映画『ピンクとグレー』2度目の鑑賞を無事終えた。1度目は公開初日の朝イチの回を観たのだが、小説『ピンクとグレー』を読み直す時間がなかったのでちゃんと読んでからも観たいなあと思って2回観た。あと1回は渋谷で観たかった(初回はスケジュールの都合がどうしてもつかなくて大阪で観た)ので。同じ映画2回観たの初めてだわ。
色々考えさせられることがあったので備忘録も兼ねてつらつらと感想を。参考までに書いておくと、
・原作:発売日(2012年1月)に購入して読了
・でもその一度しか読んでなかった
・映画:公開初日と2月1日の2回鑑賞
・原作文庫版:2度目の鑑賞前日に再読
・宣伝やインタビュー、解説など:SORASHIGE BOOKでの言及以外ほぼ何も知らない
って感じなので、監督や役者さんの解説とかと矛盾してるところもあるかもしれません~まあそれも味かなってことで(笑) 考察というよりは解釈に近い感じです。
ストーリーにもガンガン触れるのでこれから映画が公開になる地域にお住いの方は読まない方がいいと思います。
裕翔くんの最後の台詞を聞いた瞬間私はニヤッと笑って、そしたらそのままアジカンの主題歌が流れ始めてちょっと変な感じがした。そうか私は泣かないのか。映画中も別に一度も泣かなかった。エンドロールを眺めながら、泣けなかったなあとかあそこどういう意味かなあとかくだらないことを考えた。スタッフに田口貴久さんて人がいるとかその少し後に増田さんて人も出てくるんだなとか、そういうことも考えた。(ちなみに2回目で気づいたけど錦戸さんと加藤さんもいる)
裕翔くんの初登場シーンの靴が白黒のぴかぴかで妙に記憶に残った。上唇の左側に古い傷跡があるの、知らなかったな。菅田くんの髪型くそダサいと思ったけど後ろでちょこんと結ぶとかっこいい。それから、ごっちのお姉さん綺麗だった。岸井さん初めて見たけどかわいい。それからそれから、コピーバンドでやるのがフジファブリックとくるりってなんかいいな、それから、
それから、少しこわかった。
正直言って62分後の衝撃は全くの予想通りで大した衝撃でもなくて、でも、そこからの展開はある意味衝撃だった。いや、衝撃とは少し違う。怖い、としか言えない感覚。少しずつ背筋を這い上ってくる、うっすらとした不安。どうしよう。どうしよう、もし、
もし、
もしも本当は、菅田将暉さんが中島裕翔くんをこんな風に馬鹿にしてたら、どうしよう。
もしも本当は、行定監督が加藤さんのことをしょうもないと思ってたら、どうしよう。
中途半端にほんの少しだけ試写会に行った人の感想などを観ていて、すだゆとコンビの微笑ましさのレポをなんとなくみていて、だからこそ余計に怖くなった。成瀬凌が川鳥大に思っていたようなことを、本当は菅田将暉も中島裕翔に思っていたらどうしよう。そう思ったから、そう思えたから、私は映画『ピンクとグレー』を肯定することにした。私は映画を正解だと思っている。だけど映画に怒ってもいる。けれど映画を肯定する。
・映画『ピンクとグレー』が捨てたもの
映画に対するざっくりした印象は、「小説『ピンクとグレー』から可能な限り加藤シゲアキをそぎ落としたらこうなるのかあ」だ。映画では、出会いのシーンの「しょうもな」エピソード/毛虫を握りしめるごっち/スタンド・バイ・ミーになぞらえて大人たちがつけたあだ名/スタンド・バイバイ・ミー/サリーと木本がいなくなって幼少期のうちに2人ぼっちになるという経緯/りばちゃん作曲ごっち作詞のファレノプシスetc etcとにかく2人の関係性に関わるシーン、2人の絆の根幹がカット(あるいは改変)されまくる。あれもカットこれもカットそれもカットついでに改変!祭りじゃ祭りじゃー!!!くらいの勢いだ。
で、このカット&チェンジフェスティバルで何がしたかったのかというと、とにかく加藤シゲアキをそぎ落としたかったのかなあ、と思う。加藤さんの生い立ちや育ちを思い起こさせるような描写はほぼほぼ祭りの餌食(?)になった。その結果、映画ごっちと映画りばちゃんはどちらも加藤シゲアキではなくなった。逆に言えば、小説『ピンクとグレー』では、ごっちとりばちゃんはどちらも加藤シゲアキだった。彼らはどちらも加藤さんの分身で、サリーも多分そうで、登場人物みんなが少しずつ加藤さんだった。小説では、ごっちとりばちゃんは同じ人物で、ただほんの少しのきっかけでいつの間にか全然違う道を歩むことになってしまっただけで、本当は一緒に歩いて行けるはずだった。だから小説の最後は2人が一体化して終わるけれど、映画は決別して終わる。映画の2人は違う人間だから。河田大貴は加藤シゲアキの中の凡人ではなくてただのうだつの上がらない売れない若手俳優モドキだし、白木蓮吾は加藤シゲアキの中の芸能人じゃなくてただのカリスマ芸能人で、だから2人は分かり合えない。一体化できない。
監督のお話などをそれほど読んでいないので見当違いの可能性もなくはないが、すくなくとも私が映画に対して『別物感』とでも言うべき感覚を抱いたのは主にこれが原因だった。で、私が映画に怒っているのもこれが大きいと思う。改変が多いのは言うまでもないが、「加藤シゲアキをそぎ落とす」「2人を分かり合えない他人にする」の2点を目的として手が加えられているので、その改変が、なんというかいちいちむかつく(笑) 私の愛したりばちゃんと私の愛したごっちと私の愛したサリーが画面にいない。木本に関しては愛した記憶ないやごめんね。これから野性時代読んで愛する予定なのごめんね。
小説『ピンクとグレー』に込められた加藤成亮の情念、過去、鬱屈、希望、そういうものが大体取っ払われているように感じた人も少なくないと思う。映画はそれを捨ててしまった。もっと大きな捉え方で言うと、映画はこれらの改変によって『ピンクとグレー』が備えていた特殊性と普遍性を捨て去った。
・小説『ピンクとグレー』――分身、通過儀礼、自我の統合と確立
特殊性と普遍性についての解説の前に、私にとっての小説『ピンクとグレー』の話を少し。小説『ピンクとグレー』は、加藤成亮にしか書けなかった小説で、けれど誰にでも書ける小説だ。なぜなら『ピンクとグレー』は加藤成亮の分身だから。分身だから加藤成亮にしか書けなかったし、分身だから誰にでも書ける。完全に個人的な見解だが、プロの小説家と趣味の字書きを隔てる最大の壁は『自分ではない人物を描けるか』『自分の分身ではない小説を書けるか』だと常々思っている。そして、この意味で言うと『ピンクとグレー』はプロが書いた小説ではないとも思う。ここら辺わりとデリケートで解釈は様々あるけれど、私はそう思っている(強調)。フォローしている方が作家性の話題でおっしゃっていた、『生きているだけでたまる創作ボーナス』という表現が一番しっくりくるので使わせてもらうが、ピングレはまさにこの『ボーナス』で構築された物語だ。ジャニーズになって、よくわかんないけどなんでか前の方で踊る立ち位置を手に入れて、でも何もかもは上手くいかなくて、デビューはしたけど全然思い通りにならなくて、上手に生きれていない気がしていた加藤さん。幼少期の引っ越しで思ったこととか、売れる人と売れない人の違いが分からないのに差がとてつもなく開いて行ったり、友人の活躍が嬉しいのに喜べなかったり、そういうこと全部。どうすれば上手に生きられるんだろうってとにかくもがいてた人が書く、とにかくもがいてる人たちの話が『ピンクとグレー』だった。自分の人生を振り返って、悩んだこととか楽しかったこととかを題材にして自分を主人公にすれば、誰でも一冊は小説が書ける。ピングレはそういう世の中にあふれる分身の一つだ。上手に生きられなくて息苦しさに喘いでいた若者がどうにかこうにか自分と対峙して、折り合いをつけて立ち上がる話。
そして小説『ピンクとグレー』を語る上で欠かせないのが通過儀礼という概念だ。りばちゃんにとってごっちの死とそれにまつわる一連の出来事、そして小説の執筆は、河鳥大として必要な儀礼だった。りばちゃんが河鳥大になるために、この世界で息をする人間になるために。友達の死体を綺麗にして、彼の最期を作り上げて、彼の唯一無二の語り部になって、そして彼と一体化する。パンフレットで監督が小説ごちりばを「成り代わる」と表現していたが、成り代わるというよりは『成る』、もっと言えば『一つになる』が一番近いと思った。この過程を経て彼はようやく本当の意味で『河鳥大に成る』ことができたのだ。
りばちゃんにとってごっちの死が通過儀礼だったのと同じように、加藤成亮にとってもごっちとりばちゃんは通過儀礼だった。この小説が書かれたのは2011年3月。上手に息ができなくてもがいていた、いや、もがき方さえ分からずに暗闇の中途方に暮れていた加藤さんが見つけた起死回生の一手が小説を書くことだった。壊れてゆきつつある自分のグループをどうにか守りたくて書いたこの作品は、結果的に当初の目的を果たすことはできなかった。「俺にも存在意義を」「俺がいてよかったと思わせられるような『何か』を」という思いは願い通りの形では報われなかったけれど、けれど加藤成亮が『加藤シゲアキに成る』ために決定的な役割を果たしてくれた。自分の分身2人を小説という形にすることで、自分の中のせめぎあう自我を統合し確立するという意味でも、小説家という肩書を手に入れ喉から手が出るほど欲しかった『何か』をついに見つけるという意味でも、『ピンクとグレー』という通過儀礼は決定的な役割を果たした。
だからこそ私は『ピンクとグレー』が愛おしかった。りばちゃんが、ごっちが、サリーが愛おしかった。加藤さんがやっと見つけた一筋の希望の光であるという意味でも、もしかしてNEWSはもう活動しないんじゃないかと思っていた時期に発表された仕事という意味でも並々ならぬ思い入れがある。その登場人物であるごっちやりばちゃんにも、本当に言葉では語りつくせないくらいの思い入れがあるのだ。青臭くてやりきれなくて閉塞感と有り余るやり場のない生命力に満ちた登場人物が好きだ。それは加藤さんをそこに重ねて見ていたからでもあるし、重ねて見てしまうほど圧倒的なリアリティに魅せられたからでもある。ごっちもりばちゃんもそこらへんにいそうなところが好きだった。2人の送る数奇な人生が好きだった。彼ら2人は、私と同じように息をして、笑って、何かを愛して生きている人間だった。私は、ごっちとりばちゃんが大好きだ。加藤さんと魂を分けた存在である河田大貴と鈴木真吾が、本当に本当に大好きだ。
・映画が捨てた普遍性と特殊性
映画が捨てた特殊性は、そのままずばり『加藤成亮が書いた小説であるという点』だ。これは捨てたというかむしろ維持する方が困難だし、さらに言えば維持する意味もあまりなかったと思う。あのとき、あの状況だから書けた、多分今の加藤さんにはもう書けない作品が『ピンクとグレー』だし、その種々の状況を映画に持ち込むのは不可能だ。強いて言えば、加藤さんを主演にしていればまた話は変わったかなと思う。あの温度と湿度をそのまま再現する方法はそれくらいしかないし、でもそうすると「世界が閉じ過ぎ*1」だなあと思う。で、その結果、温度も世界観も少しずらして加藤成亮をそぎ落とす方向に走ってああなったのかなあと解釈している。やり過ぎなのかそうでないのか何なのかなんだかもうよく分からないけれど『テーマの描き方を235°くらいひねったら必要になる改変』と『脱・加藤成亮のために要請された改変』が大半だと思うので、つまりは大体なるようになっただけだと思うので不可抗力なのかなと。何もかもを好意的に受け止められたと言ったらウソになるけどさ。
ただ、普遍性に関してはもう少し何とかならなかったのかなと思わないでもない。加藤さんの魂を分けた存在だった小説ごっちと小説りばちゃんは血の通う人間だった。その人生の軌跡もどこかで起こっていそうなもので、アイドルを好きな人はもちろん、一度でも挫折や懊悩を経験した人ならだれでも心の隅をつつかれるような、そんな普遍性が小説にはあった。で。
で、ですよ。
映画りばちゃん、馬鹿過ぎじゃない????
IQ下げの必要については分かる。この映画に関しては商業的な成功が筆頭意義だとも思う。だけども、本当にりばちゃんが馬鹿なのだ。悲しいくらい馬鹿なのだ。何が悲しいって、馬鹿過ぎてもはやりばちゃんがのことがよく分からないくらい馬鹿なのだ。小説みたいな、ほんの一つ何かが違えばごっちの立場に立てたようなりばちゃんはべつに望んでないけど、せめてそこらへんにいそうな凡人に仕立て上げてほしかった。特に菅田りばちゃんは何考えてんのかよくわからないシーンが結構あった。
普通友人の家で友人が飲み物取り行ってる隙に女の子は襲わないでしょーとか。あとこれは好みの問題なのかもしれないけど、裕翔ごっちと菅田りばちゃんの別離のシーン、夏帆サリーを襲う必要はあったんだろうか。そこは抱き着いて泣くくらいの方が小者感が出たような気がするし、何よりあれでりばちゃんとサリーが付き合うのは不可解過ぎた。もうだめだサリーのこともわかんない。付き合うか?あの流れでなぜ付き合うんだ好きになられたら好きになっちゃうのか?そいつレイプ魔だぞほんとにいいのかお前IQ30か??エロ同人か???(エロ同人への圧倒的な偏見)
そう、サリー。「俺といるべきは君じゃない」って言ってくるような男に「私といるべきもあなたじゃない」って言えた賢くてかっこよくて素敵なサリーが、IQ下がるどころかもう別人。名前が同じだけの別人。まあこれに関してはしっかり納得はしてるんだけど、やっぱり残念なものは残念。あと、わかりやすさのためには残しようがなかっただろうけれど、幼少期は表に立つタイプだったりばちゃん、少し不思議で言葉にするのが不得意なごっち、互いが互いの兄であり弟だったごっちとりばちゃんの姿が映像化される機会がなくなったのは少し悲しい。
・映画が得たもの――普遍性
映画はこうして普遍性を失った。代わりに得たものがある。普遍性だ。
(笑)
世界の片隅に転がっていそうな、似ていたはずなのにひょんなことから道をたがってしまった2人はいなくなった。残されたのは、カリスマ性でも才能でも圧倒的に差のある、住む世界の違う2人だ。あーーーいそう。こっちも世界の片隅にいそう。舞台俳優からのし上がってきた人の過去とかにいかにもいそう。そして、悲しいことに実際世界は割と優しくないし結構こんな風に回っている。登場人物にいやなやつが追加されたのも現実に即している。小説では小出水社長も赤城さんも香凛も皆『いい人』だ。でも映画では違う。小出水さんはりばちゃんに現実を突きつける役割を担っているし、香凛の魅力もよくわからない。(個人的にはもっと特徴的で説得力のある半端ない美人を使ってほしかった…)
菅田りばちゃん、馬鹿だけど、わからなくもない。自分より圧倒的にすごい人がすぐそばにいて、そいつのおまけみたいな人生で、好きな子の気持ちも持ってかれるし主役はいつも向こうだし、なんなら仕事までごっちありきのものばっかで、しんどいし苦しいしどうすればいいのか全然わかんないし、だからもう食堂で牛丼食べることくらいしかできることなんてないのだ。自分はアイツには勝てないんだ、って認めるのはすごくしんどい。せめて、アイツに出来ない何かが一つでもあればまだいいけど、映画りばちゃんにはなんにもない。映画ごっちに勝てるところがひとっつもない。
りばちゃんとごっちの対比として残酷なのが、映画では白木蓮吾の死をもってしても河鳥大は『あちら側の人間』にはなれないところだ。小説では丁寧に丁寧に2人の絆が描かれていて、ごっちに口から(口っていうか遺書だけど)「僕よりも有名になってね」「りばちゃんなら大丈夫」と、それから一体化の過程でも「りばちゃんは僕のヒーロー」「彼はもっと輝くべき人間」「僕を存分に利用してでも僕の隣に並んでくれるのを待っていた」と描写される。2人はほんの少し歯車が狂ってしまっただけ、ほんの少しの違いで大きな違いが出来てしまっただけだ。だから、きっかけさえあればりばちゃんもごっちになれる。映画ではそうじゃない。「お前、白木蓮吾がらみのやつ断ったら仕事なくなるよ」/「蓮吾はもっと努力してたよ」「蓮吾じゃないですから……俺は白木蓮吾じゃないですから」「そうだよ、全然違う」などの台詞や、成瀬とサリーのやり取りなどから、りばちゃんは『向こう側』にはいけないことが分かる。白木蓮吾の死、という十二分に大きなきっかけがあってもりばちゃんは駄目なのだ。ここはとても強烈に映画と小説を別物にしているし、普遍性を生んでいると思う。
普遍性っていうのは、ありふれてるってことじゃない。あるかもしれない、あったかもしれないって誰かに思わせる力だ、誰かの心に刺さる鋭さだ。そんなもん必要ない創作物もあるけど、あった方がいい創作物もある。それは世界観とか状況設定とか登場人物次第で、『ピンクとグレー』に関しては完全にあった方がいい側の創作物だと思う。だから、これでよかった。どこかにあるかもしれないし、いつかあったかもしれないと思えるような挫折と再生の物語になっているから。
・小説と映画が共通して抱える主題
小説と映画は別物だ。それはもう完膚なきまでに。
でも、実は同じものを違うやり方で描いてるだけなのではないかと思う。ごっちとりばちゃんの人柄や関係性に注目していると、まるで入れ物だけそのままにコーヒーが入っていたマグカップにウィルキンソンの辛口ジンジャーエールを注いだみたいだけど*2、どちらかというと親子丼をいったん下げて鮭とイクラで親子丼亜種を作りましたって感じだなと思う。
小説と映画は共に、自我の確立と自己の統合が最大の見せ場になっている。ここで注意しなくてはならないのは、映画と小説では『確立』も『統合』も同じ形では成されえないということだ。
小説では、ごっちとりばちゃんは誰よりも分かり合い認め合いお互いがお互いを規定できるほど深い仲だった。ごっちは自分の最期をりばちゃんに託して、『白木蓮吾らしさ』を丸ごとりばちゃんに委ねてしまう。また、りばちゃんもそれを引き受ける。そして映画撮影に入ると2人はどんどん同化していく。ごっちとりばちゃんは、もともとは同じ魂を分かち合い世界中で互いだけの特別な関係を築いていたのに、別離によってお互いに自分を見失う。そして一つになることで『自分』に成る。お互いを本当に理解できるのはお互いだけだった2人、『表人格』と『内部人格』が統合され、『世界に共にある』ようになることがゴールなので小説はそこで終わる
一方映画では、2人の自我の確立は小説とは真逆の形をとる。こちらの2人は決して分かり合ってなどおらず、根本的に違う人間だ。だから、映画においてはごっちがりばちゃんを想うこともりばちゃんがごっちを追いかけることも、自我を揺さぶる要因にしかならない。お互いがお互いを意識することはむしろ『自分』をぐらつかせてしまう。だから映画の2人は同化をゴールにすることができない。2人が自己を確立するためには、2人は互いを自分から切り離さなければならない。映画では、りばちゃんがごっちを理解できないことを悟りライターをぶん投げて終わるが、あれが映画における『自己の確立』なのではないかと私は思う。りばちゃんの表人格と内部人格はりばちゃんの中にだけあって、ごっちもそれは同じで、決別によって一人前になる。俺たちはべつの人間だということ、理解しあえないということを理解することこそが『統合』になる。
そう考えると、小説と映画のラストシーンは全然違うけれど、最後の瞬間に描いているものは実は同じなのではないだろうか。
この主題の現れ方の変化に絡んで、ごっちとサリーとりばちゃんの関係性の変化もここに帰着する。小説ではりばちゃんとサリーがごっちを『こちら側』に引っ張る役割を果たしている。2人ともごっちにとっては愛おしくて離してはいけなかったもので、両方を失ってごっちの中には『表人格』しかいなくなってしまう。映画ではこの構図はがらりと変わって、ごっちとサリーが『向こう側』と『こちら側』からりばちゃんを引っ張り合う。
ここから完全に超自己流解釈になるので真偽は分からないが、事務所移籍と引っ越しで衝突した挙句サリーのもとに転がり込んだりばちゃんをみて、多分ごっちはあきらめたのだ。自分が引っ張ってもりばちゃんは『向こう』(ごっちにとっては『こっち』だが)には来ないのだと、そう悟った。だから同窓会の後、飲んだくれながらごっちは言う――「サリーのことは、大事にしてやってよ」
あれは、『自分のことをかつて好きだった大事な幼馴染』を大事にしてほしかったのではなくて、『りばちゃんが選んだ場所』を大事にしてほしかったんじゃないだろうか。でもごっちは意地悪を一つした。意地悪な賭けを一つ。自分の死をりばちゃんに看取らせて、自分のことを小説にしてほしいと頼んで、りばちゃんに『きっかけ』を与えた。捨て身の賭けだ。りばちゃんを『向こう側』に呼べるかもしれない最後のチャンスだった。結局それは失敗に終わったようだけれど、きっとごっちは本当は、りばちゃんにも『向こう側の人』になってほしかった。『表』も『内部』もきちんと備えた人間として、自分の隣に立ってほしかった。
さてこの賭けは、ごっちにとってどの程度重要だったのだろう。映画をそのまま素直に受け取ると、ごっちの死はただの姉の後追いなのでまあついでに過ぎない。ついでだけどどうでもよくはなくて、きっとごっちはりばちゃんに幸せになってほしかった。幸せを望んではいたけれど、違う人間なのは分かっていたんだろう。
最期のシーン、ごっちが首を吊った場所でりばちゃんも首を吊ろうとするシーン。あそこがどこなのか、現実なのか何なのか話題になったが、私はあれは夢じゃないかと思いたい。そうじゃないと鍵の整合性が~とかそういう話ではなく、映画『ピンクとグレー』は分かり合えない通じ合えない2人の話だから、最後のあの邂逅もりばちゃんの中だけで完結していてほしいなあと思うからだ。りばちゃんは『りばちゃんの中のごっち』と対話して泣いて文句言って色々わかってりばちゃんに成る。『河鳥大』になって『河田大貴』になってりばちゃんになる。映画のりばちゃんは、芸能人を辞めてしまうかもしれないし続けるかもしれないしサリーと別れるかもしれない。でも大丈夫なのだ。りばちゃんは『絶望的に素晴らしいこの世界の真ん中』に辿りつくから。『果てのない世界』ならこれから見る。自分の目で、自分だけの目で。
・映画が再生産したもの――めっためたにしてあげる♪【してやんよ】
さて、映画『ピンクとグレー』はNEWSの進退とは関係ないし、あの湿度もあの熱量もない。ドライに描かれた青年のアイデンティティストーリーだ。小説が持ちえたあの特殊性、あの頃の加藤成亮があの状況で書いたという事実はどう頑張っても再現不能だ。
しかし再現されている。いや、生みなおされている、と思う。
先に述べたように、私が映画を観て真っ先に浮かんだ感想は「こわい」だった。微妙な改変が連ねられた前半から、「62分後」を境に裕翔りばちゃんと成瀬、岸井サリー、三神を中心にほとんど二次創作に近い展開が始める。これがメタい。強烈にメタい。映画初主演を果たしたりばちゃんに対してごくごく友好的な態度をとる成瀬。成瀬の方が先輩だけれど、成瀬はりばちゃん役、りばちゃんがごっち役ということもあって成瀬はりばちゃんを尊敬し、互いに高め――あわない。全然そういうことしない。成瀬は映画『ピンクとグレー』をクソだと思っているし、りばちゃんが芸能界に残れるわけがないと思っているし、ごっちを追いかけるりばちゃんを馬鹿だと思っている。ほ、本当に菅田くん裕翔くんのこと好き?大丈夫?よくわかんないおっぱいがいっぱいの変な店連れてったりしてない?ていうか、ていうかていうか行定監督「くそ原作押し付けられたわー」とか思ってない?大丈夫??
なんだかくらくらする。役者の役の役者さんが、インタビューに答えているという演技をしている。芝居をしているという芝居をしていて、虚構の中で虚構を演じている。『本当』があるのか不安になる。三神は「ホントウのあたしとか誰が決めんの?」とか言ってるしパンツ穿くの超スムーズだしりばちゃんは駄目駄目だし。
そう、りばちゃん駄目駄目。びっくりするほど駄目。りばちゃんとごっちはどっちも加藤成亮の一部を反映したものに過ぎない。どっちも加藤さんの一部だしどっちも加藤さんの全部じゃない。わかっている。でもどうしても、誰か一人に加藤さんを投影するならそれはりばちゃんだ。それがもう、ほんと駄目。全然芸能界で生き残れなさそう。小説の『その後』をこんな風に創作してみせるなんて加藤さんへの挑発にしか見えない。お前ほんとにやってけんのかよって、お前のオハナシ綺麗事過ぎんじゃねえのって言われてる気になった。試写会が終わった瞬間に観客が一斉に加藤さんをみたのも納得だ。映画の中に映画が入っているわけだけど、現実ももしかしたら何かの中に入ってるんじゃないかとか、あれはこれを暗示してるんじゃないだろうかとか、色々ぐるぐる考え込んでしまった。たとえば渋谷駅のピングレジャック。小説の中のいくつかのシーンが柱に貼られてて話題になったアレ。でもあれ、映画の宣伝なのにあそこに抜粋されてた台詞はほとんど映画に出てこない。だからもしかして河鳥大の『ピンクとグレー』の中の台詞として貼られてたんじゃないかとか、なんかそういうあれこれ。
ぐるぐる考え込んでたら、急にすとんと「裕翔くんでよかった」と思った。
私にとって映画『ピンクとグレー』は、中島裕翔が主演したことで完成した。小説『ピンクとグレー』が作者が加藤シゲアキであること抜きには語れないのと同じくらい、映画をこうするなら主演は裕翔くんでなければならなかった。映画では、柳楽ごっちと裕翔りばちゃんは分かり合えない。それは仕方のないことで納得はしているし、473°ひねってあったって主題が描かれてないわけじゃない。普遍性を捨てた代わりに普遍性が加えられて、特殊性をそぎ落とした代わりに裕翔くんがいる。裕翔君にとってこの映画が、中島裕翔をつくるための一片になっていたらいいと思う。演じながら、自分の中のりばちゃんと自分の中のごっちと向き合っていてほしいと思う。私はNEWS単体のファンでしかないから、Hey! Say! JUMPのことは深くは知らない。彼らの栄光も挫折も軌跡もうすぼんやりとしか知らない。でも少しだけ知っている。加藤さんと裕翔くんは、少し似ている。目立つところにいて、後ろに下げられて、武器を探してた。置いて行かれてもがいていた過去があることを、ほんの少しだけど知っている。
小説『ピンクとグレー』でごっちとりばちゃんを書いたことが加藤さんにとって加藤シゲアキに成るための通過儀礼だったのと同じように、映画『ピンクとグレー』でごっちとりばちゃんを演じたことが裕翔くんにとって中島裕翔に成るためのに重要な一コマになっていてほしい。「小説処女作『ピンクとグレー』」が加藤シゲアキの見つけた『何か』として道を切り拓かせてくれたのと同じように、「映画初主演作『ピンクとグレー』」が中島裕翔が自分のあり方を確立していく一助になっていてほしい。いつかそんな日が来たら、そのときこそ私は心の底から映画『ピンクとグレー』の存在を喜べると思う。
映画『ピンクとグレー』の存在そのものが、小説『ピンクとグレー』が加藤シゲアキに対して果たした役割を中島裕翔に対して果たしているのでは?って気づいた瞬間感動したけれど、あまりにも作者が生きすぎているなあとも思うので考察というより解釈です。でも裕翔くんでよかった。裕翔くん以外のジャニーズの誰にもこの再生産はできなかったと思う。ただ、これを監督や事務所が狙っていたということはまずないと思うので副産物ですね完全に。
・雑感
映画に怒ってる人の言葉をみて「わかる~~」ってなって映画を褒める人の言葉をみても「わかる~~~」ってなって、結局自分どう思ってんだろ…って整理するのに時間がかかったけど、結局「映画を正解だと思うけど、映画に怒ってるけど、映画を肯定する」以上にシンプルな言語化はできない気がする。
出来ないついでに少しだけ、もやっとポイントというかなんか細かいことあれこれ。ちょっと批判的な要素も入ってるので苦手な方はこの項読み飛ばしてくださいな。
ごっちと唯さんの関係がああなってたのは割とびっくりしたしどちらかといえばそういうんじゃない方が好みだったかな~。何も言わずに「姉ちゃんと同じ日に死ぬことにしてた」とか「姉ちゃんと同じように死ぬって決めてた」くらいしか言わずに突き放されたかった。香凛とサリー、デュポンとラブホのライターのくだり大好きだったから、サリーも香凛もだいぶキャラ薄くなっててびっくり。ただ、私は小説とだいぶ変わってサリーとごっちがりばちゃんを引っ張り合う図も嫌いじゃなかったです。しかしそれはともかくやっぱり一回目のレイプ的なあれそれは理解不能だった。その前から「俺もうごっちごちだよ」だったにしてもっすよ。にしても襲わねーだろ。ていうかあれを赤裸々に本に書いた裕翔りばちゃんの勇気がすげえよ。露出狂かよその度胸があるなら芸能界やってけるよ。知らんけど。あとファレノプシスが最初から全英語詞なの、小説と映画でごちりばの関係性が違う感じがしてよかった。
文句っていうかこの映画化に際して残念なのは、湿度高めでモノローグ多めでちゃんと友達の死体を綺麗にするバージョンの映像化の機会がおそらくは失われたのは惜しい。まあどちらかしか選べないし、こちらが正解だったとは思うけど、もっとじめじめした映像化もみたかったなあ。イメージは岩井俊二さん的な。映画詳しくないから『スワロウテイル』をぼんやり見たことがあるだけなんだけど、イメージあんな感じの雰囲気で撮ったやつも観たかった~。
あとこれだけ言いたいんだけど、裕翔くん顔小さすぎ。誰と並んでも顔が小さくてここまでスタイルがいいと逆に仕事の幅が狭まったりしないのかと意味不明な心配を始めるレベルで小さかった。スタイルから既に凡人のそれではない。
・最後に/僕をつくるのは僕だ
2回目の鑑賞時は考える余裕がそれなりにあったので、あれこれ思いを巡らせながら観ることができた。どのシーンだったか忘れたけど、急にふと「裕翔って、『余裕で翔ぶ』って書くんだなあ」と思った。そんな名前の子がこんな映画をやって、「主人公に似ているね」って、なんなら原作が発表されたときから「この主人公裕翔くんっぽいね」と言われていたらしいの、なんだかとても皮肉なような胸アツなような。ごっちに似てるねって言われてた方は涼しいって字が入ってるんだなあ熱い人なのになあとも思った。
『向こう側』がどんなところなのか、多分私は一生知ることがないし、映画と小説どちらが『ホントウ』に近いのかも永遠にわからないんだろう。けど、余裕じゃなくても涼し気じゃなくても、とにかく翔べたらきっとそれでいいんだと思う。これが僕の羽だよって、いつか誇らしげに広げられるように頑張るしかないんだなあ。そう、目の前のこと、できることを頑張るしかない。
やるしかない、やらないなんてないから。
どうかこの映画をたくさんの人が観てくれますように。