日が来るのかなあと思うとなんかもう本当につらさが半端ない。語彙力を失うレベル。ほんとうにつらい。語彙力死んだ。

「私は実力者です!」っていうのがものすごい勢いで伝わってきたのはやっぱりマリーゴールド。表情、迫力、鬼気迫る雰囲気、すべてが圧巻だった。コメディ担当ではないものの、主要な登場人物に含めていいかと言うとちょっと首を傾げてしまう。主人公かと言われると決してそうではない。けれど、“動”の存在感という意味では間違いなく彼女が群を抜いていた。一番強烈な光を放っていた。彼女の舞台はこのDVD一枚きりしか観たことがないのだけれど、先日の卒業発表を聞いて「ああ、やっぱりなあ」と思ってしまうくらい、きっとこの子は舞台の上で生きていくために生まれてきたんだと思ってしまうくらいすさまじかった。アイドルとしての彼女もきっとすごいのだろうと思う。きっとすごく可愛くてとてもかっこよくてたくさん愛されていて、それを知っていてなお「がんばって、ここで生きて!」と叫びたくなるくらいすごいのだ。本当に、どうか頑張ってほしい。

そしてファルス、工藤遥さん。最初の軽薄で女の子大好きな男子生徒から、後半まさかの黒幕へ。キャメリアが戸惑い悩む思春期の少年役だったのに対して、ファルスはもっと強くて狡猾で男らしい。そして少年であって少年ではない、老人だ。私が初めて見つけた時はおかっぱ頭でランドセルをしょった写真が公式で売られていたようなあのかわいい女の子がこんな狂気に満ちた男の役を演じているなんて、ビー玉だと思って拾い上げたら手榴弾だったみたいな衝撃だ。『リリウム』単体としての主役はリリーとスノウなのだろう。けれど、裏の主人公はソフィだ。そして、いつかソフィになるリリーだ。心がまだあるけれど身勝手さに支配されて、あの時のソフィのままだけどどこか狂ってしまっている、そんな役を演じるのはどれほど難しいことか。さらに、『リリウム』は『TRUMP』のメインパート(4600~4500年前)と冒頭部分(今)の間に挿入される物語だ。だからファルスは、ちゃんとソフィと繋がっていなくてはいけない。既にちゃんとした男性が演じている男性キャラをあの年ごろの女の子が演じる、っていうそれだけでもプレッシャーは大きいだろうに寄りにもよってファルスだ。でもとてもよかった。少なくとも私の目には文句なしに少年に見えた。あのハスキーボイスが演技仕事の世界(舞台でもテレビでも映画でも)でどういう評価を受けるものなのか私にはわからないけれど、今後も彼女に演技をする仕事を色々してほしい。もっとたくさんこの子の演技が観たい。狂気、不安、渇望、執着、そういう3000年生きたものにしか味わえない様々の感情が、ファルスの演技にはちゃんとこもっているように感じられた。

 

 

 

・感想とかいろいろ

『リリウム』まで観たあとにネットでちょろちょろ考察を漁っていたら、「クラウスがアレンにあれほどの執着を見せたことから考えて、クラウスは実は女なのではないか、そして『リリウム』のサナトリウムに実はクラウスはいたのでは」と言っている人がいた。いやーそれは違くない?と私は思うのだがどうなんだろうか。それに関連して、作り手は「ここまでは『そういうもの』として受け入れてね」ってラインをどうやってどこまで観客に知らせるべきなのかなあということをぼんやり考えている。

私はクラウスのアレンへの執着を、よくわからないけど成人男性が青少年に剥けるめっちゃ重くてめっちゃ強くてめっちゃすごい感情なんだなーとあっさり飲み込んだので、どこまでを伏線(の可能性がある表現)扱いするかって難しいなあと思う。でも、クラウスのアレンへの想いには確かにほんのり違和感がある。『TRUMP』『リリウム』2作まとめると、程度の甚だしく強いだろうと思われる関係は複数ある。ウル⇔ソフィ、アンジェリコラファエロ、クラウス→アレン、アレン⇔メリーベル、クラウス→ソフィ。リリー→シルベチカ、マリーゴールド→リリー、キャメリア⇔シルベチカ、リリー⇔スノウ、ファルス→リリー&スノウなどがぱっと思いつく。この中で、クラウス→アレンだけ、なんとなく異質なのだ。なんだろう、あんまりうまい言葉が見つからないけれど、「なんでそんなに好きなの?」ってつい思ってしまう。

家柄のこと、将来のこと、自分との実力差などがぐちゃぐちゃになって、名前をつけがたいラファエロへの気持ちを募らせるアンジェリコ。彼はある意味とても分かりやすい。勝ちたい、勝たなきゃ、勝てない、並びたい、一緒に。一緒に同じくらい輝きたい、って気持ちはとても想像しやすい。その果てにラファエロを殺そうとしたのにクラウスに先んじて彼を殺されてしまい、灰になった『ラファエロだったもの』をみながら「あいつは僕が殺すはずだったんだ!僕が!僕が!この僕が!!殺したかった!!!!――違う、本当は、仲良くしたかった……」と崩れ落ちるアンジェリコはとても分かりやすい。わかりやすいという表現もどうかと思うが、脳が違和感を感じないのだ。純粋にラファエロとアンジェリコの感情の機微に集中できる。

マリーゴールドもそうだ。母親に忌み嫌われ、人とまともに触れ合ったことがなかったマリーゴールド。「リリーに出会って初めて私は生きることを知ったの」「リリーに会って初めて私は生まれたの」と歌う彼女にとって、リリーはそりゃあ大事な大事なかけがえのない存在だ。そこに性別は関係ない。

アレンは確かに特別だった。不思議ちゃんで、なんか変だし、「永遠なんていらないよ」とか普通に言ってのけちゃうし。でもやっぱり、何でそこまで?って思う。何千年も生きていて、ずっとクランで教師をやっていて、人なんて腐るほどであって飽きるほど別れてきたはずのクラウスにとって、アレンの何がそんなに特別だったんだろう。永遠に共に生きたいだなんて、何がクラウスをそこまでの境地に追い立てたんだろう。案外答えは簡単で、本当に連想させられる通りクラウスはアレンが好きだっただけなのかもしれない。ただ恋をしていただけなのかもしれない。もしもそうだとしたら、クラウスはなんて人間くさいんだろう。アレンの方が人間離れした価値観を持っていたとさえいえるかもしれない。誰よりも人から遠いところにいるくせに、人間みたいに簡単に恋に落ちるなんてそんなことあるんだろうか。

最後に。ダンピールについて私は勝手に

・ダンピール=思春期までは人と同じ

・というより、思春期までは人間とヴァンプに違いはほぼない

・繭期を境にヴァンプには人間と異なる種々の特徴が発現する

・一部のダンピールもヴァンプと同じく繭期が来る

・繭期がきても越えらえない(=死ぬ)ダンピールもいる

・越えることが出来たら性質的にはヴァンプと同じになる

と解釈してたんですけどどうなんでしょう。ソフィやマリーゴールドの言動からして、ダンピールには繭期が来る者と来ない者がいるんじゃないか、そして、繭期が来なかった者は人間と変わらないまま一生を終える。つまり、ダンピールは繭期さえ来なければ人間の中で人間と全く同じ生活を送れる(逆に言えばヴァンプにはなれないことになる)のかと思っていた。TRUMPシリーズにまだまだ未見の作品があるため怖くてネタバレやら脚本家の話やらをみていないので既にこの疑問は解決されていそうだけど。

それに付随して、ヴァンプと人間て種として非常に近いところにいるいきものなんだろうなと思う。そもそもヴァンプ狩りが始まったのも、人間がヴァンプの不死の力を羨んだからだっていう説明があったようななかったような。「羨んだから」っていうのが私の記憶違いじゃなければ、ヴァンプ狩りの究極目標は『人間も不死を手に入れること』だったことになるのでは?応用すれば人間にも不死をもたらせる(ほどに種として近い)、ってますます人間とヴァンプの関係が気になる。そもそもクラウスも人間だったとか?ヴァンプは突然変異や神のイタズラが生んだ人間の亜種ということもありうるなあと思う。ただ、「羨んで」ではなく「不死を恐れて」とかが狩りの理由だったような気もするので何とも言えない。

まあ何はともあれめちゃくちゃ楽しかった。すんごい頭使ったし、考えてないと死ぬ脳みそ露出思考マグロとして非常にいい経験でした。また舞台観に行けたらいいな。

 

 

そんなこんなで『TRUMP』『リリウム』をめちゃくちゃ楽しんだ私は、『リリウム』視聴のその日にはモーニング娘。’15のコンサートのチケット(これまた死ぬほど楽しかった。感想を書く余裕がないのが悔しい。))を手に入れていたのでしたとさ。~完~

*1:幼少期に定期的に舞台を観る会みたいなものに入会していたので厳密には初めてではないですが、大人向けのものを観るのは初めてでした。

*2:どうでもいいけど「ボロがきてる」って日本語初めて聞いた。「ガタがきてる」じゃないのかなw

*3:魔法少女まどか☆マギカ

僕の後ろに道はできる

何を書いてもなんだか違う気がして、自分の心を自分の言葉で掬いきれなくて、これ以上なにか書くことに意味があるのかよくわからない。けれど、Twitterで見かけたたくさんの言葉の中にすとんと胸に落ちたものが2つあった。少しだけ書く。
とても短いので前記事の追記でいいくらいなんだけど、その前記事自体がそこそこ長いので分けます。


『微量の恐怖』『漠然とした不安』


どちらも私の書いた『君が幸せでありますように/君の幸せでありますように』を読んだ方の感想だ。あ、そうか私怖いんだな、と気づいた。そうだ、怖い。だから申し訳ない。


赤西さんがいなくなったときはまだ大丈夫だった。だって彼は特別だったから。錦戸くんがいなくなったときも大丈夫だった。だって彼はいつかはどちらかを選ばなければならなかった。山下くんがいなくなったことは、いつの間にか大丈夫になった。たくさんの美しい思い出と優しい今が大丈夫にしてくれた。田中さんがいなくなったのも大丈夫だった。彼がいなくなったのは100%の彼の意志じゃなかったから。


アイドルでいるということが1つの選択肢に過ぎないこと。「アイドル」を乗せられる天秤が存在すること。天秤にかけた結果、アイドル以外の「何か」に傾く人もいること。
ああそうか、私は目の前で道が作られてゆくのを目の当たりにしている。存在しないでほしかった道。

2012年の関ジャニ∞のコンサートMCを思い出した。ずっと三馬鹿のエピソードとして話されてきた旅行の話、実はあれにはそれぞれの彼女も来ていて6人旅行でした、今までメンバーのエピソードとして話してきたことの幾つかは本当は彼女のことです、というあれだ。あの時1番嫌だったのは、これから先ジャニーズの他のエピソードに素直に萌えられるかわからない気がしたことだった。私が大好きなあの話、この話は本当はほかの人がいたかもしれない、大好きな発言や行動が本当は違う人のものかもしれない。そういう疑いを植え付けられたのが嫌だった。だって、横山さんや渋谷さん、村上さんがそれがそうしてたんだから、ほかの人だってそうしてるかもしれない。これからほかのジャニーズ達も「こう言ってるけどほんとはもしかして…」って思われることになる。「前列」という道をエイトが作ってしまった、それがいやだった。だって誰かに出来たなら、誰にでも出来るかもしれない――。

 

「出来事そのもの」じゃなくて、「こういうことが有り得る」っていう前列が怖かった。

 

赤西さんが通った道は獣道だと思っていた。邪道とかそういうことが言いたいんじゃなくて、赤西さんが自分自身で自分のためだけに開いた、彼にしか通れない道だと思っていた。だから山下くんがその道を通ったときびっくりした。通りたくても通れない特別な道だと思っていたから。

それは私にとって本人の希望とは関係ない問題だった。山下くんが通りたくてもその道は通れない、だからほかのやり方で自分の希望と向き合っていくんだと思っていた。

 

田口くんが今、目の前で道を切り拓いている。広くて通りやすい綺麗に舗装された道。今度こそ獣道じゃなくて、誰にでも通れそうだ。だから怖い。何か理由があるなら教えてほしい。その道を通るにはやっぱり特別な通行証が要るんだと言ってほしい。でもどうやらそうではないらしい。

いいことも悪いことも、1番最初が1番勇気がいる。何もないところに0から道を作るのはとても大変だ。次に誰かがキャスターになったら、櫻井さんと小山さんの努力を汚さないようにしなきゃいけない辛さはあるけど「ジャニーズにキャスター務まるわけねえだろ」って声は櫻井さんよりよほど少ないだろう。次に誰かが気象予報士の資格をとっても、「ジャニーズなのにこんな難関試験に合格するなんて信じられない!!!」って声は阿部くんや岸本くんより少ないだろう。次に誰かが、辞めたいと思った時…

 

微量の恐怖と漠然とした不安。言い得て妙だ。
田口くんの歩いてゆくのが本当に広くて綺麗で誰でも通れそうな道だとしても、どうか一つの足跡もつきませんように。もう誰もそれを通りませんように。

 

 

だけどねえ本当は、君にもそんな道を歩かないでほしかったんだ、あなたが見れなくなるのがいやなんだ。なんて言う資格はきっと私にはないのでしょう。

 

 

はーーージャニオタめっちゃこええ!!でも辞めらんねえ!!やばくない!?現実の恋愛で好きになった人って絶対人間辞めないじゃん!?DIO様だけじゃんそんなことすんの!!!「君の好きなアイドルあと4ヶ月で消えまーーーす」とか言われてもどうしようもねえよ!!!つーかDIO様現実じゃねえし!!でもアイドル現実だし!!!なんだこれ!!意味わかんねえ!!!現実なのになんで消えたりすんの!?!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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そしてまた自分の文章に殴られる。てやんでい。泣きそう。このやろー。 

君が幸せでありますように/君の幸せでありますように

4泊6日でタイに行ってきた。人生初の海外旅行だ。旅行自体はとても楽しかったのだが、ネットがほとんど使えないのがネックだった。ちょうど『四銃士』リリース日がど真ん中にあたる日程だったため、WSも各種番組もほぼほぼ見逃すことになる。ホテルのフリーWi-Fi(わりとクソ)以外は時折飲食店でちょっと使えるくらい。普段1時間にいっぺんは見ている気がするTwitterでさえ1日の終わりにちょっと見れるくらいで、日本の出来事がぼんやり遠い。

四銃士のリリース日に不在であることに加えてもう一つがっかりしたのが、ベストアーティスト2015を見られないことだった。LOVEメドレーを楽しみにしていた。愛言葉をやることを知って見れないことが尚更悔しくなった。だから、11月24日の夜にホテルに帰ってきてWi-Fiを繋いだあとは真っ先にTwitterを開こうとした。NEWSのパフォーマンスのキャプチャ画像だけでもみたい。やっと通信が繋がった瞬間、LINEが来た。ステータスバーの上部に姉からのメッセージの冒頭が表示される。


「田口が!田口が!!!!!!」


LINEを起動した画面に書いてある言葉の意味が分からなかった。

 

「田口がKAT-TUN辞めて、事務所も辞めちゃうんだって!!!!」

 

メンバーのコメントの画像が添付されていたけれど、ネットの速度が遅いせいで全然読み込めない。何を言っているのか全然わからない。本当に、意味が分からなかった。だって田口くんが、まさか、だって、だって1番あなたが。


正直言って、まだ心の中で少しだけ「間違いかもしれない」「日本に帰ったら脱退なんてなしになってるかもしれない」と、ほんの少しだけ、一欠片だけ思っている。今私は日本に向かう飛行機の中で、この飛行機が東京に着いたら本当の本当に現実を受け止めなくてはいけない気がして帰りたくない。でももうあと1時間もせずに成田に着いてしまう。

Twitterを開いてTLを2時間分くらい読んだところで、私の頭はほとんどの現実を理解した。あの日から既に3日が経ったが、いまだ足元が崩れ落ちたような心許なさだ。正直言って、私自身にこの出来事を悲しむ資格などないと思う。別に、KAT-TUNのものすごいファンというわけでもないし、実際悲しいというわけではない。悲しみもあるけれど、それを圧倒的に凌駕するむなしさのような何かがある。得体の知れない脱力感があの日から拭えない。
多分これが誰の脱退であっても、少なからず同じように感じたと思う。それが田口さんであったことでこの感情の強さは増しているだろうけど、でもNEWS以外なら誰だったとしても同じようなことを考えただろう。だから、私にこういう風に思いを綴る資格はないかもしれない。私の思いはちゃんとずっと彼らを好きな人を不愉快にさせるかもしれない。それでもどうしても不安で寂しくてたまらないから、この場を借りて吐き出させてほしい。

これは田口くんが辞めることへの悲しみではない。田口くんへの怒りでもない。ただの、1人のNEWSファンとしての、気の持ちようの話だ。悲しみも怒りも憎しみも想像もKATーTUNを愛する人たちのものであって私のものじゃない。でも、何も思わないなんてそんなことは出来ないから、思ったことを書かせてほしい。誰に謝りたいのか謝るべきなのかわかりもしないのに、ただただ何かに謝りながらこの文章を打っている。


ゆっくりゆっくり事実を理解して絶望した。亀梨さんと田口さんと上田さんと中丸さんのコメントを読んで、もう泣きたいくらいだった。田口くんの脱退は、全然全く『円満』ではないのだろうと思う。山下くんを思い出させられた。田口くんの選択は多分、一つの仕方なさも備えていない。彼が彼自身の頭で考えて、大事なもの同士を天秤に掛けて、そしてKAT-TUN以外の何かを選んだ。
私が2011年10月のあの日、山下くんの選択に絶望したのも、彼の脱退に「必要」も「仕方なさ」も見つけられなかったからだ。
山下くんはNEWSを選べなかったわけじゃない。NEWSを続けられないのっぴきならない理由なんて1つもなかった――彼の心以外には1つたりとも。


増田さんの存在を知って、ジャニーズを、アイドルを好きになって、高校生の私は信じていた。パフォーマンス自体よりMCをみる方が楽しかったあの頃、アイドルにキャラ萌えしていたあの頃、当たり前のように信じていた。アイドルグループのメンバーは他のメンバーのことが好きだし、なんだかんだ不満があってもそれはいつか乗り越えられてゆくものだし、アイドルにとって「アイドルであること」はとても特別なのだと信じていたのだ。「アイドルになる」ことは出来るけど、「アイドルを辞める」ことなんて出来ないと思っていた。
それが初めて揺らいだのは、赤西さんが脱退したときだった。でも、その時はまだ大丈夫だった。特に理由はないけれどなんとなく、赤西さんは特別な人なんだと思っていた。それは彼が留学や活動休止を過去にしていたからだったし、好きな音楽の方向性がジャニーズの中では突き抜けているように見えていたからだったし、すごく才能がある人だと知っていたからでもあった。中丸さんを弄る赤西さんが、背中合わせの仁亀がもう二度と見られないのだと思うと悲しくて仕方なかったけれど、それでも私にとってあの脱退は特殊事例だった。赤西さんだから許された、赤西さんにしか許されない行動なんだと思っていた。

「アイドルでいること」は必ずしもアイドルにとって至上の価値を持たない。それは私にとって不都合な真実だった。でもきっと、赤西さんだけが特別なんだと思っていた。私が期待する通りの愛や誇り、執着が必ずしもなくたってそれでも、「アイドルでいること」と天秤に掛けられるものなどない気がしていた。そんな天秤は存在しないと思っていた。

 

山下くんと錦戸くんの脱退が発表された時、何を言っているのか理解出来なかった。錦戸くんの脱退は仕方ないと思えた。だって彼は忙殺されていて、どんどん痩せて、NEWSとエイトが躍進すれば兼任がいつか破綻するのは目に見えていて。だから諦めることが出来た。錦戸くんのNEWSへの、NEWSファンへの愛を信じたまま、「NEWSの錦戸亮」を諦めることが出来た。
でも、山下くんは違う。彼にはNEWSを辞める必然性なんてどこにもなかった。山下くんがNEWSで見せてくれたもの、NEWSにいた山下くん、山下くんが好きだったのに、彼はそれを天秤に掛けて、捨ててしまった。私が大好きだった彼を、彼自身が私から奪った。奪われたことよりも、その天秤が存在したことの方が衝撃だった。何故か私は無根拠に、そんなことは不可能だと思い込んでいたのだ。何がしたかろうと何が嫌だろうと、そんな個人の希望だけでグループの脱退が許されるなんて思ってもみなかった。


ああ、もしかして本当はアイドルっていうのは辞めたければいつでも辞められるんだろうか。みんな心の中で、何かとアイドルを天秤に掛けながらアイドルを選び続けているんだろうか。そうじゃないと言ってほしい。「アイドル」っていうのは、アイドルにとって唯一無二の何かで、他のものと比べることなんて出来ないんだと……言えない。言えないのだ。
この時アイドルに抱いた脱力感を、結局私は忘れた。NEWSのメンバーのNEWSへの愛が、NEWSでいることへの執着が、アイドルでいることの誇りが、NEWSファンでいることの楽しさが、私にこの虚無感を忘れさせた。山下くんを嫌いになりたくなくて、NEWSを好きでいたくて、都合の悪い想像を頭から追い出してNEWSファンでい続けた。


田中聖さんがジャニーズ事務所を解雇されたとき、「ああ、馬鹿だ」と思った。KATーTUNが好きなくせに、厨二くさいけど真っ直ぐな言葉でKATーTUNへの愛を語っていたくせに、再三注意されても契約違反を重ねた田中さん。なんでだろう、どうしてアイドルとしての立場を危うくしてまで外で活動したんだろう。KATーTUNでいることと天秤に乗せなきゃいけないとしてもやりたいくらい、それって大事なことだった?
「こんなんでもジャニーズやってんだよ」って言う田中さんが好きだった。田中さんにとって、「『こんなん』な自分」と「ジャニーズの自分」は、「『こんなん』な自分」の方が大事だったんだろうか。
馬鹿だと思った。でもまだ大丈夫だった。田中さんは結果的にアイドルの自分を天秤に掛けたけど、それはあくまで結果だ。続けたらやばいとわかってはいたかもしれない。その時はその時だと思っていたのかもしれないし、大丈夫だとたかをくくっていたのかもしれないし、アイドルから気持ちが離れていたのかもしれない。それは私にはわからない。でも、彼は「KAT-TUNか、それ以外か」を直接的にハッキリ選択したわけではないのだと思い込んだ。怖いから今でも調べていない。彼は解雇された、それだけが私にとっての事実だった。ファンを泣かせてまで続けるほどの価値があるのか決める前に彼の前から選択肢はなくなった。「『こんなん』な自分」を選ぶかどうか決める前に、「ジャニーズの自分」を彼は失くした。捨てた、と思うことはしなかった。脳裏にその言葉を浮かべることさえ出来なかった。
山下くんのことが頭をよぎらなかったと言ったら嘘になる。けれど、同じだとは思わなかった。山下くんみたいな辞め方をする人なんてもういないはずだ。

好きな人たちを信じていたい。違う、信じる信じないの話なんてしたくない。アイドルでいるのが自明の理であってほしい。ステージでペンライトと歓声の波を浴びる以上の幸福なんてないと言ってほしい。私が不都合な真実を見て見ぬふりするの同じように、アイドルにも「アイドルでいること」が選択可能な道の1つに過ぎないことを見て見ぬふりしてほしかった。


田口くんが脱退した事実と目に見える範囲の経緯を知って絶望した。心の中で糸が1本切れた音がした。かなしいくらいにはっきりと、大事な大事な糸が1本切れた。
彼は選んだ。大事に大事にしていた「KATーTUNの田口淳之介」と、そうじゃない別の「田口淳之介」とを天秤に掛けて、KATーTUNじゃない方の田口淳之介を自分の意志で選んだ。山下くんを思い出した。今度は脳裏をよぎるとかじゃない。はっきり思い出した、あの日の感情が再び胸に押し寄せた。
赤西さんがいなくなったときはまだ大丈夫だった。だって彼は特別だったから。錦戸くんがいなくなったときも大丈夫だった。だって彼はいつかはどちらかを選ばなければならなかった。山下くんがいなくなったことは、いつの間にか大丈夫になった。たくさんの美しい思い出と優しい今が大丈夫にしてくれた。田中さんがいなくなったのも大丈夫だった。彼がいなくなったのは100%の彼の意志じゃなかったから。

田口くん。

長い手足で優美に踊る、いつもにこにこ笑っている王子様。水と油のように田中さんと反発しあっていつしか混ざりあって素晴らしいものを見せてくれた。1人だけ、最初からずっと「俺はKATーTUNが好き」と言い続けた。滑ってばかりでも心折れない田口くん。どんどん中丸と仲良くなっていく田口くん。笑顔が似合う田口くん。どこかの国から紛れ込んでしまった王子様みたいな田口くん。

天真爛漫でグループを愛し、アイドルになるべくしてなったような田口くんでさえ「アイドルの自分」を天秤に掛けることが出来るなら、それが出来ないアイドルなんて多分1人もいない。一縷の望みを掛けていた。山下くんがNEWSを天秤に掛けたのは、彼の心の中にずっと別の仲間への思慕があったからなのだと。それはそれで私にとっては嫌なことで、山下くんを嫌いになりうる理由で、だから正面から受け止めることは出来なかったけど、1つの可能性としてちゃんと認識していた。山下くんもまた『特殊事例』の1人だったのだと、ぼんやり頭の隅で考えて、あとは目の前の楽しいものに夢中になって、それで忘れた。
4年前のあの日知って、そして忘れていたことを田口くんに思い出させられた。

 

アイドルはアイドルである前に人間だ。アイドルとして得られる喜びや楽しみは他では得がたいかもしれない。けれど、逆にアイドルでいる限り得られない喜び楽しみだってある。アイドルがアイドルでいる限り得られない「何か」を切望することだって当然ある。彼らはアイドルという生き物ではない。人間だ。
自分自身の幸せのために、欲しいもののために何かを取捨選択することを止めることなんて誰にも出来ない。たとえ私がその人にどれほどありったけの夢と愛を乗せてたってそれでも、他人の選択をどうこう言うことなんて出来ない。他人の選択に、他人の幸せに、私は一切関与できない。当たり前だ。そしてアイドルは他人だ。
どんなに好きでも、どれほど好きでも、何をしても何を言われても、私が大好きな人たちは遠いところにいる他人だ。私が願う「彼らの幸せ」はある日突然彼らにとって「要らないもの」になるかもしれない。ある日突然、愛する人を愛する人自身に奪われる日が再び訪れるかもしれない。その時出来ることなんて何もない。その時、愛する人にしてあげられることは、もう1つもないのだ。そして、そんな日がいつかやってくるとして、「その日」まで私はまた不都合な事実から目を逸らす以外何も出来ない。

今見て見ぬふりをしていること、都合よく解釈していることは本当は目に映る通りの事実でしかない。NEWSと関ジャニ∞の活動が相互に支障をきたしはじめていた、と私は何度か書いている。あれは嘘だ。あの頃、NEWSは活動していなかった。それをエイトとの兼ね合いだと思い込んだ。無活動はただの無活動だ。そこに良い意味合いがあることなんてほとんどない。売上が足りないとか脱退が決まってるとか、何かが駄目だからそうなっているだけなのだ。私はこれからしばらくはそう思ってしまうだろう。NEWSの小休止が去年で良かったと心から思う。あれが今年だったら、きっと私は田口くんの脱退に耐えられなかった。これから先、不満足な現状を楽天的に捉えられる自信が全くなくなってしまったから。


私が好きな人たちの全員が、1人残らず、今この瞬間にも「アイドルの自分」を何かと天秤に掛けてしまう可能性を持っている。そして天秤は「何か」の方に傾いてしまうかもしれない。目の前にある何らかの嬉しくない現実は全てその兆候でありうる。田口くんでそれがありえたのだ。誰でだって同じことがありうる。
アイドルを好きになった時、私の足元には踏みしめられるしっかりした土台があった。少しずつそれは崩落していって、山下くんたちの脱退で完全に崩れ落ちた。でも、足元が何もなくなっても私はまだ同じところにいた。命綱があった。材料さえもわからないその綱は、何かある度繊維が少しずつ切れて、今回ついに完全に切れてしまった。私が踏みしめられるものは何もない。私を繋いでくれるものも何もない。それでも何故か浮いている。土台や命綱がなんだったのか、今浮かんでいる場所がなんなのかも分からないまま、多分「好き」だけで私は浮遊している。
好きでいていいのか分からない、それでも好きだ。好きだけど、今、どんな些細な不安にも抗えない気がする。

多分何を聴いてもそうなるんだろうけど、飛行機の中で『Faighting man』を聴きながら田口くんのことばかりぐるぐる考えていた。
「挑戦したらいいじゃん?ありのまま思うがまま 何もしなきゃ始まんないぜ 自分に負けんな」「誰かのために生きているわけじゃない 比べずに迷わずに歩んで」
彼らが進みたいと思う道・彼らの望む幸福と、私たちが願う彼らの幸福が重なることは一体どれほどの奇跡なんだろう。私の望む幸せは、いつまで彼らの幸せなんだろう。その不確かさを嫌というほど思い知らされたはずなのに忘れていた。田口くんに思い出させられた。


それでもいつか忘れるだろう。浮遊感も絶望も脱力感も奇跡だということも、そのうち再び忘れるだろう。可愛くてかっこよくて楽しい現実に紛らせて、必ず忘れる日が来る。そうしたらもう2度と思い出したくない。もう2度と思い出させられたくない。今度こそ最後であってくれ。お願いだから。