英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

No where, now here

山下智久さんの10000字インタビューを読んだ。私の周りでは「読めてよかった」「今だから言える話だなあ」といった言葉少ない感想をぽつぽつ見かける程度で絶賛も否定もあまりみなかったので、何を書いてあるか特に事前情報を入れていない状態で読んだ。感想を一言で言うと、「うわっ山下くんだ!!!」だった。うわっとか言うとなんか嫌がってるみたいだけどそうじゃなくて、私が彼を見なくなってからの7年間は当然私が見てきた彼の続きで、根本から人格が変わるなんてことももちろんなく山下くんは山下くんだという、そういう当たり前の実感だった。当たり前、当たり前なんだろうか。私が彼を見なくなってからの彼が私の見ていた彼の続きだということ。当たり前じゃない気もしていて、もう何も分からないし何も言えないなあと思うこともあって、だから10000字もの長さで綴られる彼の言葉が私の思い出の中の彼と致命的な齟齬を起こすようなことがないことに驚いたのかもしれない。彼は彼だった。


山下くんは2017年、亀梨さんとユニットを組んで「亀と山P」名義でCDを出している。ドラマも2人で出ていたこともあって仲睦まじい様子は時折漏れ聞こえてきた。ものすごく明け透けで品のない言い方をすると、「元彼が忘れられないという理由で振られた元カノがいつの間にか不倫沼にハマっていた……」みたいな気分が少なからずあった。いやほんと最低な表現だけど、でも正直な気持ちだった。亀梨さんはKAT-TUNと添い遂げる気なんだろうに、盟友を得たかのように笑う山下くんにちょっと胸が痛んだ。いやいや俺を振った理由元カノじゃなかったのかよ、まあその元カノはもう既婚者だけど他の男と幸せになるでもなくよりによって不倫沼かよ、みたいな。ユニット組むのが嫌とかでは全然なくて、でも亀梨さんはあなたの唯一の伴侶にはなりえなくない?だって、だってだって、って思ってた。
もう山下くんのことなんか全然追ってないくせに、山下くんは何がしたいんだろう、抜けてまでやりたいことってなんだったんだろう、これだよって言えるような活動してんのかななんて思うことも幾度かあった。なんにも見てないくせに。

耳に入ってくる山下くんの話に色々なことを思ったり思わなかったり、何してるのか全然知らなかったりたまに偶然知ったり、そういう7年間だった。10000字インタビューを読む前にキャプションだけ見ていた。

今日まで支えてくれたのは家族や仲間、カメ、そして何よりファンです。

カメだけ固有名詞出ててちょっと笑って、でもなんかもやもやもした。この7年間何度もそういう気持ちになったし、そういうもやもやが解消されることはほぼなかった。ただなんとなく忘れて目の前のもっとインパクトの強い何かに押し流されて次に行くみたいな。喉に小骨が刺さったまんま、でも別に普段は忘れてるからいーやって感じ。
買ってよかったし読んでよかったと思う。喉に刺さりっぱなしだった小骨たちがようやく抜けて今更血が出てきてるみたいな、そんな感じの気分だ。


■ここではないどこか
1番すとんと胸に落ちたのは、NEWSを抜けた理由についてだった。ああ山下くんは行きたい場所があったんじゃなくて、ここではないどこかに行きたかったんだな。ここから抜け出したかったんだなあって、納得した。痛いけど、でも分かるって思えた。
山下くんと錦戸くんの脱退が発表された時、道理としては「錦戸くんは分かるけど山下くんも!?」だったけど、感情的には「山下くんは分かるけど錦戸くんも!?」という気持ちの方が多分強かった。そもそもの話として抜けたい気持ちだけでグループを抜けられることがあるなんてあの頃は思ってもみなかったから衝撃はとても強かったけど、でも山下くんが終生をここで過ごしたいと心から思っているようには見えていなかったから。

NEWSのメンバーとは、どこかぶつかれないもどかしさみたいなものがありましたね。衝突するんじゃなくて、すり抜けてしまうような感覚。噛み合わないというか。違う絵のパズルだったのかなって思います。
(中略)
今なら、もっと違った解決策を提案できただろうなとは思うかな。
(中略)
あのころはとにかく若くて、NEWSをやめられないなら事務所をやめますくらい、誰彼かまわず殴りかかるような勢いだったから。

この部分を読んで、脱退直後に山下くんの妹さんが公開したブログを思い出した。「8年間という年月の忍耐があったのもわかってほしいです」って言葉を見て、「8年間は忍耐でしかなかったの?なんでそんな言い方するの?」って虚しかった。これは本当はそんなこと思ってたんだ!ヒドイ!と思ったわけではなくて、「NEWSとして過ごした8年間の中にファンの皆さんに言えない苦悩や忍耐もあった」とかそういう言い方してくれたらまだマシなのに、なんでわざわざ苦痛でしかなかったみたいな言葉選びをするんだろうってその下手くそさへの呆れのようなものもあった。でも近くにいたらそう思ってしまうくらい、書いてしまうくらい、あの頃の山下くんにとってNEWSはフラストレーションだったんだろうな。
「男として」「ぶつかりあえる」というようなワードが頻出するページを捲りながら、自分が昔書いたブログのことも思い出した。

求めていたのとは違うメンバーで、期間限定のはずだったのにいつの間にか正式なデビューになっていて、切磋琢磨してきた仲間ではなくて自分におんぶにだっこなやつらと運命の船に乗せられて、いやだったのかもしれない。そういう風に思ったことがあったかもしれない。

めっちゃあってるじゃんて笑えた。そっかそうだよね、そう思ってたよね。なんならそのものズバリ、

NEWSだったころ、僕は"男だろ、自分の足で立てよ。俺に頼りすぎじゃねえ?"ってどこかで思ってた。

って言ってて、まあ驚きはないけどやっぱそう思ってたよねーって。我慢出来なかったんだなーって。泥みたいな連帯感、って当時のコヤシゲのこと私は勝手に思ってた。浮くも一緒、沈むも一緒。でもそんなの山下くんは意味わかんなかったんだろうな。沈むようなやつと一緒にやってく意味なんて全然見いだせなかったんだろうな。山下くんらしいな。


■あの日からのあなた
山下くんのFC会員数は2018年9月時点で約107,000人。ソロでの最新シングルは2013年7月リリースの『SUMMER NUDE'13』、アルバムは2014年10月の『YOU』(ただし2018年11月に新アルバム『UNLEASHED』を発売予定)、ソロとして1番新しいリリースは2016年1月発売のベストアルバム『YAMA-P』だ。ツアーは2011,2012,2013と3年続けてやって、3年空いて2016年、2年空いて今年9月からまたツアー中。
香取慎吾さんとか藤ヶ谷太輔さんとか赤西仁さんとコラボしたり、相対性理論に楽曲提供してもらったりパスピエに楽曲提供してもらったり、うおー羨ましいー!と思う一方で、「アレッ山下くんてそういうのが好きなんだったっけ?」とも思った。リリーススピード、ツアー頻度も決して高くはない。売上、悪くないけど(むしろ今の時代ソロでこんだけ売れる人なかなかいない)、山下くんてこんなもんだっけ?って思ったこと正直何度もある(NEWSの売上とか会員数とか単純に頭割りしたら全然山下くんに負けるのにね)。こんな、こういう、うーんなんだろう、「この人これがやりたくて抜けたんだ!」「これがやりたかったならしょうがない!」って気持ちよく膝を打てる場面があまりなかった。もちろんこれは私が山下くんをもう追いかけていないからで、それをどうこう言う資格はほんとないんだけども今だから言うと、「ソロにならなきゃできないこと、あった?できてる?」って思ったこと普通にある。単純にリリース頻度だけで言えば別にグループにいても今と同じことすんの不可能じゃなかったんじゃないのっていう気持ちになったことも時期によってはあった。
1位を取れないこともあったこと。東京ドームにまだ1度も立っていないこと。完膚なきまでに叩きのめしてくれたら泣きながら受け入れられるのに、4人束になっても敵わなければよかったのにそうじゃなかった。
"今"と"これから"に対する弱音は一つもないインタビューだったけど、本人にとっても100%満足できる成果を叩き出せてきたわけじゃないのはわかって事実確認という意味で少し安心した。安心とも少し違うけど、なんだろう、「絶対なんとかしてやる」「絶対俺ならどうにかできる」って思うような状況ってつまり、言ってしまえば逆境じゃん。何もかもが順風満帆ではなかったこと、不安になってもおかしくない状況でもあったこと、私が勝手に「そんなもんじゃないはずじゃないの」ってモヤモヤしてた時は多分山下くんも実績に満足してたわけじゃないこと。後悔していないのは今がうまくいってるいってないの話じゃなくて、自分の心に従った、従えてるからだってこと。そういうのが合ってて納得した。


■男だろ
もう一つ納得できたこと。NEWSじゃなくて違うグループだったら、違うメンバーだったらって話。「ぶつかりあえたと思う」「今もバチバチにやってるんじゃない」
結局元カノじゃん。て確認して、いやでも根底にある体験がそうなだけであって、結局のところあの頃得られた充実がNEWSにはなかったって話なんだよね。切磋琢磨とか競い合いとか、そういう山下くんにとってグループの必須条件だったものがNEWSにはなくて、だから山下くんにとってNEWSは仲間だけど仲間じゃなかったんだな。
インタビュアーの「カメだったら〜」って質問、もうこんなの燃やしたい人の質問だろ放火魔かよって笑ってしまった。案の定引火性の答えを返す山下くんはやっぱり保身がヘタクソで、7年経ってもそんなところは変わらないなんて変なの。
間に合わなかったんだなあ、ピンクとグレーは。2011年の早春に書かれた加藤さんの処女作『ピンクとグレー』は、発売こそ脱退後の2012年だが執筆自体が成されたのは2人の脱退を加藤さんが知る前だ。このままじゃまずいって焦燥感の中で、グループのために何かできることを探して書かれたものでもあった。今のNEWSいい状態だなあって思うよって旨の言葉を見て、ああ本当に決断があと少し遅かったら、あれがもう少し早かったらこれのタイミングが違ったら、って思わずにはいられなかった。
テレビで泣いてるとこ見て「男だろ」って思ったって言うけど、そんなこと言わなくていいようなメンバーだったら捨ててなかったはずだ。嫌いで別れたわけじゃないって、この7年間で幾度か聞いた。それを疑うつもりはない。だけど同時に悲しかった。嫌いで別れたわけじゃないって、ほんとのほんとにただただ噛み合わなくて実力不足で及第点じゃなかったからああなったんだって、私はやっぱり6人のNEWSが好きだから、6人のあり方を6人自身に愛してもらえなかったのが悲しかった。
山下くんが心から求める仲間は結局斗真くんで長谷川くんで風間くんで、山下くんが心から絆を感じられる人とデビューできていたら、今頃どんな景色が見えていたんだろう。


あと、これはちょっと本筋からズレるけど、繰り返される「男」って単語には違和感というかもどかしさがある。男だろ、男だから、男なのに、男として。まだ33歳なのになー。なんか別に、女だって仕事がんばるし好きな人守ってあげたいし自己実現したいし自分の足で立ちたいぜ。それは別に男だけの特別な気持ちじゃないぜ。それ全部、人間だからで別に良くない?ほんと本筋関係ないけど。


■これからの話
いつか6人で食事に行ったとか会ったとかそういう話を聞いたらこのわだかまりはほどけるのかな、と書いたことがある。

俺が言ってはいけないのかもしれないけど、過去にとらわれたくないし、もし何か壁があるなら、そんな壁は壊せばいい。
(中略)
たとえば俺のアルバムに誰か参加してくれないかなとか。みんなかハッピーになれる選択肢があるんじゃないかなって思ってる。

断言してもいいけど、ねえよ。
もうみんながハッピーになれる選択肢なんかどこにもないよ。戦争がなくならないのと同じだよ。やりたいならやればいいって思う。アルバムに誰かが参加とか、少プレなりなんなりでお互いの曲のマッシュアップやるとか、おもしろい試みだと思うしやったら見ると思う。でも、壁が完全に壊れることなんか二度とない。それだけの傷、それだけの痛みがあって、それを分かってでも決めたことでしょ。"8年間の忍耐"が実を結んでその分だけ8年分の愛着と思い出がファンにはあって、それを自分の心一つで捨て去ったのに、わざわざ壁を厚く高くしたのに何言ってるの。あの時、私たちがあなたを憎まないで済むような、憎しみが少しでも減るようなやり方選んでくれなかったじゃん。難しい方を選びたいとか、自分の心に正直とか、どうしようと全部山下くんの勝手だよ。でも、あの時あなたがやったこと、やっぱり全然ファンに優しくはなかったんだよ。後悔してくれとは言わない。間違ってたとも言わない。だけどあの傷も痛みもなかったことにはならない。好きでいる限りずっと。


■血
どうして斗真くんも長谷川くんも風間くんもいなかったんだろう。どうして1人にさせられたんだろう。時は戻らないし誰もやり直せない。分かってるのに今でも納得できない。何かがほんの少しでも違っていたら、何もかも違う未来に辿り着けただろうか。
インタビューの冒頭、「あの頃とは違う僕になってると思います」と山下くんは述べていた。でも読んでみたらそこには私の知ってる山下くんがいた。不器用で保身の下手な山下くん。愛は無関心よりずっと容易く憎しみに転じるものだから、もっと上手にやってほしかった。あなたを憎まないでいるために、私とても苦しかった。憎しみはないのに恨みがましい気持ちはまだ消えてないんだなって自分にうんざりする。
山下くんは山下くんのままだったし薄々感じてたことは大体あってた。なんとなく分かってたけど目を逸らしてたこと、今になって唐突に答え合わせができてしまった。痛いなあ、痛いよ。もうほとんど無関心に近いくせに、やっぱり無痛にはならないや。でも多分、もやもやのまま複雑な気持ちを置き去りにしてくるよりは傷ついた方がずっといい。ああ、あなたに愛されたかったな。あなたがとうとう愛してくれなかったものを、私愛してたよ。

買いたい受容と買いたくない需要/愛の値段は言い値でつけて

先日(と言ってももう結構前だが)初めてホストクラブに行ってきた。加藤シゲアキ著『チュベローズで待ってる』に影響されて軽率に。(オタクすぐそういうことする)


なんの自慢にもならないが私はそれなりにクソ真面目な高校時代とそれなりにクソ真面目な大学時代を送ってきたので、ホストクラブに対しては自分と対極、全くの異世界というイメージがあった。行ってみたらなんか、全くの異世界ってほど相容れないカルチャーではなかったのでわりとびっくりした。が、根本的に合わないなとも思った。折角なので感想書いとく。


ディアゴスティーニ創刊号
大学生の頃、いずれも人(おっさん)に連れられて
・普通のキャバクラ
・熟女キャバ
・オカマバー
には行ったことがあって、何となくホストクラブにも行ってみたいな〜とは前々から思っていた。ビビりなのでフォロワーさんと2人で行った。日高屋で餃子食べてお酒飲んでから行った。次があったらもう少しにおいきつくないもの食べてから行く……。笑

で。

ホストクラブはわりと高い。私が行ったことのある東京23区外のキャバクラは大体60-40分で4000円/人くらい、女の子のドリンクが1杯1000-2000円て感じで、まあ5000円と鋼の意志(キャストにはドリンクを飲ませないという)を握りしめておけば一応「客」になれた。
あんまりちゃんと聞いてないし分かっていないが、ホスト達の話を聞く限りめっちゃ安くしてもらって(というか追加料金を極力掛けなかった場合で)20,000円くらいは掛かるらしい。多分1時間で。「客」になる敷居が高い……。
しかし1回目からその値段が掛かるわけではなく、多くのホストクラブには「初回」という制度がある。1000-5000円/60-90分程度のお試し制度で、その店のキャスト達が変わりばんこに着いてくれる。今回私が行ったのはこの「初回」を2軒で、通常なら1店舗で指名出来るのは1人だったりハチャメチャなお金が掛かったりする「ホンモノのホストクラブ遊び」とこの初回はかなりの別物だ。初回とは、早い話がディアゴスティーニ創刊号なのである。つまり今日の記事はあくまで「ディアゴスティーニ創刊号の感想」であって「ディアゴスティーニの感想」ではない。なんなら結論から言うと、「ディアゴスティーニ創刊号買ってみたけどこれ買い続けるの無理だなって悟った」という話である。


■明るい異世界
前述の通りビビりなので下調べをしたところ、ホストクラブへの入店には写真付きの身分証明書が必要だと全てのサイトに書いてあったのでパスポートを持っていった。私は車の免許を持っていないので写真付きの公的な身分証明書はパスポートしかない。ホスト行きたさにわざわざパスポート引っ張り出すってなんか浅ましいなと思いつつ、衝動的に仕事帰りにホストに行ったり出来ないのはいいことだなと今は思う。
入店時に結構ちゃんとまじまじ確認される。居酒屋より全然しっかりしてるのは、居酒屋より全然お金掛かるからなんだろうか。まあお店によってはお酒飲まないっていう条件で未成年も入れるらしいけど。(って言いつつ飲めたりしちゃう店もあるらしいけど真偽は知らない)

1番びっくりしたのは、お客さんが若くて可愛いことだった。今まで行ったキャバクラは大体お客さんはおじさんばっかで、失礼なことを言えばまあそりゃあキャバ嬢くらいの年齢でキャバ嬢くらいの顔面偏差値の子とは関わりねえだろうな、って感じの人が多かったので正直びっくりした。顔だけ見たらどっちが従業員でもおかしくないくらい。まあでも奥の方にも部屋があるっぽかったので、ちょっと年上で他よりお金あるお客さんは奥の方に籠るものなのかもしれない。

あと思ってたより明るくて清潔感あった。決して不潔だと思ってたわけではないはずなんだけど、なんかほんと思ったより明るかった。特に2軒目。まあでもこれも店によるんだろうな多分。

しかしまあ腐ってもホストクラブ。ジャニオタとしても25歳OLとしても異文化感は随所にあった。
一つ目、「ぐい」とかいう謎の単語。「ぐいしようぐい!」という謎の煽り。多分早い話がイッキしよーぜ♪とかそういう話なんだろうけど初めて聞いたし、ホスト側は「え、マジで分かんねえの?」みたいな顔をしていたので、マジ卍とか〜ンゴを初めて聞いた時みたいな気分になった。ホスト用語なのか若者用語なのか分かんないけど。これで大学生的には普通の俗語だったらちょっと凹むね。
二つ目。ホスト、めっちゃ若い。いやマジで。大体年下。未成年もふつうにいる。(お酒飲まずに営業してるらしい)(ハードル高くね?)
三つ目、シンプルにホストがまあまあかっこいい。と言うとなんか失礼だが、年齢的にも居住地的にも新宿で買い物したり飲んだりすることがままある身として、それなりの人数のホストっぽい人とすれ違ってきた。その中でかっこいいと思う人は正直ほぼいなかったし、歌舞伎町に乱立する看板を見ても超かっこいいと思う人はほとんどいなかった。だから、店で会ってみたら意外とかっこいい人が多くてびっくりした。今までホストだと思ってた通行人が実はホストじゃなかったのか、それとも店の中だと魔法が掛かるのかどっちなんでしょうね。後者な気がする。
四つ目、大体全員写真より実物の方がかっこいい。いやマジで。


■違う感性
初回で行くと、キャスト紹介の本みたいなものが見せてもらえてその中から好きな人を何人か(私が行ったとこは2軒とも2人だった)選べる。で、空き状況によるけどその人が1回は席に来てくれる。
このブロマイド集みたいなのを見てびっくりしたのだが、わりと真面目にほぼ全員写真より実物の方がかっこよかった。写真の方がかっこいいと思ったのは通算十数人のうち1人だけで、その1人は写真撮影の後にがっつり整形をしたらしく自ら「だから俺写真と顔違うんだ〜」と言っていた。私はジャニオタなので加工された写真は見慣れているはずだし、今まで何回も何十回も何百回も見てきた加工済のジャニーズの写真に対して「実物に劣る」と思ったことはない。じゃあなんでホストだと加工済の写真がかっこよく見えないんだろうかと言うと、単純に感性が違うんだろうなと思う。
目を広げるとか鼻筋を通すとか顎を小さくするとかその他なんでも、ホストの宣材写真での修正はあくまでホスト的なかっこよさを増大するもので、そしてその基準は必ずしもジャニオタとも一般人とも合致しない。
これが1番「うわー違う!」と思ったかもしれない。だって来る人来る人写真より魅力的なんだもん。意味わかんないじゃないですかジャニオタ的に。ポポロ見てテレビ見たらテレビの方が顔の造作が美しいわけですよ。実物の方が魅力的だと思ったことは死ぬほどあれど、実物の方が整ってると思うことまあない。少なくとも私はない。整形前の方がかっこいいとかもはや意味がわからない。なんかほんと違う世界で違う感性で違う評価軸なんだなあって思った。

以下、記憶に残ってる会話。
・俺赤西仁好き
お前も?お前も?お前もなの?って感じだった。何人おんねん赤西ファン。ホスト達赤西仁好きすぎ。

・俺風磨担
あーー赤西仁好きだったなら分かるわ。そこいくよね〜。

・セクシーゾーンチャンネル全部見た!
いいやつだな!このとき言い間違えて「セクシーチャンネル」って言ったら「それはラブホで見れるやつね!」って怒られた。セクシーガールの皆様が10000回くらいやったであろうくだりをこすってしまった。

・俺チ〇コでかいよ
知らんがな

・スタイルいいね!
ありがとう

・それカラコン?まさか裸眼?
逆にここまで小さいサイズのカラコンどこで売ってんだよ。(※私は一重かつ目が小さい)

・このまま俺のこと指名して飲み直ししよ!2万だから!2万しかかかんないから!
いやたけえわ無理だわごめん
(※飲み直し:初回来店後そのまま誰かを指名して正規料金で飲むこと)


■ホストクラブという場所
こうして90分×2回の初回体験を終え、私の手元には数人のホストのLINEが残った。タイムリーについ先日「ホストクラブの初回は席についたホスト全員とLINE交換できる店と、送り(退店時のお見送り係)に選んだキャストとだけLINE交換できる店がある」というツイートを見かけたのだが、私が行った店は2軒ともキャスト全員とLINE交換ができる店だった。でも全員とはしなかった。多分5-6人くらいかな?
私は決して裕福ではないし、むしろどちらかと言うと貧しい部類に入ると思う。お金の余裕は決してない。だから、ホストに継続的に通う気はないし通いたくてもまあ無理だ。趣味とか飲みとか徹底的に削れば月に1度くらいは行けるかもしれないけど、そこまでして行きたいとは思えなかった。
だから退店後に律儀に来るLINEを返すのもなんだか申し訳なかったし、わりと誠実なつもりでLINEをくれたキャスト全員に「今日はありがとう、お店行きたくなったら連絡するね!」と返した。正解は返さないor「初回以外でお店行く気はないよ😉」だったのかもしれない。(一緒に行ったフォロワーさんは全員ブロックしたって言ってた。優しい) だから営業しなくていいよ!というつもりだったのだけど、向こうも仕事なので営業する。当たり前にする。まあ私が同じ立場ならそりゃ営業するわ。
「行きたくなったら連絡するね!」と言ったら「分かった。でも俺がしたいから連絡は毎日とらせて!♥」と返ってきて死にたくなった。「ストイックですねえ」と別の人に言ったら「ふつうにタイプだから連絡してるだけだよ」と言われてなんかほんとに死にたくなった。申し訳なさと自己肯定感へのダメージと虚しさと悲しさとあとなんかよく分かんない色々。恐怖にも似た何か。でもこわいって言うかかわいそう(私がね)に近くて、けどかわいそうって思うの失礼なんだろうなって思うとなんかもう言葉に出来なかった。
でも同時に、ああーこれは若い女の子もお客さんになるわけだわと納得もした。私が今まで行ったキャバクラで見た光景はキャストに絡みつきあしらわれるおっさん、というのが圧倒的に多かった。私の上司はキャバ通いが趣味なのだが、彼の話を聞いていても完全に手玉に取られながら求愛する権利を金で買っている感じだった。ホストはなんか違う。
おじさん達にとってキャバクラは「許される場所」だった。普段関わりを持てないような若くて可愛い女の子の隣に座らせてもらえる場所。可愛い女の子の肩を抱いても笑って叱ってくれる場所。会いたいなあって行ったら私も会いたいからお店来てって言ってもらえる場所。会社の若い女の子にしたらセクハラになるような言動を、許してもらえる場所。
ホストは違う。あそこは私たちが「求めてもらえる場所」だ。可愛いね、会いたいよ、触っていい?嬉しそうに肩を抱いてきて、あっけらかんと「終わった後も一緒にいよ!」と言われる。なんかすげえ死にてえなコレと思った。

 

■違う言葉、違う心
ホストにはその1日しか行っていないが、1人だけお店の外でも会ってみた。お店に行った日のド早朝、翌日昼間、翌日夜、翌々日、翌々々日と「ランチ行こう」「お店の外で会おー」「今日お店休みー」「今日有給ー」と言われ続けて好奇心に負けた。っていうか何?半分ニートなの?暇すぎじゃね?と思って仕事終わりに会いに行った。カラオケで飲んだ後図々しく家まで行った。無事に帰ってこれてよかったー。(まじでよく何もなかったな)(なんで家行ったんだろバカなのかな)
で、家行ったら犬がいた。トイプードル。「ミルク(仮名)って言うんだ〜」とニコニコしながら言われた。家に1歩入ったら、高そうなソファにペットシーツがバーっと複数枚引かれていて、数箇所ミルクがトイレしたっぽい跡があった。部屋の中にボールが転がってて、それを見せると興味は示すのに投げると取ってこれなかった。なんかすごく悲しかったし知りたくなかったなあと思った。多分あの可愛いトイプードルはちゃんと躾をされていないのだろうと思う。とはいえ彼が1人で世話をできているとはとても思えなかったので、定期的にどこかの店に預けるか、あるいは一緒に住んでいるか半同棲に等しい女の人がいるのだろう。だからまあ、きっとこれからもミルクちゃんは生きていくのだろうし極端に早死にしたりもしないのだろう。しないといいな。

本当にシンプルに、あーーー人種違う。と思った。この人と私は「正しい」が違う。「正義」が違う。「良い」が違う。人と人として出会ったら、1500%話が合わないし絶っっっ対に仲良くなれない。でも一生懸命生きてんだろうなあ、ホストとして。

「ホストって主に何飲むんですか?テキーラ?やっぱりシャンパン?」って聞いたら「んー、シャンパンは流すもんだから」ってさらっと答えられた。安くて5万とか、ものによっては数十万以上するのに、それを飲まずに流すらしい。意味わかんねえ。なんで飲まないんだろ冷静に。
「ちょっと電話していい?」って言われたからお客さんの女の子と電話するのかと思ったら目の前でスカウトと電話された。ツケ(掛けって言うらしいけど)(モリカケ問題かよ)を飛ばれた女の子の担当スカウトらしかった。え、それ何なの?って正直思った。ホストは女の子にお金払ってもらう職業でスカウトは女の子にお金稼いでもらうお仕事で、そことそこが繋がってるってそれ何?それはもうスカウトとホストの協業じゃないですか?え?こわくない???こっっっっわ!!!


■愛の値段
俺ねえ先月1000万売ったんだ、と言われてすごいですねと返したら、まあ総計でだけどねと言われた。タックスが40%掛かるので、小計だと600万かそこららしい。え?そのタックスって何税?外国か?ホストクラブは外国なのか??
そのうちいくらがホンモノの税金なのか知らないけど、まあでも40%の大半は店の利益なのではないかと思う。ついでにそもそも小計の時点で多分原価の数倍〜十数倍のお値段がついている。でもお客さんはみんな払うのだ。
隣に座るだけで2万を、飲まれもしないシャンパンに数十万を、愛という定価のない何かにありったけのお金を。
自分も払いたいとは思わない。お金を払ってまでまた会いたいと思った人はいなかった。でも、人がどうこうの前にこの仕組みそのものにハマったら抜け出せない魔力があるんだろうなあとも思った。


私はジャニオタなので、お金を対価に愛を押し付けることに慣れている。お金を払って「受容」を買って安心することに慣れている。
お金を媒介にして交わす愛はある種安らかだ。アイドルはファンが好きでファンはアイドルが好きで、一定レベルの品行方正さを保つ限りアイドルに嫌われることはない。愛をぶつけてもよい、という許しはただそれだけでお金を払うに値する。そう、私は知っている。お金を払う安心を、「好きな気持ちの分だけお金を払う」という思考回路の存在を、好きは換金できるということを。 愛を換金することについて、正直めちゃめちゃ身に覚えがある。

ただ、ジャニーズとホストはそれなりに違う。
ジャニーズの場合は少なくとも何らかの商品がある。CDとかDVDとかコンサートとか雑誌とか、とにかく何かに対して値段分の価値を感じたらそれを買う。好きが高じると複数買いしたりする。
ホストはまずついてる値段がバカだ。そして商品そのものに設定価格分の価値があることはあまりないっぽい。缶チューハイ1缶に2000円とか、そういう1歩建物の外に出たら1/10以下の値段で買えるものをわざわざ買う。それそのものじゃなくて、隣に座ってる好きな人のために。好きな人が喜んでくれる、優しくしてくれる、自分に依存してくれる、長いこと傍にいてくれる。そういう愛情表現をお金で買える。
愛に値段はつけられない。たとえば自分の最愛の伴侶が重病に罹って、1000万払えば治癒する見込みがあるよ、何年も掛けて分割払いでいいよって言われたら、死に物狂いで1000万かきあつめて治療を受けさせる人は少なくないだろう。人間の心は、愛にお金を払えても値段をつけるようにはできてない。人間の心は、愛に対して天井知らずの価値を見出す。

「好き」にお金を払う、「好き」の分だけお金を払うことに嫌悪感はない。そういう意味ではホストとアイドルは通ずるものがあると思う。というかなんか用語も似てるしそもそも界隈もある程度は被ってるんだと思う。
でも私はきっとホストにはハマれない。多分通ったら心が死んでしまう。死にたくなる理由を探したら、笑っちゃうくらい簡単でかわいそうだった。


■スキップと嘘と緩衝とホント
私は随分お花畑なのだなあと突然思い知らされた。お金という媒介、緩衝材が存在する愛は一種の安らかさを備えている。互いの気持ちの差、立場の差、需要の差、そういうギャップをお金で埋められるから。「ファンという生き物」として「アイドルという生き物」を愛して、「ファンという生き物」として「アイドルという生き物」に愛される。安全装置付きの、絶対致命傷を負わない愛。どんな風に愛しても、同じ気持ちと熱量で思い合えなくても問題のない愛。お金を払うことで愛される権利を買っているし、お金を払うことで愛する権利を買っている。
それなのに、私はずっと自担に貰う言葉も態度も「お金欲しさの嘘」だとは思ったことがなかった。私の自担、私のこと好きだと思う。彼は私を知らないけど、一目見たことさえないし名前も知らないし一生会わないけど、でも彼は「ファンという生き物」である私を「アイドルという生き物」なりにちゃんと愛してくれていると思う。思ってしまう。お金を払って愛される身分を買っている身の癖に、受け取る愛っぽいもののきらめきをバカみたいに信じてる。彼らがくれる「かわいい」も「会いたい」も「俺らがいるよ」も嘘みたいにキラキラしてて、でも嘘じゃないんだと本気で思う。


ホストたちが言う「会いたい」は「お店に来てほしい」だ。「可愛いね」も「好みだよ」も全然ほんとじゃない。なんだかそれは、思ったよりずっと受け容れ難かった。ちゃんと誰か1人に決めて通ってお金をたくさん遣ったら、もっとずっとほんとっぽい愛情表現をもらえるのだとは思う。その時私はアイドルに対して思うのと同じように「気持ちの差、温度の差をお金で埋めてるけど、そうやって愛されるのも幸せではある」と心から思えるのかもしれない。


でも、今の私にとっては嬉しさより死にたさの方がずっとずっと大きかった。ああ私いま可哀想だ、と思ってしまった。愛する権利をお金で買うことに慣れている。お金という媒介が存在する愛の安らかさを知っている。でも私は、絶対に嘘だと分かる愛情表現をお金で買うことを望んではいないのだと分かった。
自担の隣に座って酒を飲める時間を売られたらその60分に3万払えると思う。払いたいと思うと思う。でも、自担に愛の言葉を言わせる権利が売りに出されても欲しくない。目を見て「かわいいね」「好きだよ」って嘘を言われるのは、きっと死ぬほど虚しい。
好きだったら、ほんとに好きで好きでそれ以外に繋がりがなかったら、ホストと客として出会ってしまったらそれしかないから、それでもいいから傍にいたいと思うのかもしれない。好きな人に直接課金できる、好きの分だけ際限なく課金できてしかもそれが目に見えて相手の給料になるという仕組みがもたらすアドレナリンって凄まじいと思う。
でも要らないな、要らないや。それでもいいくらい好きな人をあそこに探しに行くのは怖いなあ。


ディアゴスティーニを買う日
ホストたちがみんな真面目に顧客獲得の営業に勤しんでいたおかげでものすごいぐるぐると自分がお金を払ってでも買いたいもの、買えないもの、普段買ってるつもりのものについて考えさせられた。ただ、それはそれとしてまあホスト楽しいなあとは思った。まあ楽しいなで通える値段設定ではないことを除けば別に普通に楽しかった。こっちを狙ってる合コンの男みたいなノリじゃないキャストにしか当たらなかったら多分もっと楽しい。ガチのアイドル売りホストとかに当たってたら今ごろ会いたくて会いたくて震えてた可能性もある。
いつかそのうちめちゃくちゃお金持ちになって、2万?楽しいなら余裕余裕!みたいな気持ちになったら、たまの楽しみならホストもいいねって思うのかもしれない。そんだけお金あったら自分もホストにギブできる立場だからそこまで死にたみ募らない気もする。まあ、そんないつかが来る気はあんまりしないけど。

 

結局ホスト行ったっていうよりはホストという世界の玄関だけ見て帰ってきた感じだったけど、ジャニオタとしての自分と向き合ういい機会にはなった気がする。次はストリップに行きたいです。

親は人間だ/プロトタイプAとB

こと親子関係において、私はずっと逆らうだけが能みたいな生き方をしてきた。


2018年7月20日放送の『NEWSな2人』を見て自分の思春期を思い返した。「学校は堅苦しいから行かない」「学びたいってなったらそこから学び始めればいい」というこまっしゃくれた女の子の言葉。早口で少しカンに障る喋り方の、でも大人として100%正しく揺るぎない反論をできる人はきっと少ない言葉。人生にはきっと正しい選択肢なんてものはなくて、ただ後から振り返った時に「正しかった」と言えるかどうかによってのみ正しさを語れるのだとなんとなく思う。これはインターネットで見かけた言葉の受け売りだけど、本当に心からそう思う。あの女の子がいつか、学校に通わなかったことを正しかったと思えたらいいなあ。

私自身は学校にきちんと通ってそれなりにいい大学を出て一応まともに働いているけれど、親には逆らってばかりいた記憶が強い。そうすることしかできなかった。「しなかった」と「できなかった」の差はひどく曖昧で、それでも20代も後半に差し掛かった今でもあれは「できなかった」だと思っている。人生の小さな分岐点ではとりあえず親に逆らって生きてきた。だってそうすることしかできなかったから。


■人生2周目
とはいえ数え上げてみると大した数ではない。高校入学時、運動部に入らなかったこと。文理選択時、理系を選ばなかったこと。大学選択時、言われた通りの大学を目指さなかったこと。大学入学時、実家暮らしを続けなかったこと。それくらい。
人生の折々に訪れる小さな分岐点で私はいつも、親が指示したり勧めたりしたのと異なる道を選んできた。まあ有り体に言えば親が敷こうとしてるレールの上を歩きたくないとかそういう話で、こうやって文字にしてみると陳腐すぎてちょっと笑える。でも当事者にしてみれば大問題だった。
姉が始めたからという理由で2歳からスイミングスクールに通い、姉も入っているからという理由で小1からミニバスを始め、姉も通っているからという理由で小5で水泳を辞めて塾に通った。水泳を辞めさせられた頃から、母との仲はどんどん悪くなった。
初めは「親が思うてっぺん」「親が思ういい人生」を押し付けられるのがイヤだ、っていう気持ちだった気がする。すごく普通の正常な反抗期の訪れだ。でもいつからか、親(特に母)が私に示してくる道は、どうやら親自身が本当は選びたかった道のようだとおぼろげに察するようになった。

お母さんは運動部に入らなかったことを後悔してるし、お母さんは文系を選んだことを後悔しているし、お母さんは大学受験を本気でやらなかったことを後悔している。でもじゃあどうして私が運動部に入りなさいって言われて理系選びなさいって言われてあの大学めざしなさいって言われるんだろう。どうして私がお母さんの選べなかった人生を選ばなきゃいけないんだろう。お母さんにとって娘って人生2周目じゃん。できなかったことやらせたいだけじゃん、娘を通して失敗をやり直したいだけじゃん。

私はお母さんの2周目の人生じゃない。私だ。

そればかり思った。だから力いっぱい逆らって全部跳ね除けた。私は私、お母さんの続きじゃない。お母さんの失敗をやり直すための人生じゃない。

 

■選択と主体性
お母さんの2周目になんかなりたくなくて、私は私でありたくて、それだけだった。本当にそれだけ。

だから10歳から18歳頃まで、所謂思春期の私の人生の種々の選択は、ただ「親の言うことと反対の方」でしかなかった。でも、それって選択だったんだろうか。親の言うことを聞かずに自分で行く道を決めた、と言っても多分嘘にはならない。何部に入って何系になって何大学と何学部をめざすか、全部自分で決めた。母が言うのと違う方を自分で選んだ。
選ぶってなんなんだろう。全てに従うのと全てに逆らうのとでは、実は本質的に大した違いはないと思う。どちらも結局のところ、誰かに提示された方針が意志決定の拠り所ということだから。従うのも逆らうのもどちらも「他人の指示」あってのもので、その他人に従いたいか逆らいたいかで物事を選ぶのは主体的な選択とは言えないと今は思う。

そう、私の種々の選択は、きっと本当は選択などではなかった。私はただ逆らっただけ、逆らうしか能がなかっただけ。
めざすように言われたから、というだけの理由で志望校から消し去った大学は、私が選んだ大学より偏差値が高かった。きちんと大学について調べたわけでもなく、ただ「めざせと言われた」という理由だけで絶対受験しないと決心した。バカだと思う。人にそうしろと言われた、それに従いたくない、というだけの理由で志望校のランクを一つ下げたという事実は一生消えない。高校時代はよく分からない文化部で過ごした。クーラーの効いた部室でゲームしたりマンガ読んだりするのは楽しかったけど、スポーツもののマンガを読むと今でも死にたくなる。高校時代、勉強以上に打ち込んだものが一つもなかった自分がむなしくて堪らなくなるから。

全部選んだ。私が自分で、逆らうというその1点だけを判断基準に選択した。私は自分のこれまでの人生に概ね満足していて、自分が今の自分に育ったことを嫌だとは思わない。自分のことが結構好きだ。自分が歩んできた道を、まあ正しかったと言ってあげてもいいかなと現時点では思っている。けれど同時に断言できる。あの頃の私はただ他人に逆らっていただけで、あれを十全な意志決定と呼ぶことはできない。


■プロトタイプAとB、それから
大学入学と同時に家を出て、同時に妹が高校生になった。下宿を始めてしばらくした頃、「お母さんが〇〇部に入れってうるさくてウザい」という内容の相談を妹から受けた。正直呆れた。10年近く続いた私の反抗期を受けて、それでも娘に「自分の思ういい人生」を単純に押し付けようとする、娘の人生に介入しようとする母は応用力がなさすぎると思った。
介入しようとするから、押し付けようとするから選択肢の内容そのものだけじゃなくて母が何を言うかが意志決定の大きな要因になってしまったのに、何故妹に同じことをしてしまうんだろう。
母は姉にも同じことをして、姉は全部言うことを聞いて、そして潰れた。私が大学受験をしていた頃の姉はちょうどぶっ潰れていた頃で、芋虫みたいに部屋に横たわることしかできない姉を見て絶対こうはなりたくないと歯を食いしばって勉強した。全部従って潰れた姉。全部逆らってそれだけで人生の選択を決めてしまった私。妹にはそうなってほしくなかった。従うだけでも逆らうだけでもない、親が何を言うかじゃなくて、自分がどうしたいかで歩む道を決めてほしかった。

「人生どんな道を選んでもどうせ後悔はあるから。でもそんなの3年も経てばきらきらの思い出に変わるよ。だから自分で考えて、お母さんが入れって言うか言わないかじゃなくて、自分がどうしたいかで決めなね」
確かこんな感じのことを言ったと思う。自分がこれと真逆のことをした癖に、自分が本当はどうしたいかなんて15やそこらできちんと考えられる人なんてそういないと知っているのに。
そうなってみて初めて気づいた。人間は、自分の後を来る人に自分と同じ失敗をしてほしいとは思わない生き物だ。当たり前のことだけれど実感した。従うだけでも逆らうだけでもちゃんとした自己決定にはならないと思って、だからちゃんとしてほしかった。ちゃんと出来る助けになってあげたかった。私と同じ失敗を、妹にはさせたくなかった。
自分と同じ失敗を後続にさせたくないというのは、極めて自然で、人間的で、当たり前の気持ちなのだろう。


■親という生き物はいない
自分と同じ失敗を後を来る人間にはさせたくない、という気持ちが自然なものであると分かってから、親への嫌悪感は和らいだ。たくさん辛くて、しんどくて、結局今も親になりたい気持ちはまったくないけれど、でも私の親が私にしようとしたこと、してくれようとしたことは、極めて人間的な行いだったと今では思う。
正しくはなかった。多分やり直せたら、母はまったく違う言動をするだろう。「すべてをやり直したいと今になって思う」と現に言われたこともある。それでも、親は親という生き物ではないのだと思えるようになって、随分楽になった。
親は親という生き物ではない。ただ子どもより長く生きているだけの人間だ。子どもは子どもという生き物ではない。ただ親より後に生まれて親より後に生きる人間だ。後を来るものに自分と同じ失敗をさせたくないと思うこと、選んでしまった失敗だと思う道を選ばせたくないと思うこと、それはとても自然で当たり前で仕方なくて普通のことだ。それが人生の後輩の選択に影響してしまっても、こちらの意志が意志決定において選択の主要因になってしまうとしても、それでも失敗を避けてほしいと思ってしまう。人間だから。親だからでも子だからでもない。人間だからだ。


■甘え
子どもという圧倒的に経験が少なく自分の影響を弾き難い存在に対して「自分で決めてほしい」と思うことはむしろ甘えではないかと私は思う。
だって子どもなんだから、周りの大人がどう思うか知らずにはいられないし、大人がどう思うかを全く無視して「自分の意志」だけに従うことはひどく難しい。従うにせよ逆らうにせよそうだ。従いたい、従いたくない、どちらを思わせてしまっても結局意志決定への少なからぬ介入で、でもそれは仕方ない。そう、仕方ないのだ。どうやったって子どもは大人の好嫌を一定程度察するし、察してしまったらそれは選択に反映される。「自分の意志で決めろ」「自分で考えろ」なんて言うのは大人の甘えだ。だって大人は紛れもなく、子どもの思考材料の大きな大きな1ピースだ。
あの子は学校に行くかもしれないし行かないかもしれない。後悔するかもしれないししないかもしれない。どっちになるかは今はまだ全く分からないだろう。でも、どっちに転んでも、「あなたの自己責任だよ」とはあの大人たちに言わないでほしいなあと思った。
大人だって迷うし、大人だって間違えるし、大人だって不安だ。でも、自分の接し方が、考えが、生き方が多大に影響せざるを得ない子どもに対して「自分で決めろ」「自分で決めたんだろ」と言うのは無責任が過ぎると思う。私は逆らうことしかできなかった。しなかったのかもしれない。今はまだ断言できない。だから人生の後輩に、逆らうだけでも従うだけでもなく自分の選択を志してほしいと真剣に思う。でもそれは無理だとも同時に思う。だって大人なんだから、守り育てる立場なんだから仕方ない。
押し付けたくない、絶対従わせたいわけじゃない、でも自分と同じ失敗はしてほしくない。それはとても自然な気持ちで、人間的で、そして他者の人生への大幅な介入だ。それを忘れたくない。


全部に従ったプロトタイプAの姉。全部に逆らったプロトタイプBの私。誰に助言を求められても、いや求められなくても、プロトタイプにはならないでほしいなと思ってしまう。製品版になってほしい。従うだけでも逆らうだけでもない人間になってほしい。でもそう思えば思うだけ、あの頃ぎゃんぎゃんに押し付けてきた親の気持ちが分かってしまうんだから皮肉なものだ。
あの子のことを今日も思う。こまっしゃくれたカンに障る、学校に行っていない女の子。自分で決めたと胸を張って言えるのか分からない、親の影響がないはずないと思ってしまう。それでもどうか、いつか「正しかった」と思えますようにと、全然知らないしムカつく子だけど思う。プロトタイプBだった私だから、製品版になれるといいねって心から思う。何故なら彼女は、私より後を来る人生の後輩なので。

私から彼を奪う人


NEWSの6人時代の曲の中でも特に思い入れがある楽曲の1つに『share』がある。6人時代のNEWSが、6人で作詞作曲した歌。NEWSだから、この6人だから作れる歌だと思った。嵐じゃなくて関ジャニ∞じゃなくてKAT-TUNじゃなくてNEWSだから作れる、NEWSだけの歌だと本気で思った。

すれ違いゆく風の中で僕らはなぜ出会えたんだろう
同じ星が今見えるなら 僕らはただそれだけでいい

 

無理に一つにならずに 分かりあえない日はそのままでいい
一人一人が持つ色だから鮮やかなマーブル描けばいい

P亮シゲの3人が好きだった。ビビって敬語のシゲと、そんなシゲを可愛がるP様と亮ちゃん。少しずつ距離が縮まっていくのをリアルタイムで見れたのは僥倖だったと今でも思う。大野くんと松潤とか、横山くんと大倉くんとは全然違うけど、でもNEWSのメンバーにはNEWSのメンバーの関係性があって、私はそれが好きだった。

好きだった。本当に。敬語でも、混ざりあえなくても、1つじゃなくてもほかのグループと絆のあり方が違っても、私にとってそれはNEWSの個性だし他との大切な差異だった。それは私にとって紛れもなく、NEWSの好きな部分の1つだった。


今もあの頃の歌が好きだし、今でも6人のNEWSが好きだ。でも、あの頃みたいには好きじゃない。それでいいしそれがいいって言えたのは、たとえ他と違ってもそれがNEWSの形だと思えたからだった。上手くいってないんでも関係が築けてないんでもなくて、それがNEWSなりのあり方だと思えたからそこを好きでいられた。今でも好きだし見て懐かしむこともあるし全てが嘘だとは今も思っていないけれど、でもあの頃と同じ気持ちで愛することはもう出来ない。だって結局壊れてしまった。私が好きだったものが本当にNEWSなりの形だったのか、それともただの破綻の予兆だったのか、今ではもう分からない。

好きだったはずの時間を否定された気になるのはとてもしんどい。見ていたもの、愛していたものが本当はあの時はもうとっくに駄目になっていたんじゃないか、自分が愛したものなんか本当は最初から存在しなかったんじゃないかって、そう思ってしまうのはとてもむなしい。もしかしたら、「もう見れない」という形で未来を奪われるより、「好きだと思っていたものは幻に過ぎなかった」のだと思わされて過去を奪われる方が辛いことさえあるかもしれない。
6人のNEWSのことを私にそう思わせたのは、他でもない6人のNEWSだ。私からNEWSを奪ったのはNEWS自身だった。

NEWSの皆の人生を何より狂わせたもの。ファンが何より怯えたもの。最年少となった手越さんが成人した時、同い年の加藤さんと2人でお祝いしたことに勝手に特別な意味を見出していた。
未成年飲酒って言葉、大嫌いだ。どうしてこんなことで未来を失わければならないんだろうって、だって大したことじゃないのに。どうせお酒なんかみんな飲むのに勝手に飲むのに飲ませるのに、芸能人にとってだけあまりに代償が大きくて大嫌いだ。
でも、それが禁止されていることにはきちんと意味があって、それは紛れもなくこの社会のルールで、そして何よりそれがもたらすものを誰より分かっているのがNEWSだと思っていた。私たちが怖がるのと同じように怖がってくれると、避けてくれると、勝手に信じていた。あのとき形振り構わずしがみついたんじゃん。自分の居場所として残したんじゃん。ステージに立つ資格と引き換えにできるほどの楽しみなんてあったのかよ。なあ、ないって言えよ。言ってよ。


少し話は変わるけれど、アイドルの恋愛を悲しいとか嫌とか思う気持ちの構成要素には、私の場合間違いなく「アイドルとしての自分より恋愛を取られた気がして悲しい」がある。自分の立場を危うくするほどの価値をそれに見出されたことが、と言うよりもっと正確には、アイドルであることにそれと天秤に掛けられる程度の思いしか持ってくれていなかったことが悲しい。
そんなに簡単な話じゃない。それだけが全てなわけじゃない。だから今まではそこまで気にならなかった。誰の何も全部、正直別にどうでもよかった。アイドルは私を看取ってくれないし、私はアイドルを看取れない。アイドルの人生はアイドルのもので、私の人生は私のものだ。嫌な気持ちが全くないと言ったら嘘になるけど、恋愛しないでほしいと言うのはもっと嘘だった。人間としての人生をちゃんと生きて、ちゃんと幸せに死んでほしいから。


今回も私は怒ってはいないのだと思う。怒るとかそういう話じゃない。
ただ「ああそうなんだ」と思う。感覚として分かる。複数人でお酒を飲むこと、盛り上がることは別にそう悪いもんでもない。ジャニオタの私は傷ついてるけど、一般人の私はどうしてもそれを忌むべき圧倒的な絶対悪だとは感じられない。絶対悪じゃない、みんなやってる。私も好きだ。でも、でもNEWSのメンバーにだけはやってほしくなかった。もう2度とお酒で失敗なんてしてほしくなかった。だってしょうがないじゃないか。1度や2度なら許されるかもしれない。牽制球を投げられてもギリギリセーフかもしれない。でもそうじゃないじゃん。そうじゃないグループだって分かってるでしょ。当人達が誰よりも1番身に染みて、分かってるでしょ。違ったのかよ。
違ったね、そっか。喉元過ぎたら熱さ忘れちゃうんだね。こっちはまだまだ火傷痕残ってるけど違うんだね。そっかぁ。

 

してしまったことが消えないのと同じように、してくれたことも消えない。見せてくれたたくさんの素敵なもの、素敵な言葉、大好きな気持ち、全部消えない。私は今日もNEWSが好きだ。
好きだよほんとに。でも私多分、今回のこと許さないと思う。許せないと思う。6人のNEWSを6人のNEWS自身に奪われたのを今でも許せないのと同じように、多分いつまでも今回のこと許せない。好きでいる限り永遠に。ねえ私まだ信じてるよ。あなたたちのアイドルでいることへの執着を、決意を、みっともなさを。でもいつか思うのかもしれないね。NEWSなりの良さとかNEWSなりの絆とか、そんな風に良いように良いように捉えてたの間違いだったなあって。信じたものなんて最初から存在しなかったんだなあって、いつか思わされるのかもしれないね。怒ってないのに許せないの変だね。なんなんだろうねこれ。

結局のところ、私の好きな人を私から奪えるのは私の好きな人自身なのだ。よくよく知っていた。それこそ身に染みて知っているはずだった。そして私の好きな人たちは、残念ながらあと1枚イエローカードが出たら退場させられかねないような、あと1球危険球を投げたら退場させられかねないような、そういう人たちだ。

 

986日々 だから今があって やっと叶えたこの 4合わせ

  

冷めていた あの頃の声 ごめんね もう二度と泣かさない

 

私からあなたを奪うのはあなただ。あなたに奪われるなら仕方ない。諦める以外何もできない。本当はいつまでもずっと、あの頃『share』を聴いていたのと同じような気持ちで『愛言葉』を聴いていたかった。ねえ、まだ好きだよ。きっと明日も明後日も好き。でもね、いつかなくしちゃうのかなあって、いつかまた奪われるのかなあって、多分しばらく忘れらんないや。

 忘れらんねえよ。忘れられるわけねえだろ。でも君たちは忘れられるのかもしれないね。それでもきっと好きだけど。ねえ嬉しい?私あなたたちのこと大好きだよ。

垢抜けたら人生おいしくなくなった話

こんにちは、凡庸な不美人です。
東京に出てきてから6年、随分垢抜けたもんだと思う。自分で言うことでもないけれど、私は年々綺麗になってゆく。髪を綺麗にして、眉を整えて、頬を淡く染めて…そうやって、鏡の中の私の憎むべき要素を一つ一つ消していくのは結構たのしい。何もかも根本的に駄目だと思っていたのは実は勘違いで、それなりに磨いてみれば私は路傍のビー玉程度には輝いていた。

綺麗になったと自分で思う。痩せて、垢抜けて、お金の自由が増えて。小学生の頃より、中学生の頃より、高校生の頃より、大学生の頃より、今の私が1番かわいい。1番かわいくて、1番つまらない。

そう、つまらない。つまらなくておいしくなくて時々発狂しそうになる。綺麗になって可愛くなって女の子になって、そして私は人間ではなくなってゆくような、そんな気がしている。


ブスの人生
以前飲み会の席で会社の同期に中学の頃の写真を見せたら、「女の子って変わるんやなあ…」と絶句された。その頃の写真をみると今でもちょっと笑ってしまう。オタク少年、以外の感想が特に浮かばない、床屋で切ったみたいな髪にダサい眼鏡で頬杖をつくジャージの少年。制服を着るのは登下校時だけで、あとの殆どの時間をズボンを穿いて過ごした。冗談めかして「お前の恋愛対象って女?」って聞かれてもなんの疑問も持たなかった。そりゃそうだ、そうだよね、そう見えるでしょ。別にいいよ。
先生に笑って体重を訊かれたら笑って答えた。本当に別に嫌じゃなくて、ただそういうもんだから答えた。高校生になっても別に何も変わらなくて、結局高校3年生まで一人称が「俺」だった。男になりたいのかと訊かれたらよく分からなかったけど、自分が「おんなのこ」だというのもしっくり来なかった。大学に入って東京に出てもそれは変わらなくて、女の子になれない何かみたいな、そういう気がしていた。
大学1年の終わりに、ピアスホールを開けて髪を染めた。それだけで何故か髪はさらさらになって、目は大きくなって、私は男の子に見えなくなった。成人式に向けて髪を伸ばしている間、何度も「女の子らしくなったねえ」と言われた。「俺は、湯坂ちゃんは垢抜けたらちゃんとかわいいって最初から思ってたよ」とも何人かに言われた。どんどん女の子になっていったけど、なんとなくそれは伸ばした髪の魔法のような気がしていて、二十歳の冬にショートカットに戻す時の怖さを今も覚えている。髪を切ったら魔法がとけて元に戻ってしまう気がして、でも全然そんなことはなかった。

それでも、垢抜け始めたのが大学に入って交友関係を築いた後だったから、どんなに垢抜けても私はやっぱり私だった。女の子のほぼ全員が女子大の子な中で唯一サークルの母体大学の生徒だったこともあって、重いから男子が担当していたデジタイマーの順番に組み込まれたり、AVを見る場に紛れ込んだり、「ふつうのかわいいおんなのこ」にはついぞなれなかった。それを嫌だとも思わなかった――今でも思わない。物心ついた頃からずっとそうだったから、それを100%嬉しく思うわけではなかったけど、でも良いか嫌かでいったら別に良かった。私は、そういう自分が結構好きだった。


ハローワールド
分かったことが一つある。私はただの若い女の子だ。そしてそれが、とても苦しい。

私はずっと、心のどこかで自分のことを「女の子になりきれない何か」だと思っていた。でも違った。少し容姿を磨いてみればもう、私はただの女の子だった。ジャージで過ごし、口汚く男言葉で喋り、男の中に紛れていた過去の私を知らない人から見れば、私はもう360°どこから見てもただの普通の女の子だ。それは別に悪意ある眼差しではないし傷つける意図も誰にもない。私はただの女の子で、これからの人生もずっと女だ。一生女として生きていく、だって身も心も女だから。それなのに、私は未だ「おんなのこ」な自分を受け止めきれずにいる。


女未満、ニアリーイコール人間
社会人になってから、「お前はいいなあ」と言われることが急に増えた。お前はいいなあ、女の子だもんなあ。部長に気に入られてていいなあ。部署のおじさんに好かれていいなあ。羨ましいなあ。俺だって可愛がられたいよ。いいなあ、お前は若い女の子で、いいなあ。


全然よくない。全っっっ然、おいしくない。


ずっと気づかなかった。お前女じゃないもんなって言われるのも、男と同じ負担を課されるのも、下ネタに配慮をされないのも、別にまあ面白いからいいやって、それ以上何も考えてなかった。でも、私はずっと心のどこかで、「私は容姿以外の点で認められ評価され受け入れられている」と感じ続けて生きてこられたんだと思う。もはや意識する必要もなく、ただずっとそれを当たり前だと思ってきた。だって私ブスだから、女じゃないから、可愛くないから。だから、そういう意味で一切のメリットを与えられない私にちゃんと友達がいて、毎日楽しくて笑っていられるのは、「おんなのこになれない生き物」としてちゃんと価値があるからだと無意識に認識して生きてきた。
可愛さの代わりに猛々しさを、愛らしさの代わりに言葉の鋭さを、可憐さの代わりに肩を並べるに値する賢さを。勝手に認められた気で生きてきたのだ。


人間が減る
社会に出てしばらくして、とんでもないことに気がついた。どうやら私の周りの人々は、私が私自身を可愛いと思っていると考えているらしい。他人が思う「私が私に下しているであろう自己評価」と「実際に私が私に下している自己評価」がズレていることがこんなに苦痛だとは思わなかった。
それでもまだなんとかなった。新人だから、まだ未熟だから、だから育ててあげなくちゃって、そういう風に思ってもらえたし思っていられた。
去年の暮れ頃から、先輩が仕事に行き詰まりだした。上司に叱られて、部長に冷たくされて、きっと彼は私よりずっと辛いだろう。彼と私の辛さを比べたら確実に彼の方に天秤は傾く。それは分かっている。それでも。

「お前はいいよなあ」「お前が羨ましい」「俺、お前に生まれたかったなあ」
なんの悪意もなく言われる度に、20代前半の女であることを羨まれる度に、とてもつらくてとても悔しい。誰も別に、可愛さで仕事をしようなんて思っていない。気に入られるために振舞ってなんかいない。ただ仕事をしているだけで、ただ頑張っているだけだ。そう、私は頑張っている。胸を張って言える。私は仕事を頑張っている。

それなのに若い女であるというだけで、それが得だと当たり前のように言われる。その通り、きっと得をしている。頭では分かる、職場の人々は皆優しい。でも心がついてこない。だってずっと可愛くなくても生きてきた。女未満のなにかだけど、身の内にない魅力を能力で、性格で、機転で、度胸で補って生きてきたはずだった。マイナスをプラスに転じられるだけの力があると思って生きてきた。でも今は違う。可愛くてよかったね、気に入られててよかったね、女の子でよかったね。

 

ねえ、実力以上に評価される身分でよかったね。


なんだこれ。なんだこれなんだこれなんだこれ。そんなもの要らない、望んでない、ちゃんと見てくれ、私を見てくれ。いつかは失う貴重なものを今すぐかなぐり捨てたいなんてバカだと思う。それでも今がどうしても苦しい。こんなことなら要らなかった。ずっとダサくて垢抜けなくて異性から見て惹かれる要素のない自分でいたかった。
だって私、仕事でくらい能力を評価されていたい。マイナスをプラスに転じられてるんだって、そう思えてた頃の方が楽だった。今の自分の方が好きなのに、容姿や年齢の分を勝手に評価から差し引かれる。ずっと自分の特権に気づかなかった。無意識に「おんなのこ」としてのマイナス分を補正して、面白いからまあいいやなんて思ってた。それも一つの得難い幸福だなんて知らずに。女としての私が認められるだけ、人間としての私が薄くなってゆく気がする。「ふつうのおんなのこ」になったらこんなに得を見込まれるなんて、こんなに「人間」が減るなんて、そんなの知らなかった。


君にしか決められない/私に決めさせろ
若さや可愛さで得をすることは、別に忌むべきことじゃない。可愛がられることをこそ楽しくておいしいことだと思う人もきっといるのだろう。「おんなのこ」
であることと、「おんなのこ未満の何か」であることはどちらにもそれぞれの損得があって、どちらが優れてるとかどちらが良いかとかそういうのを一意に決められる問題ではないのだと思う。
だけど私は、あまりにもながく「おんなのこ未満の何か」として生きすぎた。そんな自分としての得を享受しすぎた。愛着を持ちすぎて、その得を当たり前のものだと思いすぎた。失くしてみるとそのおいしさは、信じられないほど名残惜しい。女であることは、なんてお得で、なんて厄介で、なんて楽で、なんておいしくないのだろう。
明日も普通に仕事に行って、明日も普通に可愛がられて、明日も普通にニコニコ笑う。いつかこの狭量な幻想から醒めて、素直に今を享受できるのだろうか。全然おいしく思えない、とてもお得な今を。

私の悪意のいくところ

 

あなたの好きな人のファンが嫌いだから、あなたの好きな人のことも好きになれない

と面と向かって言われたことはあるだろうか。

私はある。今までに二度。どちらも言いようのない脱力感に包まれて、適当に笑ったような気がする。あなたの好きな人のファンが嫌い。だからあなたの好きな人も好きじゃない。それは私にはどうしようもないことで、究極的には私の好きな人にもどうしようもないことでもあって、けれど私の好きな人をそれで嫌いになってしまう人がいるのもたしかに仕方なくて、だから「ああまたか」と脱力することくらいしかできない。
残念ながらこの世には、関係ない他人から見たら明らかに様子のおかしいファンがたくさんいる。私の好きな人はその数が特別多いけれど、もっと多くのおかしなファンを抱えている人もいるし、数が少なくてもどんな人にでもやばいファンはいる。多分、"ファン"というものが存在するすべての人に、程度の差はあれ有害なファンがいる。


自分の好きな人だけを褒め、その人の周りの人をけなし、時に事実と異なる主張さえまき散らす人々。自分の好きな人のために、現状がどんなにひどく彼/彼女がどれだけ実力に見合わない冷遇を受けていて、本当はどういう扱いがされるべきなのか声高に主張し続ける人。「誰かのファン」の名札をつけて他者に石を投げることが自分の好きな人のためになることなど決してないことが永遠に理解できない人。
お願いだから辞めてくれとか、せめて完全に身内にしか見えないところで愚痴を吐き出すだけにしてくれとか、そういう要求にはきっと意味がない。なぜならこういうファンにとっては自分は真実を訴えているだけで、世の中の善良な人々に、この一大事に気づいていない人々に好きな人の"窮状"を訴えることも目的で、陰でこっそりやる必要も意味もないからだ。聞いてほしい、気づいてほしい、わかってほしい、この人のすばらしさを!世の中のおかしさに!私たちが気づいている真実を!

多分、ここで何を書いたって伝わらないんだけど。
他人の人格に口を出したって意味なんかないんだけど。
わかってくれよ頼むから、って最近思う。

 

■脳は事実が好き
彼氏持ちの女性を口説くときは彼氏をけなすな、過剰に褒めろ。
という言説を聞いたことがあるだろうか。彼氏をけなすと女性が「そんなにひどい人じゃない、だって彼は~~」となり、逆に過剰に褒められると「そこまでの人じゃない、だって彼は~~」となる。けなすとむしろ彼の良いところを思い出させてしまうが、逆に過剰に褒めると彼氏への不満を想起させることができる、というちょっとしたテクニックだ。現実にはこんなに単純に物事が運ぶことはないだろうが、人間の反応を単純化した説明としては一定の説得力があると思う。

人は事実に反することを見聞きすると、「事実」を思い浮かべる。

私たちは常日頃林檎を思い浮かべながら生きたりはしないし、林檎という単語をみたときに思い浮かべる概念もさまざまに異なる。だけど「林檎なんか赤くない。あんな色を赤とは呼ばない」と言われたら多くの人は「え、林檎は赤いぞ?」とその赤さを思い浮かべる。

「Aくんは絶対にバラエティで他人を弄って笑いを取ろうとしない、自虐で笑いを取るのが本当にバラエティをわかっている人。他人を弄るBくんは内心人を見下しているしバラエティが下手。テレビに出る器じゃない」というツイートを見かければ「Aくんって弄る側に回ることほんとにないっけ?」「Bくんの弄り方ってそんなに性格悪そうかあ?」と思う。
「Aくんだけが圧倒的に歌がうまくて他6人はプロのレベルではない。聴く人が聴けば一人だけレベルが違うのはすぐわかる」と喚く人を見れば「いうほど圧倒的な差なんてあるか?」と思う。(大体ない)


よく知らないけどなんとなく知っている人について事実と異なる主張をみたら「それ違くない?」と人は思う。自分が知る事実を思い浮かべる。
そこで思い浮かべる事実は本来ただの事実であって、そこにはっきりした価値判断は別にない。よく知らないものにいいも悪いもないからだ。(その人固有の性格として、特に興味の対象ではないものに対するデフォルト感情が肯定的な人と否定的な人の差はあるけれど)
しかし実際には、目にするのが「過剰に褒めている」ように感じられるものだと、それを見た人が思い浮かべるのは「そんなにすごくはないんじゃないか」「そこまで素晴らしくはないよなあ」になる。Aくんを嫌いなわけではないはずの人に、結果として「Aくんてそんなにすごくない」というネガティブイメージを想起させることに成功し、それを繰り返せばネガティブイメージを植え付けることにもなりかねない。ただAくんを褒めるだけではなく誰かの悪口も添えておくと「それ違くない?」度は上がり効果は増す。私たちは基本的に敵意や悪意に敏感な生き物だ。普通の人は悪意に満ちた発言を見た時、発言の対象よりむしろ発言者へと疑いを抱く。Aくんのファンとして他者への悪意を放つことは、たとえAくんへの愛とセットの発言であろうと、いやむしろ愛とセットであればあるほど、AくんのファンとしてAくんを盛り立てることに一役買うどころか、むしろ足を引っ張ることになるのである。

 


■私は彼が好き、という名札
よく知らないけどなんとなく知ってる人についての事実と異なるっぽい発言を見たとき、人は自然と「そんなに悪い奴じゃない気がするけどなあ」とか「そんなにすごい奴じゃない気がするけどなあ」と思う。
では、言われている対象がよく知っている人だったらどうだろう。よく知っている好きな人だったら?私にとって一番大好きな人だったら?
答えは簡単で、人は脳内でさらに強く反論する。そんなことはない。Bくんはこうだ。Aくんはあの時こう言ったことがある。Aくんが最高でBくんが最低なんて、そんなことはない。

自担の隣にいる人が私の自担ではないのは、何かが、どこかが、私にとって自担に劣るからだ。顔かもしれない、性格かもしれない、あるいは単に出会ったタイミングかもしれない。とにかく何かが私にとって私の自担以下だから担当にならなかった。好きの度合いが100と99でそこに1の差しかなくても、それでも私にとってはBくんの方が上だ。
だから私は理不尽にBくんを貶されたと感じたら「そんなことはない」と思うしその「そんなことない」には私の中ではちゃんと理由がある。
そして私はBくんが大好きだから、Bくんに対する悪意や敵意を感じたら敏感に反応するし、敏感に反論を思い浮かべる。よく知らないけどなんとなく知ってる人よりずっと素早く、ずっと些細な点にも、ずっと強く。何度も何度もそれを繰り返せば、いつか私の中にAくんへの反感が降り積もって、それは忌避感へと変質するかもしれない。
Aくんのあまり喋らないところ、BくんがAくんにじゃれつくところ、それをAくんがめんどくさそうにあしらうところ、AくんとBくんの歌声が生み出すハーモニー。そういうすべてのものに倦んでいく。大好きなBくんを貶されたくないから、大好きなBくんを愛してくれない人の目にBくんがつく機会が嫌だから。Aくんが、嫌だから。

好きな人の好きなものは知りたいと思うし、嫌いな人の好きなものはなんとなく嫌いだ。多分これって特別なことじゃなくてわりとみんなそんなもんで、人は自分のことを嫌いな人のことを簡単に嫌いになる。自分の好きなものを嫌いな人のことも簡単に嫌いになってしまう。そして人は、自分や自分の好きなものに向けられた悪意、敵意、蔑みを、興味がないものに向けられたそれよりずっと過敏に感じ取る。
なにかに向けて悪意を、敵意を発するというのはそういうことだ。嫌うということは、嫌い返される可能性を大いに孕んだ行為だ。
インターネットの中ですれ違う私たちは、互いの顔も名前も知らない。目に見える個人の属性情報は現実とは比べ物にならないくらい少ない。その中で「この人のファンです」という名札はとてもよく目立つ。その人が日頃からAくんへの愛を語り、Aくんの素晴らしさを説き、Aくんを好きでいればいるほど、その人が発する敵意はどんどんAくんにも返っていく。Aくんを好きであればあるだけ、Aくんへの愛を語れば語るだけ、その名札はどんどん鮮烈に輝いて、放つ悪意はぐんぐんAくんへと返っていく。
現実世界の私はとある県出身で、とある高校卒業で、とある大学卒業で、とある企業に勤めていて、その他にもたくさんの属性で構成されている。現実世界の私が何かや誰かと敵対すれば、相手からの敵意はこれら様々なものに向かっていくがインターネットでは違う。私が放つ不当な悪意は、現実世界よりずっと単純で少ない名札の元に、私の好きな人のところに、真っ直ぐ帰ってくるだけだ。

 

■瞳に映る真実を
私の好きな人のことを好きな人が放った不当な敵意が、私の好きな人のところに帰ってくる。見る度虚しいし本当は悔しいけれど、何を言っても無駄なんだろうなとも思ってしまう。だって私は知っている。私の好きな人の過激なファンも、他の誰かの行き過ぎたファンも、およそこの世の"有害"なファンほとんどみんな、自分の発言を不当な誹謗中傷だなんて思ってやしないのだ。
人は自分の見たいようにものを見るし、そういう風に見ていることに気づきさえしない。私の好きな人は不当な扱いを受けているし、本当に素晴らしいのは私の好きな人だけだし、本当のあるべき在り方はこうじゃない。彼ら彼女らの中ではそれこそが真実で、むしろ自分たちこそが被害者で、反論してくる人が本当の加害者だ。だから何の照れも恥じらいもなく、堂々と「この人のファンです」と名札をつけたまま他者を罵ることができるのだ。
好きという気持ちがどれだけ私たちの目を歪ませるか、どれだけ私たちを寛大にするか、そんなに分からないものなのだろうかと思うけれど、きっと分からないものなのだろう。「好き」と「優れている」は違う。私の好きなものが必ずしも優れているわけではないし、他の何かを好きな人だって優れているからというだけでそれを好きなわけじゃない。でも一方で「好き」と「すごい」は、「好き」と「こんなのこの人だけ」はとても近いところにあって、どれがどっちなのかは簡単に分からなくなる。

「好きを語ってるだけなのに攻撃される」「自分の望みを公言しているだけなのにどうして反対されるの」「私たちの方がずっと攻撃されている」
本当に?と思うけれど、決して嘘をついているわけではないのだと思う。愛とセットで語っている分、自分の中での真実であることもそこに不当な誹謗中傷が含まれていることも見失いやすいのだろう。

 

■自由に伴うもの、それは
人間の中には、もう生得的というのに近いレベルで「知らないものに否定的」「好きじゃないものへの第一印象がネガティブ」「何かへのデフォルト評価が批判」という人がいる。とても具体的には、私の母と妹がそうである。好きや嫌いを抱くほど知らなそうな芸能人にもまずは批判的だし、相手がそれを好きだと知っていても特段の躊躇なくそれを貶す。そしてこういう人はえてして自分が好きなものを貶されるのにはとても敏感だ。それなのに何故かどうしても、他のもの/人にもそれを好きな人がいて、それを貶されたらあなたがそうであるように憤ったり悲しんだりするということが分からないらしい。

そういう人がとても身近にいるから、そういうものだという緩やかな諦めはある。それでも「Aくんのファン以外の方には不快な内容です」「Aくん以外の2人も好きな方は話が合いませんのでお引き取りください」みたいなbioやツイートを見ると「いや、分かってるんじゃん」と思う。
この人についてこう書いたらこの人を好きな人が見て不快だろう、という自覚ができるなら、どうしてそこで踏みとどまれないのだろう。不快に思うだろうがこれは真実だから、と考えているのだろうか。Bくんなんか大嫌いだから、Bくんを好きな人なんかどうでもいいと思うのだろうか。「嫌なら見るな」「私たちは棲み分けしている」という言葉もよく目にする。本当に?鍵なし公開アカウントで綴るその悪意は、「嫌なら見るな」のレベルに本当に収まっているだろうか?

「インターネットは自由」という言葉はその通りだ。そして、自由や権利には責任と義務が伴う。自由に発言すれば、それが聞こえた誰かから自由に反応が返ってくる。悪意や敵意には放った以上の悪意や敵意が返ってくることもある。「嫌だ」と言ってくれるならまだいい。たとえばAくんと同じグループの人を貶すなら、ファン同士の小競り合いが起きて憎しみあって低いところで安定できるかもしれない。
でも、インターネットに書き込む以上、可能性は低くても誰に見られたっておかしくない。自分の放つ敵意が、侮蔑が、中傷が、世界のどこにいたって見られるものであること。私たちは受け取り手を選べないということ、それを分かっているのだろうか。誰かの視界にその敵意が滑り込んだら、それはきっとつけている名札の元へといつか帰るのに。どこに届くかも、誰から返ってくるかも分からない敵意について「そんなもののファンになら嫌われても構わない」と言えるだろうか?

これはもう、覚悟の話だ。法に触れない範囲なら、確かにインターネットはどんな話でもしていい場所かもしれない。でもそれは、どんな発言をしても何の報いもないということとは決して違う。報いはある、必ず、自分と自分の好きな人の両方に。
覚悟はあるだろうか?自分の言動で、自分の好きな人を嫌わせる覚悟。

 


■私の悪意のいきつくところ
悪意や敵意を剥き出しにして主張をすることにはほとんどの場合意味がない。意味がないどころか不利益につながることの方が多い。そしてその不利益を被るのはやばいファンだけではなくタレント本人もだ。むしろ、タレント本人に及ぶ害の方がずっと多いだろう。
わかってほしいと思う一方で、たぶんどんなに説いても意味がないんだろうなとも思う。それでもこれを書いたのは、そういう過激なファンと同じ人を好きな人間である私がこれを発信することに少しでも意味があるような気がしたからだ。

誰にも嫌われず全ての人に愛される人間なんてこの世に存在しない。私の好きな人のことを好きにならない人も当然いる。でも、私の好きな人が誰かに嫌われるなら、それは私の好きな人自身の咎ゆえであってほしい。私の好きな人が嫌われるのは、私の好きな人自身のせいであってほしい。
こんなやるせないことを、あと何回思えばいいのだろう。こんな虚しいことを、この人を好きでいる限り思い続けるのだろうか。

私たちは他人の人生に、他人の生き方に口出しできない。辞めさせる権利は、同じくただのファンである限りもちろんない。覚悟、と言ったけれど、これは当然全ての人に通じる話だ。好きな人に向けられる敵意に激昂して牙を剥けば、相手も多くの場合「不当な悪意を向けられた」と認識する。人は往々にして自分がかざした言葉の刃に無頓着で、他人に付けられたかすり傷に厳しい。
だからきっと、意味はない。声を張り上げたって伝わらないし、辞めてくれることも、そっと離れてくれることも、あるいはどこかに閉じ篭ってくれることもないのだろう。だからせめて、覚えていようと思う。私の悪意は必ず帰る。私と私の好きな人のところに。全ての人に愛されるなんて不可能なことだから、私を嫌いな人も絶対にいる。私のことが嫌いなせいで私の好きな人を嫌う人だっているだろう。それでもせめて、この名札をつけたまま他者に敵意を向けることのないようにしたい。好きな人が嫌われたのが好きな人自身のせいだったらよかったのになんて、そんな虚しいことを誰かに思わせることがなるべくないように。だって私には覚悟なんてない。私の好きな人を嫌わせる覚悟も、誰かにこの虚しさを背負わせる覚悟も、きっとずっとないから。

 

NEWSは私なのかもしれない


NEWSは私なのかもしれない。


と今年のFNS歌謡祭第一夜を見て思った。頭が沸いている。なんでなのか自分でも本当にわからないんだけど徳永英明さんと歌うテゴマスを見た後ひくほどボロボロ泣きながら、どう考えても思考がバグってるんだけどNEWSは私なのかもしれないと思った。


・わたし
私なのかもしれない、の「わたし」とは、たとえばNEWSの歌での視点の置き方や精神性の表現に関する何かの比喩ではなくて、正真正銘たった今この文章を書いている24歳独身女性の「私」である。普通に働いて普通に生きている、クリスマス2週間前にして彼氏がいない東京暮らしのOL。クリスマス2週間前にして~とかなんとなく言ってみたけど、そもそも人生で彼氏がいたことがほとんどないしクリスマスデートをしたことも1回しかない。彼氏がいない状態が私にとっての普通だから正直今別にそんなにさびしい気分でもない。

まあ要するにもてないし、もてないことに慣れているし、たぶんこのまま25歳になるしとりあえずもてない。なんでもてないのか分かるような気がする日もあるしわからないような気がする日もある。私ちょっと変だもんねって思ったり、男受けするような顔でも性格でもファッションでもないしなあって周りを見ていて思ったり、でも別にこれくらい普通じゃんとも思う。街を歩いて100人とすれ違っても、その100人の他人のうち次の日まで私を覚えている人はたぶん1人もいないだろう。だって私普通の人だから。そこらへんの道を歩いているごく普通カップルの彼女と大して何も変わらない女の子だから。
だから、なんでだろうって思う。確かに他の子と違うところもあるかもしれないけど、でも私別に普通じゃん。これくらいなら別にいいじゃん。ちょっと普通じゃないけど、でも所詮「ちょっと」だ。これが私だから、私普通じゃなくていいし恋愛なんて要らないから!って胸を張れるほどの特別さなんて何も持っていなくて、でも周りのみんなとの些末な差異を投げ捨てたくもなくて、どうすればいいのかはもとよりどうしたいのかさえよく分からない。

 

うるせーばーーーーーか!ってよく思う。

「そういうとこ治せば彼氏できるんじゃないの~」って言われるたび、「こうしたら彼氏できるんじゃない?」って言われる度思う。

ねえ私このままで彼氏ほしいんだけど、今のままで彼氏ほしいんだけど、それってそんなにわがまま?このままでいい、このままがいい。普通の域を飛び出せない程度にちょっと周りと違うだけの凡人なんだから、このままで愛されたいって思ったっていいじゃん、だって私、私のこと結構好き。いいじゃん変なピアスしてたって。いいじゃん1人で映画観たって。いいじゃんセミとカマキリ素手で掴めたって。

化粧を全くしてないわけでも信じられないくらい太ってるわけでも特別不細工なわけでもなく、ただほんの少し違うねって、でもこんなの個性にもなりきれない少しの差異でしかないでしょ、こんなの大層なアイデンティティになんかなんないでしょ、じゃあいいじゃん。このままで愛されたい、むしろこれを愛されたいって、別に大したわがままじゃないでしょ。

でもきっとそうじゃない。だって現実に私は誰にも選ばれずに生きている。友達がいないわけじゃなく、対人能力に極端な問題があるわけでもなく、男女問わずそれなりにいろんな人と普通に仲良くできてるつもりで、でも誰1人として私を選ばない。誰も私を愛さない。それはつまりそういうことで、きっと私は何かが決定的に駄目で、だからなんかよく分かんないけど駄目なんだと思う。

高校~大学の7年間でついぞまともに恋愛できないまま社会に出てしまうともう全然だめで、勝手にどんどん卑屈になって、駄目だったことを理由に自分を駄目だと思い始めて、自分を駄目だと思っていることが理由でさらに恋愛できなくなっていく。

 

こうして段々なにがなんだか分からなくなって、このままがいい、どうすればいいのか教えてほしい、どうにかしたい、このままでいたい、もう知らない、がぐちゃぐちゃに混ざってうるせーばーーーーーーーーか!!となるわけである。

何かをどこかを「治し」たら愛してもらえるんだとして、このままでいたら愛される確率がその100分の1だとして、それでもこのままでいてやるからなばーーか!というメンタルと、頼むからどこが駄目なのか教えてくれよというメンタルの間を高速反復横跳びする毎日。モテなくてモテたくてモテたくない。そう、つまり私はシンプルに迷走している。ありがちで単純な迷走を。

 

・手遅れ、閉塞感、そして迷走
もう少し丁寧に紐解くと、私の感情は大きく3つに分けられる。

①漠然とした不安
前項でもたらたら長ったらしく述べたが、要するに私は私という人間の仕上がりが正直嫌いではない。むしろ結構好きである。好きだし、それほど問題があるとも正直思っていない。しかし現実を見るとどうやら何か問題があるらしく、にもかかわらずその問題が何なのか考えてもわからない。
というか正直こんな悩みは勝てば官軍としか言いようがなくて、負けてる間は一生悩み続ける以外できることがない。そしてなぜ負けているのかの明確な答えなど決してどこにも落ちていない。だから苦しい。存在しない答えを探しているのだから見つかるわけがないのに、答えが出ないことで何もかもが駄目な気がしてきたり何も駄目ではないとも思ったり、とにかく実体のない何かと戦い続けているので何に悩んでいるのかもわからず精神が疲弊する。

②手遅れ感
こうして、「駄目であることを理由に自分を駄目だと思い、駄目だと思っていることが理由でますます駄目な振る舞いしかできなくなる」という駄目スパイラルに撃沈する。最初の頃にきちんと恋愛できなかった人間は、その後れを取り戻すことは一生できないのではないか。「あの頃、できなかった」という挫折がもたらしてきた悪影響を今からどうやって解消できるだろうか。

③閉塞感
この負のスパイラルからどうすれば抜け出せるのか分からない。というか抜け出すには恋愛するしかないんだけど、恋愛するためにはここから抜け出さないといけない。トリックアートの中にでも迷い込んだような気分である。にっちもさっちもいかなくなって、さてどうしようもう知らないと迷路の中で座り込んでいる。リスタートするためにはゴールしなくてはいけないのに、ここは詰んでいるのでゴールするためにはリスタートしなくてはいけない。右の壁に手を付けて歩いても左の壁に手を付けて歩いても結局同じところに帰ってくるだけなのだ。こうしていつの間にか歩く気力もなくなっている。

 

・君のそれと僕のこれ
で、だ。
昨夜のNEWSICALの意味不明な衣装を見ながら、ケミストリーとのコラボを見ながら、レイニーブルーを聴きながら、なんかもうどうすればいいんだろうなあとしんみり思った。NEWS、私が世界で一番好きなアイドルグループ。彼らには、別にこれといった欠点があるわけではない(むしろ世界一)。しいて言うなら売上が弱い。なぜ売上が弱いのか。後押しが弱いからだ。なぜ後押しが弱いのか。売上が弱いからだ。

人気のあるセンターと伸びしろのある他メンバー。前陣が戦ううちに後衛が育ってグループそのものが大きくなっていく、という理想的なルートを、彼らは歩むことができなかった。なぜなら、後衛たちが育ちきる前に前衛たちは出て行ったから。

NEWSには燃料ならある。一生懸命探して増やして蓄えてきた燃料がちゃんとある。たぶん着火剤も結構ある。でも、火がない。火打石がない。プールいっぱいにガソリンを満たしたって、火をつけなければ何も燃えない。


NEWSを見ていると、この人たちどうしたいんだろうって時々思う。

彼らは間違いなく頑張っているし、毎年毎月毎日きっと進歩しているし、努力しているし、少しずつ前に進んでもいる。そして今、NEWSはNEWSのこともNEWSのファンのことも結構好きだと思う。

でも彼らは官軍ではない。なぜなら勝っていないから。そして覇道を歩めてもいない。別に何も間違えてはいないけど、負けてないけど、でも勝ってない。今が好きで、今を謳歌していて、でもきっとここはまだ全然彼らが目指す高みではない。

どうしてここまで尖ったことをするんだろうと時折思う。冗談めかして「ちょwお洒落止めて―www」と言いながら、いくらなんでもここまで一般受けを捨てなくてもいいんじゃないかとも思ったりする。来々シーズンのファッションショーを席巻しようが、ジャケット1着50万するようなブランドが取り入れるテイストだろうが、テレビの前の私たちには正直そんなのわからない。そんなのきっと彼らだってわかっていて、それでもこれを選ぶ理由はなんだろう。
本当にハイセンスな人にしかわからない、その感性を持つ者にしかわからない「お洒落」がアイドルにとって必ずしも清海ではないことくらいNEWSは、そして増田さんは流石に分かるだろう。それでもそうする理由はなんだろう。自分を貫きたいからだろうか。それが俺達の個性だからだろうか。そうじゃない気がして、勝手な想像だけど、自分勝手な押し付けだけど、だって正解がどこにもないからなんじゃないかってちょっと思ってしまった。

きっとお洒落なマッチョスーツ、サンタに掛けたのか「参」が躍る前掛け。きっとずっと探している、ガソリンいっぱいのプールに着火するための火打石。
ああもしかしてこのツリーは、この歌は、私が耳につける豆電球や三角定規なんだろうか。その不思議なボレロは、私のかたくなさやかわいげのなさではないだろうか。

跳ねられないままついに全員が30代になった。あと一押しが足りなくて、そのあと一押しがないがために最後の一押しを貰えない。手遅れ感と閉塞感を、なんだかずっと感じている。そうやって、でも私と違ってうるせーばーーーーか!なんて彼らは言えなくて、光明をずっと探し続けているのかもしれない。可燃性の闘志をひたひたに満たして、火打石の閃光を探している。
なんだか勝手に、本当に勝手にわかる気がした。全然違うけど、でも、売れないことが理由で売れなくて、売れるために売れてなきゃいけないってことだけはまあまあ的を射ている気がして、なんとなく他人事とは思えない夜だった。


私に彼氏ができるのが先か、NEWSが売れるのが先か。漠然とした不安も手遅れ感も閉塞感も、官軍になってぶっ飛ばしたいなあ。うるせーばーーーーーーーか!