英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

ミクロな地獄に君を落としても/人間のまま愛せないなら

 

最近、アイドルを好きな自分と人間の自分がバラバラになっている気がすることがあって苦しい。バラバラになるというか、ちぐはぐでないとやっていられない、整合性を取ろうとすると破綻するというか。人間のまま何かを好きでいられるのってすごく当たり前、いや当然そうであってしかるべきことで、でもそれって時には難しくて、人間のまま好きでいつづけることが出来ないものも時にはあるのかもしれない。

好きだと思う。
好きでいたいと思う。好きだから。
でも、好きでいられないこともあるのかもしれない。たとえそれそのものに罪などなくても。 

 

■私たちの愚かさゆえに

もう随分前のことに感じるが、2016年12月に俳優の成宮寛貴さんが引退したことを覚えているだろうか。薬物使用疑惑を週刊誌に取り上げられ、その疑惑は彼自身も所属事務所も否定したものの、 

この仕事をする上で人には絶対知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまい、このまま間違った情報が拡がり続ける事に言葉では言い表せないような不安と恐怖と絶望感に押しつぶされそうです

(中略)

今後これ以上自分のプライバシーが人の悪意により世間に暴露され続けると思うと、自分にはもう耐えられそうにありません

 という悲痛な声明とともに彼は引退していった。彼の引退に多くの人が悲しみ、また、他者の性指向を面白おかしく書き立てるメディアに怒りを表明する人もたくさんいた。

彼の引退についてのツイートの中で一際強烈に覚えているものがある。元ツイートが見つけられなかったのでうろ覚えだが、

「私たちが愚かだから、私たちが下世話だから、私たちは彼を失ってしまった」

というような内容だった。

そうだ、私たちが愚かで、下世話で、他者を傷つけるようなふざけた記事に興味を示すから、それがお金になるから。だから彼は私たちの前からいなくなってしまった。需要があるから供給される。大衆全員がNoを突きつければ、彼らはあっさりそれをやめるだろう。そうすることが正しいからではない。儲からないからだ。

  

山口真帆さんとNGT48の結末

先日、NGT48の山口真帆さん、菅原りこさん、長谷川玲奈さんの3名が卒業を発表した。1月の暴行事件告発から今日にいたるまで、ついぞ一度も外野がAKSをまともな会社だと思えるような出来事がないまま“山口真帆さん暴行事件”はこれが結末となるのだろう。

事件の発表後、NGT48に在籍していたことのある北原里英さんは山口さんへのエールを送った。

https://twitter.com/Rie_Kitahara3/status/108333762122

 「(前略)

あなたは謝るべきではありません!
謝らないで。悪いことしてないです。本当に!頭を下げるのは間違ってます!わたしが悔しい。
犯人である男性に謝ってほしいわけじゃない。だけどこんなの変でしょ?絶対に間違ってる。もうほんとうに悲しい。」

 
ワイドショーでは指原莉乃さんが厳しく運営を批判し、今回の卒業発表後にはTwitterでこんなコメントも述べている。

 「本当だとしたら未成年の子供も預かっている会社としておかしい。大人数を預かっておいてその感覚の人とは思いたくない。私も現社長とは一度しか会ったことも喋ったこともなかったしコミュニケーション不足もあるのか、いま預けられている人の不安さ不信感がわかってないような。全体的に怖いしおかしい」

 事件に関わっている、いわゆる“黒メン”ではないかと疑われているメンバーたちの過去の生配信(NGT48のメンバーたちは個人で映像付き生配信を行っている)やモバメ(登録者にはメンバーからのメールが届くサービス)、Twitterの投稿などの裏の意味を読もうと様々な憶測が繰り広げられ、こんな風に山口さんを侮辱していたのではないか、こんな風に勝ち誇っていたのではないかという“解説”も多数見た。インターネットユーザーが推測して作り上げられた相関図もある。

何が事実なのかは現時点ではわからない。今になってもわからないということは、大衆がそれを知ることはないのかもしれない。

 

事件に関わっていた、あるいは山口さんと対立していた側ではないかと目されているメンバーの1人、山田野絵さんのTwitterを見た。「握手会ありがとうございました。大人っぽくなったって言われてうれしかったです!」というコメントと、笑顔のものと花束を持って笑うものの2枚の写真が添付された投稿。素直に、かわいいなあと思った。ぱっと見の感じはアンジュルム竹内朱莉ちゃんみたいな系統の、ショートヘアの元気そうな女の子。過去の投稿を少しさかのぼってみた。

「お前なんかいいとこない」というコメントに、「あるよ!こんな顔でもアイドルできてる!」と返していた。

好きなアイドルに言わせたくない言葉5本の指に入る気さえするひどい言葉だ。プロデュース48というオーディション系の番組に出ていたことがあるらしい。「いつも元気で頑張り屋さんな野絵ちゃんがだいすき!」というリプライが過去のツイートについていた。彼女はかわいいし、きっと努力家(少なくとも表に見える部分はそうだったのだろう)なのだろうし、たくさんの魅力に溢れているのだろう。

  

だから、彼女を好きな人、彼女を推している人、きっときちんといただろうと思う。「こんなブスを好きな奴いないだろうけどw」と彼女たちを揶揄するツイートもこの頃見かけるが、そんなことは絶対にない。いたに決まっている。どんな気持ちなんだろうな、と思う。煽りではなくただ、苦しいだろうなと思う。彼女に非があったと確信していても苦しいし、非がなかったと確信していても苦しいし、どちらかわからないと思っていても苦しいだろう。好きだった人が悪い奴だったと思うのは苦しいし、好きな人が謂われなきバッシングを受けているのもしんどいし、好きな人のことが分からなくなるのも言い知れない不安だろう。私が山田さんのファンだったらどう考えてたのかな、とも少し考えた。わからない。うまく想像できなかった。

最近の山田さんのツイートは、もう誹謗中傷のリプライの方が多い。まともな言葉遣いのものもそうでないものも、数百単位の言葉が彼女を責める。こうなってしまったらそれは仕方ないのかもしれない。怒りをただぶつけることに生産性があるのかは置いておいて。

  

山口さんが名指しで「私の味方」と明言した人は、菅原さんと長谷川さんのほかにももう1人いた。それが村雲楓香さんである。

3人の卒業発表後、彼女はTwitterで悲痛な決意を表明した。

こちらにはたくさんの応援コメントが寄せられていた。それはもうたくさんの温かい言葉が。

 

「(前略)

事件以降、真帆ちゃんの苦しむ姿をずっと見てきました。被害者でありながら、すぐにグループの正常化を考え始めた真帆ちゃんは本当に強い心の持ち主だと思います。

 

たくさん泣いて、苦しんで、それでも諦めずにグループを変えようとしてくれた真帆ちゃんには感謝してもしきれません。

それなのに、グループは真帆ちゃんの気持ちに寄り添うことができませんでした。

グループが変わることを信じて訴え続けてきた真帆ちゃんが、段々と人を信じられなくなっていく姿は、見ていて本当に辛かったです。

 

このような事件が起きて、被害者であるメンバー、そしてそこに寄り添ったメンバーが辞めるなんて、絶対にあってはならないことだと思います。そうならないためにはどうするべきかずっと考えながら過ごしてきました。

しかし結果として、昨日3人にあのような発表をさせてしまいました。わたしには何もできませんでした。ごめんなさい。

 

最悪の結末と言われても仕方ありません。

 

でも、これを結末にはしません。悔やんでも悔やみきれないけれど、それでもたくさん後悔して、反省して、それぞれが自分を見つめ直していかなくてはいけません。

これまでたくさんの方がNGT48を支え、応援してくださいました。そんな皆さんに、ここで何も変わらないまま終わる姿を見せられません。NGT48に変わって欲しかったという3人の願いを胸に、正しいグループとしての姿を皆さんにお見せできるように頑張ります。

(後略)」

 
いいんだろうか、と思った。

自分がファンならどうするのかとこちらも考えた。というより、考えずにはいられなかった。彼女のこの決意を応援できるだろうか。ファンとしてじゃなくて、外野としてでも。口出しするようなことじゃないとわかってても、それでも考えずにはいられなかった。私は彼女のこの決意を応援できない。だって心の片隅で彼女を応援しているから。

 

 

■マクロな地獄へ君の背を押す

今回の一連の騒動について私は怒っている。我慢ならないと思っているし、許してはいけないと思っている。それは黒と噂される彼女たちとか、実際に暴行をはたらいた奴らとか、そういう当事者たちよりも、運営に向けられた怒りなのだと思う(暴行の加害者にも当然めちゃくちゃ怒っているけれど)。地獄か?と思う。事実は確かにわからないけれど、山口さんの発言とAKSの人々の言い分はあまりに齟齬がある。対応もあまりにお粗末だと感じるし、正直なところAKS、NGT48運営の言っていることが信じるに値するとはとても思えない。

それで、この信用ならない組織で、村雲さんは頑張るのだという。

 

 かなり昔にNMB48の水着MVを批判するブログ記事が少々波紋を呼んだことがある。私はそのブログと、それから、NMB48のことが好きな女性のそのブログへの悲しみを読んで、自分もブログを書いた。

 

■発端のブログ

ninicosachico.hatenablog.com

 

■見かけたツイート

NMB48の「ドリアン少年」を聞いたら秋元康に怒りしか沸かない - 限りなく透明に近いふつう http://t.co/F2PRxuisie せやけども「好き」っていう人のこと、この人はどう思うんでしょうか。酷いやつだというんだろうか。

— 2015, 8月 11

 

アイドルとして出会ってしまった子を好きになってしまったら、その子が脱いだりしたときもがんばれと思ってしまうんだけど、それはだめなことなの?この好きな気持ちはどうしたらいいの?それをその子が望んでいたとしても、わたしはそれを止めたほうがいいの?どうやって?

—  2015, 8月 11

 

私がやっていることは犯罪なのだねって思って落ち込む 素直に落ち込むし素直に死にたくなる

— 2015, 8月 11

  

■私が当時書いたブログ

herodontsing.hatenablog.com

ただ、たとえ大人がどう思っていようが、アイドル自身は必ず鋼の剣を模索しながらアイドルをしていると感じるし、そういうときでもそのアイドルを応援するのは極めて自然なことだと思う。事務所が安易に肌を見せようとかファンサまき散らさせようとか思っていたとしても、それでもアイドル本人は真摯に仕事に取り組んでいる。そういうときに、『大人が気に食わない』という理由でそのアイドルと彼/彼女の夢をあきらめることは、多分私にはできない。大人の意志が透けて見えて、それがどんなに優しくなくたって、それでも私の好きな人は輝いているだろうし、素晴らしいだろうし、私はそれを愛するだろう。

 

この当時、私は「じゃあ彼女を好きなこの気持ちはどうすればいいんだろう」という言葉に対して、確かにそうだと思った。だって、だれが何と言おうと好きな人はそこにいる。推しは替えがきかないただ1人の人間なのだ。そこがひどい場所だと思ったとして、それでもそこにいる彼女が好きだったら、好きでいる以外何ができるんだろうとこの時は思った。

今は違う。今は、もしそう思うなら、そこが“汚い大人”の思惑に満ちていて、彼女が使い捨てにされようとしているのなら、織の中で牙を剥くんじゃなくて織そのものから出ていってほしい。だって、結局私の愛は私が認めたくない人々の財布を肥えさせる。私たちがそれを許すから、私たちはそれを淘汰できない。

 

彼女が決めたことを応援したい、彼女が好きだ、彼女の歌う歌が、写真が、文章が欲しい。その気持ちに従ったとき、結局私たちは彼らを許し、認め、肯定しているのだ。だからなくせない。だからずっとこのまま、だから彼らは未だ何も変わらない。たとえ喉から手が出るほど彼女の商品が欲しくても、お金を払うべきではないことも時にあるのだと今は思う。なぜなら、そうする限り地獄はずっと続くから。彼女はずっとそこにいるから。

 

当たり前のことだが、地獄がなくなれば誰も地獄には落とされない。だから私は地獄の存在を許したくない。認めたくない。肯定したくない。だって彼女が好きだから。好きな子にそんなところにいてほしくないから。だから、私が村雲さんのファンだったら、NGT48の彼女を応援し続けることはできない。好きな人の背を地獄に向かって押す自分を私は許せない。だって私は人間だ。アイドルオタクなんか、ほとんど全部欲望で動いている。むしろそうであるべきだというのが個人的な信条だ。応援してあげたいとか、ライブに行ってあげたいとか、そんな「~~してあげたい」で動きたくない。したいことにお金を払う、消費者であることがオタクとして闇落ちしない健全な在り方だと思っている。でも、だからこそ、欲望だけで動いてはいけないのだ。その欲望が私の倫理にもとるなら、私は欲望を我慢しなくてはならない。

まともな人間性を保てないなら、他者の侵害に加担しないと欲望が果たせないなら、そんなものを趣味にしていいわけがないだろう。だって好きなんだ、好きなんだぞ。正しくないことに加担しないと好きでいられないようなものであることを、好きな人に許したくないよ。たとえそれが好きな人個人の決意や信条、夢を後押しできることであったとしても、長い目で見たときにいいことなんかきっとない。一番よくて、せいぜい現状維持だろう。現状維持、つまり地獄の存続。そんなのは嫌だ。

 

  

■ミクロな地獄へ私が落とす

推しその人は、その人しかいない。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、本当にそうなのだ。私の好きな人はたった1人しかいない。星の数ほどいるアイドルの中の有象無象の1人かもしれないけど、似たような人なんか腐るほどいるかもしれないけど、でも替えのきかないたった1人の存在で、だからこそ地獄の拒絶はむずかしい。

だって、そこにいる。そこにしかいない。そうやってお金を払うから、許せない状況が許されて、認められて、それを肯定することにつながるとわかっていても。大衆全員がNoを突きつければそんなものは消えるとわかっていても、それでも。

私たちは知っている。全員そろって手を離すこと、本当の本当に全員でNoを突きつけることがどれほど困難で、ほとんど達成不能であるか。自分1人が手を離したところで、ただ1人ファンが減るだけであることを。

生きていて1000人の同意を得ることがどれほど稀だろう。でもきっと1000人じゃ全然足りない。1000人が背を向けても地獄は平然と運営を続けるだろう。あるいは奇跡的に地獄が立ち行かないほどの人が手を離したとして、それはただ地獄もろとも好きな人を消してしまうかもしれない。二度と見られないかもしれない。

長い目で見て地獄が続かないようにふるまうことは、短い目で見ればただの地獄の召喚かもしれない。だからこんなに難しい。

 

山口真帆さん事件”は憤りしか覚えない結末をもって幕引きだろう。でも、“NGT48事件”は違う。違うし、“秋元康系列アイドルグループ事件”としても違うだろう。違わせなくてはいけない、と思う。変わることはないかもしれないけど、そうやって広く広く見れば結局何も変わらないかもしれないけれど、好きな人がいる場所は、好きな人がいるにふさわしい場所なのか、そこにいる好きな人にお金を払うことは、私の払ったお金の流れる先は肯定に値するものなのか、私は考えなくてはいけない。私がアイドルオタクでありつづけるために。

 

 

■地続きの地獄

偉そうなことを言っているけれど、私はNGT48のファンでもなければ48系、坂系の誰かのファンですらない。週末Not Yet上からマリコくらいしか買ったことがない、ファンですらない人間だ。

今回のこの件についてできることはない。引き続き何もお金を落とさない、それだけ。損失にすら別にならない。

ただ思うのだ。NGT48事件で終わらせてはいけない。秋元康系列アイドルグループ事件だと考えたい。それで一体、どこまで広げればいいだろう。どこまで広げて考えて、どこまで私は拒絶すべきだろう。どこまで拒絶すれば、私は人間のままアイドルオタクでいられるのだろう。しかも、そうやって風呂敷を広げれば広げるほど相対的に私の影響力はますますちっぽけになって、ただ地獄の中で怒っているだけの人になってしまう。

村雲さんの言葉を見て、指原さんの言葉を見て、北原さんの言葉を見て、私は彼女たちの誰1人に対しても、いなくなってほしいとかお金を払うに値しないとか全然思わないし、好意か嫌悪かで言えば間違いなく好意を抱いている。

それでも許したくない。私はどうしてもどうしてもどうしても、今回のことを許したくないし、今回のようなことをする人々を肯定したくない。

私がやっていることは犯罪なのだねって思って落ち込む 素直に落ち込むし素直に死にたくなる

—  2015, 8月 11

  このツイートを読んだ当時は、どうすればいいのか考えて、どうしようもないんじゃないかと思った。犯罪じゃないと知っている。私1人がお金を出さなくても何も変わらないかもしれない。でも私が私を許せなくなる。今の私はそんなのは嫌だ。

 

私は本当に自分を律することができるのかとても不安になる。私がファンとしてこういうことの当事者になったとき、今回で言う村雲さんのファンの立場になったとき、私は私の愛を手放せるだろうか。私の愛を、欲望を、消費を、本当に辞められるだろうか。だって何も変わらないかもしれないのに。

でも、それでもどうしても、私は私の好きな人を好きでいることで、死にたくなんかなりたくないし、人間として許せないものをオタクだからって許すなんて絶対に嫌だ。

 

私はこれからNGT48に、48G系列に、坂系列に関するあらゆるものにお金を払わない。そこにいる女の子1人1人に必ずしも罪がないのはわかっているけれど、でももうこの系列の消費者にはならない。たとえその行動になんの意味もなくても、それでも。どうしてもどうしてもどうしても、今回の出来事を肯定するのが嫌だから。
そして、自分がファンであるコンテンツで同じことが起きたら、その時は手を放す。私が私であるために、人間として生きていくために。

次善の策/あなたと私が他人でなくなる唯一の方法について

 

アイドルは人間である。しかしただの他人だ。私は自担と同じ場所で同じ空気を吸ったことはあるけれど、"会った"ことはない。彼は(彼に限らず私が今まで現場に行ったことがあるすべてのアイドルがそうだけれど)今までの人生で一度たりとも私を1人の人間として認識したことがないし、これからもしない。ジャニオタってそういうものだしそもそも私には彼に認識されたいという願望は特にない。ないから別にいいけれど、自分自身が彼の人生の上にひと足の足跡も残せない存在であることはさびしいなあとたまに思う。さびしいというか虚しいというかどう言えば正解なのか分からない。ただ、こんなに好きなのに一生好きでも死ぬほど好きでも他人なんだよなあとなんとなく思うのだ。むなしい営みだなあと思う。同時にその虚しさは楽で気安くて、だから私はジャニオタを続けられるのかもしれない。彼を好きで居続けられるのかもしれない。


好き、好きってなんだろう。恋ではない何かであることだけは確かだけど、それ以外はよく分からない。アイドルを好きって気持ちにも早く名前がつけばいいのになあと昔から思っている。恋と愛が何か違うものであるという共通認識があるのと同じように、恋とも愛とも言えないこの"好き"にも名前があったらどんなに楽だろうか。でも私がたまたまそういうタイプであるだけで、アイドルへの気持ちがほとんど恋に近い人もいるし、完全に恋という人もいる。

アイドルに恋ってどんな感じなんだろう。目が合うこともなく、メールやLINEの返信に一喜一憂することもなく、手を繋ぐことも気になるお店に行ってみることも職場であった面白い話を聞いてもらうこともない。私は好きな人ができるとただ好きなだけで平気で数年居続けてしまうので、そんな感じなんだとしたらしんどそうだ。好きなだけ、ただずっと画面越しに、ペンライトを振りながら、あるいは雑誌のページを捲りながら気持ちが持続していく。そういう人に恋をしてしまったら、何を終着点にすればいいんだろう。好きで居続けることはできる気がする。他に好きな人ができて目移りすることもあるかもしれない。それで、それで、その恋に、その恋そのものの成就や破綻はあるのだろうか。持続はいくらでもあるだろうけれど。

オタクが言う「恋愛感情とは違うから」って1/4くらい嘘だよねって思う。嘘というかお利口の振り。諸々を頭で弁えてるから本気で恋したりしないわけで、でもそれって20%くらいは負け惜しみっていうかなんて言えばいいんだろう、次善の策、だ。

じぜん【次善】

最善に次ぐこと。最善とはいえないが、他と比べればよいこと。 「 -の策」

アイドルが熱愛発覚して荒れてるオタクに向けられる「まさかお前が結婚できると思ってたわけ」っていうテンプレみたいな嘲り。「そんなこと本気で思ってるわけないだろ分かってるよそれとこれとは別なんだよ」ってこれまたテンプレ通りの反論。多分みんな分かってる。まあたまに分かってない人もいるけど、大多数のオタクは自分と自担が奇跡的に出会って奇跡的に恋をして奇跡的に結婚することをありえない夢物語だと認識している。私のことなんか好きにならないでほしい、私なんかと恋愛してほしいなんて思えないから恋愛してる想像さえできないとキッパリ言いきる人も結構いる。私たちは分かっている。彼らが他人であることを。でも、分かっていることと無関心・無感動になれることは多分違う。
だから嫌なのかなあとなんとなく思う。恋ではないと自信を持って言える。彼の人生に私はいないし私の人生に彼はいない。そんなの最初から分かってるから、そもそも恋が成り立たない。心と頭にストッパーがあるから、だから恋じゃない。痩せ我慢とかじゃなくて本当にただただ恋じゃない。恋じゃないけど、なぜかこのストッパーは他人と恋愛されて何も思わないようにはできていない。あなたの人生に私がいないことはよくよく分かっている。だから私があなたの人生に足を踏み入れられないことに今更傷ついたり落ち込んだりはしない。だけど、あなたの人生に私じゃない人間が乗り入れてゆくことを諸手を挙げて喜べはしない。喜べないどころか落ち込んだりして、なんなら相手に憎しみさえ抱いたりして。

私のものにならなくていいから、誰のものにもならないで。

使い古された陳腐な言葉で、だけど我々はわりとお馬鹿さんなので平気でそんなことを宣ったりする。なんて傲慢なんだろう。物分かりがいいように見せかけて、その実全然まったくよくなんてない。私のものにしたい、なってくれなきゃ嫌だって泣き喚く方がよほど素直だ。恋がしたいとか結婚したいとか子供が欲しいとか、そういう当たり前の欲求を持つ1人の人間に対して「その相手に私を選んでほしい」と思うより「誰ともそんなことしないでほしい」と思う方が酷ではないだろうか。しかも、妥協してます、みたいな顔で。しかしなぜだか私たちはそれを次善の策だと思い込んで、妥協してるんだからせめてこれくらい叶えてくれよなんて嘯いて、大好きなはずの人に「一生孤独でいてくれないか」という通告とほぼ同義の願いを押し付けたくなってしまうのだ。

 

望みが明らかに叶わないという現実は人間をいとも容易く惑わす。欲求は変質して正解は分からなくなって訳の分からない形で収束を求めてしまったりする。
恋そのものの成就も破綻も滅多にない。他の人を好きになるとか単に飽きるとか、そういうのは"終わり"でこそあるけれど恋そのものの破綻ではない気がする。オタクに与えられる破綻は自担の結婚くらいで、それだって別に乗り越えちゃう人もいる。
好きな気持ちは更新されていく。遠い距離から彼を見つめて、いくらか修正された写真を見て、ほんの僅かの言葉を聞いて、それで好きで居続ける。気持ちの上下はあっても成就はない、破綻さえない。だって赤の他人だから。
だからだろうか。絶対に成就も破綻もしない恋の終着点を探したら、それは「彼の人生に乗り込むこと」になってしまうこともあるのかもしれない。奇跡のように出会って、奇跡のように恋をして、奇跡のように結ばれるなんてそんなのありえないから、だから。だったらせめて、彼の人生に足跡をつけたい。他人じゃなくなりたい、"私"を認識されたい。"私"に何かの感情を向けてほしい。


憎しみでいいから"私"に何か思って。
恨みでいいからあなたの人生に"私"を登場させて。


みんながみんなそういう心理で迷惑行為を働くわけではないだろう。もっと一次的な欲求でもって、ただただ近づきたくて知りたくて突き動かされる人もいるのだろう。でも、超えてはいけない一線を越えてしまう人の中には、無意識にせよ故意にせよそういう気持ちがあるのではないかとぼんやり思う。好きな人のホテルを突き止めて、そのドアの前に立ちノックをする瞬間、何を思うのだろう。まさか彼が喜ぶ顔は浮かばないだろう。名前を聞かれるとも思わないだろう。「お前かよ」って顔を歪められたら幸せなのかもしれない。そうですまた私です、覚えてくださいあなたに会いに来ました。あなたに、私が、会いに来ました。
人間は基本的に、本人にとって「正しいこと」か「仕方ないこと」しかしない。アイドルに対するストーカー行為は、ストーカー当人にとってどっちなんだろう。まあどっちだって関係ない。確かなことは、「私の好きな人を傷つけないで」という願いも「あなたの好きな人を傷つけるのはやめようよ」という願いも聞き入れられることはまずないという現実だけだ。普通の人はそういうことをしない。普通の人は自分がアイドルの人生の登場人物になれないことを分かって、諦めている。
あまりにも自明の理であるために、諦めるという感覚さえない人もいるかもしれない。だって一生目も合わない、言葉を交わすこともない。そんな人を相手にどう夢を見ろというのだろう。私たちはこういう気持ちを指して、分別とか理性とか言うのかもしれない。欲求のままに振舞って破滅することを押しとどめるもの。人間を人間たらしめるもの。それが欠けているから一線を踏み越えられるのだとでも思わないとやってられない。人間やめまーす、なんちゃって。でもそういうことじゃない?人でなしでないならなんだって言うの。


アイドルは人間だ。そして私たちにとって圧倒的に赤の他人だ。そういう立場であるファンが彼と他人でなくなる方法、彼との間に人間関係を築く唯一の方法が人でなしになることなのだと思うと、現実は痛烈に皮肉だ。
きっと誰もが一欠片くらいはこういう思考回路を備えている。少なくとも私はそうだ。アイドルに対して発揮しないだけで、バカみたいな"次善の策"が最良のプランBであるような気がすることは大して珍しくない。だけどやっぱり分からない。彼のカバンにものを滑り込ませる時、突き止めたマンションを覗きに行く時、無理矢理手を握る時。一体どんな気持ちなんだろう。自分の行動で好きな人の顔を歪ませて、自覚した上で好きな人に害を成して。嬉しいのかな、達成感があるのかな、そんな夜は満足して眠れるのかな。逆に興奮して眠れなかったりすんのかな。ああ本当に、全然想像つかないし一生分かりたくないや。好きで好きでたまらない人の人生にきったない足跡をつける、その瞬間の気持ち。

No where, now here

山下智久さんの10000字インタビューを読んだ。私の周りでは「読めてよかった」「今だから言える話だなあ」といった言葉少ない感想をぽつぽつ見かける程度で絶賛も否定もあまりみなかったので、何を書いてあるか特に事前情報を入れていない状態で読んだ。感想を一言で言うと、「うわっ山下くんだ!!!」だった。うわっとか言うとなんか嫌がってるみたいだけどそうじゃなくて、私が彼を見なくなってからの7年間は当然私が見てきた彼の続きで、根本から人格が変わるなんてことももちろんなく山下くんは山下くんだという、そういう当たり前の実感だった。当たり前、当たり前なんだろうか。私が彼を見なくなってからの彼が私の見ていた彼の続きだということ。当たり前じゃない気もしていて、もう何も分からないし何も言えないなあと思うこともあって、だから10000字もの長さで綴られる彼の言葉が私の思い出の中の彼と致命的な齟齬を起こすようなことがないことに驚いたのかもしれない。彼は彼だった。


山下くんは2017年、亀梨さんとユニットを組んで「亀と山P」名義でCDを出している。ドラマも2人で出ていたこともあって仲睦まじい様子は時折漏れ聞こえてきた。ものすごく明け透けで品のない言い方をすると、「元彼が忘れられないという理由で振られた元カノがいつの間にか不倫沼にハマっていた……」みたいな気分が少なからずあった。いやほんと最低な表現だけど、でも正直な気持ちだった。亀梨さんはKAT-TUNと添い遂げる気なんだろうに、盟友を得たかのように笑う山下くんにちょっと胸が痛んだ。いやいや俺を振った理由元カノじゃなかったのかよ、まあその元カノはもう既婚者だけど他の男と幸せになるでもなくよりによって不倫沼かよ、みたいな。ユニット組むのが嫌とかでは全然なくて、でも亀梨さんはあなたの唯一の伴侶にはなりえなくない?だって、だってだって、って思ってた。
もう山下くんのことなんか全然追ってないくせに、山下くんは何がしたいんだろう、抜けてまでやりたいことってなんだったんだろう、これだよって言えるような活動してんのかななんて思うことも幾度かあった。なんにも見てないくせに。

耳に入ってくる山下くんの話に色々なことを思ったり思わなかったり、何してるのか全然知らなかったりたまに偶然知ったり、そういう7年間だった。10000字インタビューを読む前にキャプションだけ見ていた。

今日まで支えてくれたのは家族や仲間、カメ、そして何よりファンです。

カメだけ固有名詞出ててちょっと笑って、でもなんかもやもやもした。この7年間何度もそういう気持ちになったし、そういうもやもやが解消されることはほぼなかった。ただなんとなく忘れて目の前のもっとインパクトの強い何かに押し流されて次に行くみたいな。喉に小骨が刺さったまんま、でも別に普段は忘れてるからいーやって感じ。
買ってよかったし読んでよかったと思う。喉に刺さりっぱなしだった小骨たちがようやく抜けて今更血が出てきてるみたいな、そんな感じの気分だ。


■ここではないどこか
1番すとんと胸に落ちたのは、NEWSを抜けた理由についてだった。ああ山下くんは行きたい場所があったんじゃなくて、ここではないどこかに行きたかったんだな。ここから抜け出したかったんだなあって、納得した。痛いけど、でも分かるって思えた。
山下くんと錦戸くんの脱退が発表された時、道理としては「錦戸くんは分かるけど山下くんも!?」だったけど、感情的には「山下くんは分かるけど錦戸くんも!?」という気持ちの方が多分強かった。そもそもの話として抜けたい気持ちだけでグループを抜けられることがあるなんてあの頃は思ってもみなかったから衝撃はとても強かったけど、でも山下くんが終生をここで過ごしたいと心から思っているようには見えていなかったから。

NEWSのメンバーとは、どこかぶつかれないもどかしさみたいなものがありましたね。衝突するんじゃなくて、すり抜けてしまうような感覚。噛み合わないというか。違う絵のパズルだったのかなって思います。
(中略)
今なら、もっと違った解決策を提案できただろうなとは思うかな。
(中略)
あのころはとにかく若くて、NEWSをやめられないなら事務所をやめますくらい、誰彼かまわず殴りかかるような勢いだったから。

この部分を読んで、脱退直後に山下くんの妹さんが公開したブログを思い出した。「8年間という年月の忍耐があったのもわかってほしいです」って言葉を見て、「8年間は忍耐でしかなかったの?なんでそんな言い方するの?」って虚しかった。これは本当はそんなこと思ってたんだ!ヒドイ!と思ったわけではなくて、「NEWSとして過ごした8年間の中にファンの皆さんに言えない苦悩や忍耐もあった」とかそういう言い方してくれたらまだマシなのに、なんでわざわざ苦痛でしかなかったみたいな言葉選びをするんだろうってその下手くそさへの呆れのようなものもあった。でも近くにいたらそう思ってしまうくらい、書いてしまうくらい、あの頃の山下くんにとってNEWSはフラストレーションだったんだろうな。
「男として」「ぶつかりあえる」というようなワードが頻出するページを捲りながら、自分が昔書いたブログのことも思い出した。

求めていたのとは違うメンバーで、期間限定のはずだったのにいつの間にか正式なデビューになっていて、切磋琢磨してきた仲間ではなくて自分におんぶにだっこなやつらと運命の船に乗せられて、いやだったのかもしれない。そういう風に思ったことがあったかもしれない。

めっちゃあってるじゃんて笑えた。そっかそうだよね、そう思ってたよね。なんならそのものズバリ、

NEWSだったころ、僕は"男だろ、自分の足で立てよ。俺に頼りすぎじゃねえ?"ってどこかで思ってた。

って言ってて、まあ驚きはないけどやっぱそう思ってたよねーって。我慢出来なかったんだなーって。泥みたいな連帯感、って当時のコヤシゲのこと私は勝手に思ってた。浮くも一緒、沈むも一緒。でもそんなの山下くんは意味わかんなかったんだろうな。沈むようなやつと一緒にやってく意味なんて全然見いだせなかったんだろうな。山下くんらしいな。


■あの日からのあなた
山下くんのFC会員数は2018年9月時点で約107,000人。ソロでの最新シングルは2013年7月リリースの『SUMMER NUDE'13』、アルバムは2014年10月の『YOU』(ただし2018年11月に新アルバム『UNLEASHED』を発売予定)、ソロとして1番新しいリリースは2016年1月発売のベストアルバム『YAMA-P』だ。ツアーは2011,2012,2013と3年続けてやって、3年空いて2016年、2年空いて今年9月からまたツアー中。
香取慎吾さんとか藤ヶ谷太輔さんとか赤西仁さんとコラボしたり、相対性理論に楽曲提供してもらったりパスピエに楽曲提供してもらったり、うおー羨ましいー!と思う一方で、「アレッ山下くんてそういうのが好きなんだったっけ?」とも思った。リリーススピード、ツアー頻度も決して高くはない。売上、悪くないけど(むしろ今の時代ソロでこんだけ売れる人なかなかいない)、山下くんてこんなもんだっけ?って思ったこと正直何度もある(NEWSの売上とか会員数とか単純に頭割りしたら全然山下くんに負けるのにね)。こんな、こういう、うーんなんだろう、「この人これがやりたくて抜けたんだ!」「これがやりたかったならしょうがない!」って気持ちよく膝を打てる場面があまりなかった。もちろんこれは私が山下くんをもう追いかけていないからで、それをどうこう言う資格はほんとないんだけども今だから言うと、「ソロにならなきゃできないこと、あった?できてる?」って思ったこと普通にある。単純にリリース頻度だけで言えば別にグループにいても今と同じことすんの不可能じゃなかったんじゃないのっていう気持ちになったことも時期によってはあった。
1位を取れないこともあったこと。東京ドームにまだ1度も立っていないこと。完膚なきまでに叩きのめしてくれたら泣きながら受け入れられるのに、4人束になっても敵わなければよかったのにそうじゃなかった。
"今"と"これから"に対する弱音は一つもないインタビューだったけど、本人にとっても100%満足できる成果を叩き出せてきたわけじゃないのはわかって事実確認という意味で少し安心した。安心とも少し違うけど、なんだろう、「絶対なんとかしてやる」「絶対俺ならどうにかできる」って思うような状況ってつまり、言ってしまえば逆境じゃん。何もかもが順風満帆ではなかったこと、不安になってもおかしくない状況でもあったこと、私が勝手に「そんなもんじゃないはずじゃないの」ってモヤモヤしてた時は多分山下くんも実績に満足してたわけじゃないこと。後悔していないのは今がうまくいってるいってないの話じゃなくて、自分の心に従った、従えてるからだってこと。そういうのが合ってて納得した。


■男だろ
もう一つ納得できたこと。NEWSじゃなくて違うグループだったら、違うメンバーだったらって話。「ぶつかりあえたと思う」「今もバチバチにやってるんじゃない」
結局元カノじゃん。て確認して、いやでも根底にある体験がそうなだけであって、結局のところあの頃得られた充実がNEWSにはなかったって話なんだよね。切磋琢磨とか競い合いとか、そういう山下くんにとってグループの必須条件だったものがNEWSにはなくて、だから山下くんにとってNEWSは仲間だけど仲間じゃなかったんだな。
インタビュアーの「カメだったら〜」って質問、もうこんなの燃やしたい人の質問だろ放火魔かよって笑ってしまった。案の定引火性の答えを返す山下くんはやっぱり保身がヘタクソで、7年経ってもそんなところは変わらないなんて変なの。
間に合わなかったんだなあ、ピンクとグレーは。2011年の早春に書かれた加藤さんの処女作『ピンクとグレー』は、発売こそ脱退後の2012年だが執筆自体が成されたのは2人の脱退を加藤さんが知る前だ。このままじゃまずいって焦燥感の中で、グループのために何かできることを探して書かれたものでもあった。今のNEWSいい状態だなあって思うよって旨の言葉を見て、ああ本当に決断があと少し遅かったら、あれがもう少し早かったらこれのタイミングが違ったら、って思わずにはいられなかった。
テレビで泣いてるとこ見て「男だろ」って思ったって言うけど、そんなこと言わなくていいようなメンバーだったら捨ててなかったはずだ。嫌いで別れたわけじゃないって、この7年間で幾度か聞いた。それを疑うつもりはない。だけど同時に悲しかった。嫌いで別れたわけじゃないって、ほんとのほんとにただただ噛み合わなくて実力不足で及第点じゃなかったからああなったんだって、私はやっぱり6人のNEWSが好きだから、6人のあり方を6人自身に愛してもらえなかったのが悲しかった。
山下くんが心から求める仲間は結局斗真くんで長谷川くんで風間くんで、山下くんが心から絆を感じられる人とデビューできていたら、今頃どんな景色が見えていたんだろう。


あと、これはちょっと本筋からズレるけど、繰り返される「男」って単語には違和感というかもどかしさがある。男だろ、男だから、男なのに、男として。まだ33歳なのになー。なんか別に、女だって仕事がんばるし好きな人守ってあげたいし自己実現したいし自分の足で立ちたいぜ。それは別に男だけの特別な気持ちじゃないぜ。それ全部、人間だからで別に良くない?ほんと本筋関係ないけど。


■これからの話
いつか6人で食事に行ったとか会ったとかそういう話を聞いたらこのわだかまりはほどけるのかな、と書いたことがある。

俺が言ってはいけないのかもしれないけど、過去にとらわれたくないし、もし何か壁があるなら、そんな壁は壊せばいい。
(中略)
たとえば俺のアルバムに誰か参加してくれないかなとか。みんなかハッピーになれる選択肢があるんじゃないかなって思ってる。

断言してもいいけど、ねえよ。
もうみんながハッピーになれる選択肢なんかどこにもないよ。戦争がなくならないのと同じだよ。やりたいならやればいいって思う。アルバムに誰かが参加とか、少プレなりなんなりでお互いの曲のマッシュアップやるとか、おもしろい試みだと思うしやったら見ると思う。でも、壁が完全に壊れることなんか二度とない。それだけの傷、それだけの痛みがあって、それを分かってでも決めたことでしょ。"8年間の忍耐"が実を結んでその分だけ8年分の愛着と思い出がファンにはあって、それを自分の心一つで捨て去ったのに、わざわざ壁を厚く高くしたのに何言ってるの。あの時、私たちがあなたを憎まないで済むような、憎しみが少しでも減るようなやり方選んでくれなかったじゃん。難しい方を選びたいとか、自分の心に正直とか、どうしようと全部山下くんの勝手だよ。でも、あの時あなたがやったこと、やっぱり全然ファンに優しくはなかったんだよ。後悔してくれとは言わない。間違ってたとも言わない。だけどあの傷も痛みもなかったことにはならない。好きでいる限りずっと。


■血
どうして斗真くんも長谷川くんも風間くんもいなかったんだろう。どうして1人にさせられたんだろう。時は戻らないし誰もやり直せない。分かってるのに今でも納得できない。何かがほんの少しでも違っていたら、何もかも違う未来に辿り着けただろうか。
インタビューの冒頭、「あの頃とは違う僕になってると思います」と山下くんは述べていた。でも読んでみたらそこには私の知ってる山下くんがいた。不器用で保身の下手な山下くん。愛は無関心よりずっと容易く憎しみに転じるものだから、もっと上手にやってほしかった。あなたを憎まないでいるために、私とても苦しかった。憎しみはないのに恨みがましい気持ちはまだ消えてないんだなって自分にうんざりする。
山下くんは山下くんのままだったし薄々感じてたことは大体あってた。なんとなく分かってたけど目を逸らしてたこと、今になって唐突に答え合わせができてしまった。痛いなあ、痛いよ。もうほとんど無関心に近いくせに、やっぱり無痛にはならないや。でも多分、もやもやのまま複雑な気持ちを置き去りにしてくるよりは傷ついた方がずっといい。ああ、あなたに愛されたかったな。あなたがとうとう愛してくれなかったものを、私愛してたよ。

買いたい受容と買いたくない需要/愛の値段は言い値でつけて

先日(と言ってももう結構前だが)初めてホストクラブに行ってきた。加藤シゲアキ著『チュベローズで待ってる』に影響されて軽率に。(オタクすぐそういうことする)


なんの自慢にもならないが私はそれなりにクソ真面目な高校時代とそれなりにクソ真面目な大学時代を送ってきたので、ホストクラブに対しては自分と対極、全くの異世界というイメージがあった。行ってみたらなんか、全くの異世界ってほど相容れないカルチャーではなかったのでわりとびっくりした。が、根本的に合わないなとも思った。折角なので感想書いとく。


ディアゴスティーニ創刊号
大学生の頃、いずれも人(おっさん)に連れられて
・普通のキャバクラ
・熟女キャバ
・オカマバー
には行ったことがあって、何となくホストクラブにも行ってみたいな〜とは前々から思っていた。ビビりなのでフォロワーさんと2人で行った。日高屋で餃子食べてお酒飲んでから行った。次があったらもう少しにおいきつくないもの食べてから行く……。笑

で。

ホストクラブはわりと高い。私が行ったことのある東京23区外のキャバクラは大体60-40分で4000円/人くらい、女の子のドリンクが1杯1000-2000円て感じで、まあ5000円と鋼の意志(キャストにはドリンクを飲ませないという)を握りしめておけば一応「客」になれた。
あんまりちゃんと聞いてないし分かっていないが、ホスト達の話を聞く限りめっちゃ安くしてもらって(というか追加料金を極力掛けなかった場合で)20,000円くらいは掛かるらしい。多分1時間で。「客」になる敷居が高い……。
しかし1回目からその値段が掛かるわけではなく、多くのホストクラブには「初回」という制度がある。1000-5000円/60-90分程度のお試し制度で、その店のキャスト達が変わりばんこに着いてくれる。今回私が行ったのはこの「初回」を2軒で、通常なら1店舗で指名出来るのは1人だったりハチャメチャなお金が掛かったりする「ホンモノのホストクラブ遊び」とこの初回はかなりの別物だ。初回とは、早い話がディアゴスティーニ創刊号なのである。つまり今日の記事はあくまで「ディアゴスティーニ創刊号の感想」であって「ディアゴスティーニの感想」ではない。なんなら結論から言うと、「ディアゴスティーニ創刊号買ってみたけどこれ買い続けるの無理だなって悟った」という話である。


■明るい異世界
前述の通りビビりなので下調べをしたところ、ホストクラブへの入店には写真付きの身分証明書が必要だと全てのサイトに書いてあったのでパスポートを持っていった。私は車の免許を持っていないので写真付きの公的な身分証明書はパスポートしかない。ホスト行きたさにわざわざパスポート引っ張り出すってなんか浅ましいなと思いつつ、衝動的に仕事帰りにホストに行ったり出来ないのはいいことだなと今は思う。
入店時に結構ちゃんとまじまじ確認される。居酒屋より全然しっかりしてるのは、居酒屋より全然お金掛かるからなんだろうか。まあお店によってはお酒飲まないっていう条件で未成年も入れるらしいけど。(って言いつつ飲めたりしちゃう店もあるらしいけど真偽は知らない)

1番びっくりしたのは、お客さんが若くて可愛いことだった。今まで行ったキャバクラは大体お客さんはおじさんばっかで、失礼なことを言えばまあそりゃあキャバ嬢くらいの年齢でキャバ嬢くらいの顔面偏差値の子とは関わりねえだろうな、って感じの人が多かったので正直びっくりした。顔だけ見たらどっちが従業員でもおかしくないくらい。まあでも奥の方にも部屋があるっぽかったので、ちょっと年上で他よりお金あるお客さんは奥の方に籠るものなのかもしれない。

あと思ってたより明るくて清潔感あった。決して不潔だと思ってたわけではないはずなんだけど、なんかほんと思ったより明るかった。特に2軒目。まあでもこれも店によるんだろうな多分。

しかしまあ腐ってもホストクラブ。ジャニオタとしても25歳OLとしても異文化感は随所にあった。
一つ目、「ぐい」とかいう謎の単語。「ぐいしようぐい!」という謎の煽り。多分早い話がイッキしよーぜ♪とかそういう話なんだろうけど初めて聞いたし、ホスト側は「え、マジで分かんねえの?」みたいな顔をしていたので、マジ卍とか〜ンゴを初めて聞いた時みたいな気分になった。ホスト用語なのか若者用語なのか分かんないけど。これで大学生的には普通の俗語だったらちょっと凹むね。
二つ目。ホスト、めっちゃ若い。いやマジで。大体年下。未成年もふつうにいる。(お酒飲まずに営業してるらしい)(ハードル高くね?)
三つ目、シンプルにホストがまあまあかっこいい。と言うとなんか失礼だが、年齢的にも居住地的にも新宿で買い物したり飲んだりすることがままある身として、それなりの人数のホストっぽい人とすれ違ってきた。その中でかっこいいと思う人は正直ほぼいなかったし、歌舞伎町に乱立する看板を見ても超かっこいいと思う人はほとんどいなかった。だから、店で会ってみたら意外とかっこいい人が多くてびっくりした。今までホストだと思ってた通行人が実はホストじゃなかったのか、それとも店の中だと魔法が掛かるのかどっちなんでしょうね。後者な気がする。
四つ目、大体全員写真より実物の方がかっこいい。いやマジで。


■違う感性
初回で行くと、キャスト紹介の本みたいなものが見せてもらえてその中から好きな人を何人か(私が行ったとこは2軒とも2人だった)選べる。で、空き状況によるけどその人が1回は席に来てくれる。
このブロマイド集みたいなのを見てびっくりしたのだが、わりと真面目にほぼ全員写真より実物の方がかっこよかった。写真の方がかっこいいと思ったのは通算十数人のうち1人だけで、その1人は写真撮影の後にがっつり整形をしたらしく自ら「だから俺写真と顔違うんだ〜」と言っていた。私はジャニオタなので加工された写真は見慣れているはずだし、今まで何回も何十回も何百回も見てきた加工済のジャニーズの写真に対して「実物に劣る」と思ったことはない。じゃあなんでホストだと加工済の写真がかっこよく見えないんだろうかと言うと、単純に感性が違うんだろうなと思う。
目を広げるとか鼻筋を通すとか顎を小さくするとかその他なんでも、ホストの宣材写真での修正はあくまでホスト的なかっこよさを増大するもので、そしてその基準は必ずしもジャニオタとも一般人とも合致しない。
これが1番「うわー違う!」と思ったかもしれない。だって来る人来る人写真より魅力的なんだもん。意味わかんないじゃないですかジャニオタ的に。ポポロ見てテレビ見たらテレビの方が顔の造作が美しいわけですよ。実物の方が魅力的だと思ったことは死ぬほどあれど、実物の方が整ってると思うことまあない。少なくとも私はない。整形前の方がかっこいいとかもはや意味がわからない。なんかほんと違う世界で違う感性で違う評価軸なんだなあって思った。

以下、記憶に残ってる会話。
・俺赤西仁好き
お前も?お前も?お前もなの?って感じだった。何人おんねん赤西ファン。ホスト達赤西仁好きすぎ。

・俺風磨担
あーー赤西仁好きだったなら分かるわ。そこいくよね〜。

・セクシーゾーンチャンネル全部見た!
いいやつだな!このとき言い間違えて「セクシーチャンネル」って言ったら「それはラブホで見れるやつね!」って怒られた。セクシーガールの皆様が10000回くらいやったであろうくだりをこすってしまった。

・俺チ〇コでかいよ
知らんがな

・スタイルいいね!
ありがとう

・それカラコン?まさか裸眼?
逆にここまで小さいサイズのカラコンどこで売ってんだよ。(※私は一重かつ目が小さい)

・このまま俺のこと指名して飲み直ししよ!2万だから!2万しかかかんないから!
いやたけえわ無理だわごめん
(※飲み直し:初回来店後そのまま誰かを指名して正規料金で飲むこと)


■ホストクラブという場所
こうして90分×2回の初回体験を終え、私の手元には数人のホストのLINEが残った。タイムリーについ先日「ホストクラブの初回は席についたホスト全員とLINE交換できる店と、送り(退店時のお見送り係)に選んだキャストとだけLINE交換できる店がある」というツイートを見かけたのだが、私が行った店は2軒ともキャスト全員とLINE交換ができる店だった。でも全員とはしなかった。多分5-6人くらいかな?
私は決して裕福ではないし、むしろどちらかと言うと貧しい部類に入ると思う。お金の余裕は決してない。だから、ホストに継続的に通う気はないし通いたくてもまあ無理だ。趣味とか飲みとか徹底的に削れば月に1度くらいは行けるかもしれないけど、そこまでして行きたいとは思えなかった。
だから退店後に律儀に来るLINEを返すのもなんだか申し訳なかったし、わりと誠実なつもりでLINEをくれたキャスト全員に「今日はありがとう、お店行きたくなったら連絡するね!」と返した。正解は返さないor「初回以外でお店行く気はないよ😉」だったのかもしれない。(一緒に行ったフォロワーさんは全員ブロックしたって言ってた。優しい) だから営業しなくていいよ!というつもりだったのだけど、向こうも仕事なので営業する。当たり前にする。まあ私が同じ立場ならそりゃ営業するわ。
「行きたくなったら連絡するね!」と言ったら「分かった。でも俺がしたいから連絡は毎日とらせて!♥」と返ってきて死にたくなった。「ストイックですねえ」と別の人に言ったら「ふつうにタイプだから連絡してるだけだよ」と言われてなんかほんとに死にたくなった。申し訳なさと自己肯定感へのダメージと虚しさと悲しさとあとなんかよく分かんない色々。恐怖にも似た何か。でもこわいって言うかかわいそう(私がね)に近くて、けどかわいそうって思うの失礼なんだろうなって思うとなんかもう言葉に出来なかった。
でも同時に、ああーこれは若い女の子もお客さんになるわけだわと納得もした。私が今まで行ったキャバクラで見た光景はキャストに絡みつきあしらわれるおっさん、というのが圧倒的に多かった。私の上司はキャバ通いが趣味なのだが、彼の話を聞いていても完全に手玉に取られながら求愛する権利を金で買っている感じだった。ホストはなんか違う。
おじさん達にとってキャバクラは「許される場所」だった。普段関わりを持てないような若くて可愛い女の子の隣に座らせてもらえる場所。可愛い女の子の肩を抱いても笑って叱ってくれる場所。会いたいなあって行ったら私も会いたいからお店来てって言ってもらえる場所。会社の若い女の子にしたらセクハラになるような言動を、許してもらえる場所。
ホストは違う。あそこは私たちが「求めてもらえる場所」だ。可愛いね、会いたいよ、触っていい?嬉しそうに肩を抱いてきて、あっけらかんと「終わった後も一緒にいよ!」と言われる。なんかすげえ死にてえなコレと思った。

 

■違う言葉、違う心
ホストにはその1日しか行っていないが、1人だけお店の外でも会ってみた。お店に行った日のド早朝、翌日昼間、翌日夜、翌々日、翌々々日と「ランチ行こう」「お店の外で会おー」「今日お店休みー」「今日有給ー」と言われ続けて好奇心に負けた。っていうか何?半分ニートなの?暇すぎじゃね?と思って仕事終わりに会いに行った。カラオケで飲んだ後図々しく家まで行った。無事に帰ってこれてよかったー。(まじでよく何もなかったな)(なんで家行ったんだろバカなのかな)
で、家行ったら犬がいた。トイプードル。「ミルク(仮名)って言うんだ〜」とニコニコしながら言われた。家に1歩入ったら、高そうなソファにペットシーツがバーっと複数枚引かれていて、数箇所ミルクがトイレしたっぽい跡があった。部屋の中にボールが転がってて、それを見せると興味は示すのに投げると取ってこれなかった。なんかすごく悲しかったし知りたくなかったなあと思った。多分あの可愛いトイプードルはちゃんと躾をされていないのだろうと思う。とはいえ彼が1人で世話をできているとはとても思えなかったので、定期的にどこかの店に預けるか、あるいは一緒に住んでいるか半同棲に等しい女の人がいるのだろう。だからまあ、きっとこれからもミルクちゃんは生きていくのだろうし極端に早死にしたりもしないのだろう。しないといいな。

本当にシンプルに、あーーー人種違う。と思った。この人と私は「正しい」が違う。「正義」が違う。「良い」が違う。人と人として出会ったら、1500%話が合わないし絶っっっ対に仲良くなれない。でも一生懸命生きてんだろうなあ、ホストとして。

「ホストって主に何飲むんですか?テキーラ?やっぱりシャンパン?」って聞いたら「んー、シャンパンは流すもんだから」ってさらっと答えられた。安くて5万とか、ものによっては数十万以上するのに、それを飲まずに流すらしい。意味わかんねえ。なんで飲まないんだろ冷静に。
「ちょっと電話していい?」って言われたからお客さんの女の子と電話するのかと思ったら目の前でスカウトと電話された。ツケ(掛けって言うらしいけど)(モリカケ問題かよ)を飛ばれた女の子の担当スカウトらしかった。え、それ何なの?って正直思った。ホストは女の子にお金払ってもらう職業でスカウトは女の子にお金稼いでもらうお仕事で、そことそこが繋がってるってそれ何?それはもうスカウトとホストの協業じゃないですか?え?こわくない???こっっっっわ!!!


■愛の値段
俺ねえ先月1000万売ったんだ、と言われてすごいですねと返したら、まあ総計でだけどねと言われた。タックスが40%掛かるので、小計だと600万かそこららしい。え?そのタックスって何税?外国か?ホストクラブは外国なのか??
そのうちいくらがホンモノの税金なのか知らないけど、まあでも40%の大半は店の利益なのではないかと思う。ついでにそもそも小計の時点で多分原価の数倍〜十数倍のお値段がついている。でもお客さんはみんな払うのだ。
隣に座るだけで2万を、飲まれもしないシャンパンに数十万を、愛という定価のない何かにありったけのお金を。
自分も払いたいとは思わない。お金を払ってまでまた会いたいと思った人はいなかった。でも、人がどうこうの前にこの仕組みそのものにハマったら抜け出せない魔力があるんだろうなあとも思った。


私はジャニオタなので、お金を対価に愛を押し付けることに慣れている。お金を払って「受容」を買って安心することに慣れている。
お金を媒介にして交わす愛はある種安らかだ。アイドルはファンが好きでファンはアイドルが好きで、一定レベルの品行方正さを保つ限りアイドルに嫌われることはない。愛をぶつけてもよい、という許しはただそれだけでお金を払うに値する。そう、私は知っている。お金を払う安心を、「好きな気持ちの分だけお金を払う」という思考回路の存在を、好きは換金できるということを。 愛を換金することについて、正直めちゃめちゃ身に覚えがある。

ただ、ジャニーズとホストはそれなりに違う。
ジャニーズの場合は少なくとも何らかの商品がある。CDとかDVDとかコンサートとか雑誌とか、とにかく何かに対して値段分の価値を感じたらそれを買う。好きが高じると複数買いしたりする。
ホストはまずついてる値段がバカだ。そして商品そのものに設定価格分の価値があることはあまりないっぽい。缶チューハイ1缶に2000円とか、そういう1歩建物の外に出たら1/10以下の値段で買えるものをわざわざ買う。それそのものじゃなくて、隣に座ってる好きな人のために。好きな人が喜んでくれる、優しくしてくれる、自分に依存してくれる、長いこと傍にいてくれる。そういう愛情表現をお金で買える。
愛に値段はつけられない。たとえば自分の最愛の伴侶が重病に罹って、1000万払えば治癒する見込みがあるよ、何年も掛けて分割払いでいいよって言われたら、死に物狂いで1000万かきあつめて治療を受けさせる人は少なくないだろう。人間の心は、愛にお金を払えても値段をつけるようにはできてない。人間の心は、愛に対して天井知らずの価値を見出す。

「好き」にお金を払う、「好き」の分だけお金を払うことに嫌悪感はない。そういう意味ではホストとアイドルは通ずるものがあると思う。というかなんか用語も似てるしそもそも界隈もある程度は被ってるんだと思う。
でも私はきっとホストにはハマれない。多分通ったら心が死んでしまう。死にたくなる理由を探したら、笑っちゃうくらい簡単でかわいそうだった。


■スキップと嘘と緩衝とホント
私は随分お花畑なのだなあと突然思い知らされた。お金という媒介、緩衝材が存在する愛は一種の安らかさを備えている。互いの気持ちの差、立場の差、需要の差、そういうギャップをお金で埋められるから。「ファンという生き物」として「アイドルという生き物」を愛して、「ファンという生き物」として「アイドルという生き物」に愛される。安全装置付きの、絶対致命傷を負わない愛。どんな風に愛しても、同じ気持ちと熱量で思い合えなくても問題のない愛。お金を払うことで愛される権利を買っているし、お金を払うことで愛する権利を買っている。
それなのに、私はずっと自担に貰う言葉も態度も「お金欲しさの嘘」だとは思ったことがなかった。私の自担、私のこと好きだと思う。彼は私を知らないけど、一目見たことさえないし名前も知らないし一生会わないけど、でも彼は「ファンという生き物」である私を「アイドルという生き物」なりにちゃんと愛してくれていると思う。思ってしまう。お金を払って愛される身分を買っている身の癖に、受け取る愛っぽいもののきらめきをバカみたいに信じてる。彼らがくれる「かわいい」も「会いたい」も「俺らがいるよ」も嘘みたいにキラキラしてて、でも嘘じゃないんだと本気で思う。


ホストたちが言う「会いたい」は「お店に来てほしい」だ。「可愛いね」も「好みだよ」も全然ほんとじゃない。なんだかそれは、思ったよりずっと受け容れ難かった。ちゃんと誰か1人に決めて通ってお金をたくさん遣ったら、もっとずっとほんとっぽい愛情表現をもらえるのだとは思う。その時私はアイドルに対して思うのと同じように「気持ちの差、温度の差をお金で埋めてるけど、そうやって愛されるのも幸せではある」と心から思えるのかもしれない。


でも、今の私にとっては嬉しさより死にたさの方がずっとずっと大きかった。ああ私いま可哀想だ、と思ってしまった。愛する権利をお金で買うことに慣れている。お金という媒介が存在する愛の安らかさを知っている。でも私は、絶対に嘘だと分かる愛情表現をお金で買うことを望んではいないのだと分かった。
自担の隣に座って酒を飲める時間を売られたらその60分に3万払えると思う。払いたいと思うと思う。でも、自担に愛の言葉を言わせる権利が売りに出されても欲しくない。目を見て「かわいいね」「好きだよ」って嘘を言われるのは、きっと死ぬほど虚しい。
好きだったら、ほんとに好きで好きでそれ以外に繋がりがなかったら、ホストと客として出会ってしまったらそれしかないから、それでもいいから傍にいたいと思うのかもしれない。好きな人に直接課金できる、好きの分だけ際限なく課金できてしかもそれが目に見えて相手の給料になるという仕組みがもたらすアドレナリンって凄まじいと思う。
でも要らないな、要らないや。それでもいいくらい好きな人をあそこに探しに行くのは怖いなあ。


ディアゴスティーニを買う日
ホストたちがみんな真面目に顧客獲得の営業に勤しんでいたおかげでものすごいぐるぐると自分がお金を払ってでも買いたいもの、買えないもの、普段買ってるつもりのものについて考えさせられた。ただ、それはそれとしてまあホスト楽しいなあとは思った。まあ楽しいなで通える値段設定ではないことを除けば別に普通に楽しかった。こっちを狙ってる合コンの男みたいなノリじゃないキャストにしか当たらなかったら多分もっと楽しい。ガチのアイドル売りホストとかに当たってたら今ごろ会いたくて会いたくて震えてた可能性もある。
いつかそのうちめちゃくちゃお金持ちになって、2万?楽しいなら余裕余裕!みたいな気持ちになったら、たまの楽しみならホストもいいねって思うのかもしれない。そんだけお金あったら自分もホストにギブできる立場だからそこまで死にたみ募らない気もする。まあ、そんないつかが来る気はあんまりしないけど。

 

結局ホスト行ったっていうよりはホストという世界の玄関だけ見て帰ってきた感じだったけど、ジャニオタとしての自分と向き合ういい機会にはなった気がする。次はストリップに行きたいです。

親は人間だ/プロトタイプAとB

こと親子関係において、私はずっと逆らうだけが能みたいな生き方をしてきた。


2018年7月20日放送の『NEWSな2人』を見て自分の思春期を思い返した。「学校は堅苦しいから行かない」「学びたいってなったらそこから学び始めればいい」というこまっしゃくれた女の子の言葉。早口で少しカンに障る喋り方の、でも大人として100%正しく揺るぎない反論をできる人はきっと少ない言葉。人生にはきっと正しい選択肢なんてものはなくて、ただ後から振り返った時に「正しかった」と言えるかどうかによってのみ正しさを語れるのだとなんとなく思う。これはインターネットで見かけた言葉の受け売りだけど、本当に心からそう思う。あの女の子がいつか、学校に通わなかったことを正しかったと思えたらいいなあ。

私自身は学校にきちんと通ってそれなりにいい大学を出て一応まともに働いているけれど、親には逆らってばかりいた記憶が強い。そうすることしかできなかった。「しなかった」と「できなかった」の差はひどく曖昧で、それでも20代も後半に差し掛かった今でもあれは「できなかった」だと思っている。人生の小さな分岐点ではとりあえず親に逆らって生きてきた。だってそうすることしかできなかったから。


■人生2周目
とはいえ数え上げてみると大した数ではない。高校入学時、運動部に入らなかったこと。文理選択時、理系を選ばなかったこと。大学選択時、言われた通りの大学を目指さなかったこと。大学入学時、実家暮らしを続けなかったこと。それくらい。
人生の折々に訪れる小さな分岐点で私はいつも、親が指示したり勧めたりしたのと異なる道を選んできた。まあ有り体に言えば親が敷こうとしてるレールの上を歩きたくないとかそういう話で、こうやって文字にしてみると陳腐すぎてちょっと笑える。でも当事者にしてみれば大問題だった。
姉が始めたからという理由で2歳からスイミングスクールに通い、姉も入っているからという理由で小1からミニバスを始め、姉も通っているからという理由で小5で水泳を辞めて塾に通った。水泳を辞めさせられた頃から、母との仲はどんどん悪くなった。
初めは「親が思うてっぺん」「親が思ういい人生」を押し付けられるのがイヤだ、っていう気持ちだった気がする。すごく普通の正常な反抗期の訪れだ。でもいつからか、親(特に母)が私に示してくる道は、どうやら親自身が本当は選びたかった道のようだとおぼろげに察するようになった。

お母さんは運動部に入らなかったことを後悔してるし、お母さんは文系を選んだことを後悔しているし、お母さんは大学受験を本気でやらなかったことを後悔している。でもじゃあどうして私が運動部に入りなさいって言われて理系選びなさいって言われてあの大学めざしなさいって言われるんだろう。どうして私がお母さんの選べなかった人生を選ばなきゃいけないんだろう。お母さんにとって娘って人生2周目じゃん。できなかったことやらせたいだけじゃん、娘を通して失敗をやり直したいだけじゃん。

私はお母さんの2周目の人生じゃない。私だ。

そればかり思った。だから力いっぱい逆らって全部跳ね除けた。私は私、お母さんの続きじゃない。お母さんの失敗をやり直すための人生じゃない。

 

■選択と主体性
お母さんの2周目になんかなりたくなくて、私は私でありたくて、それだけだった。本当にそれだけ。

だから10歳から18歳頃まで、所謂思春期の私の人生の種々の選択は、ただ「親の言うことと反対の方」でしかなかった。でも、それって選択だったんだろうか。親の言うことを聞かずに自分で行く道を決めた、と言っても多分嘘にはならない。何部に入って何系になって何大学と何学部をめざすか、全部自分で決めた。母が言うのと違う方を自分で選んだ。
選ぶってなんなんだろう。全てに従うのと全てに逆らうのとでは、実は本質的に大した違いはないと思う。どちらも結局のところ、誰かに提示された方針が意志決定の拠り所ということだから。従うのも逆らうのもどちらも「他人の指示」あってのもので、その他人に従いたいか逆らいたいかで物事を選ぶのは主体的な選択とは言えないと今は思う。

そう、私の種々の選択は、きっと本当は選択などではなかった。私はただ逆らっただけ、逆らうしか能がなかっただけ。
めざすように言われたから、というだけの理由で志望校から消し去った大学は、私が選んだ大学より偏差値が高かった。きちんと大学について調べたわけでもなく、ただ「めざせと言われた」という理由だけで絶対受験しないと決心した。バカだと思う。人にそうしろと言われた、それに従いたくない、というだけの理由で志望校のランクを一つ下げたという事実は一生消えない。高校時代はよく分からない文化部で過ごした。クーラーの効いた部室でゲームしたりマンガ読んだりするのは楽しかったけど、スポーツもののマンガを読むと今でも死にたくなる。高校時代、勉強以上に打ち込んだものが一つもなかった自分がむなしくて堪らなくなるから。

全部選んだ。私が自分で、逆らうというその1点だけを判断基準に選択した。私は自分のこれまでの人生に概ね満足していて、自分が今の自分に育ったことを嫌だとは思わない。自分のことが結構好きだ。自分が歩んできた道を、まあ正しかったと言ってあげてもいいかなと現時点では思っている。けれど同時に断言できる。あの頃の私はただ他人に逆らっていただけで、あれを十全な意志決定と呼ぶことはできない。


■プロトタイプAとB、それから
大学入学と同時に家を出て、同時に妹が高校生になった。下宿を始めてしばらくした頃、「お母さんが〇〇部に入れってうるさくてウザい」という内容の相談を妹から受けた。正直呆れた。10年近く続いた私の反抗期を受けて、それでも娘に「自分の思ういい人生」を単純に押し付けようとする、娘の人生に介入しようとする母は応用力がなさすぎると思った。
介入しようとするから、押し付けようとするから選択肢の内容そのものだけじゃなくて母が何を言うかが意志決定の大きな要因になってしまったのに、何故妹に同じことをしてしまうんだろう。
母は姉にも同じことをして、姉は全部言うことを聞いて、そして潰れた。私が大学受験をしていた頃の姉はちょうどぶっ潰れていた頃で、芋虫みたいに部屋に横たわることしかできない姉を見て絶対こうはなりたくないと歯を食いしばって勉強した。全部従って潰れた姉。全部逆らってそれだけで人生の選択を決めてしまった私。妹にはそうなってほしくなかった。従うだけでも逆らうだけでもない、親が何を言うかじゃなくて、自分がどうしたいかで歩む道を決めてほしかった。

「人生どんな道を選んでもどうせ後悔はあるから。でもそんなの3年も経てばきらきらの思い出に変わるよ。だから自分で考えて、お母さんが入れって言うか言わないかじゃなくて、自分がどうしたいかで決めなね」
確かこんな感じのことを言ったと思う。自分がこれと真逆のことをした癖に、自分が本当はどうしたいかなんて15やそこらできちんと考えられる人なんてそういないと知っているのに。
そうなってみて初めて気づいた。人間は、自分の後を来る人に自分と同じ失敗をしてほしいとは思わない生き物だ。当たり前のことだけれど実感した。従うだけでも逆らうだけでもちゃんとした自己決定にはならないと思って、だからちゃんとしてほしかった。ちゃんと出来る助けになってあげたかった。私と同じ失敗を、妹にはさせたくなかった。
自分と同じ失敗を後続にさせたくないというのは、極めて自然で、人間的で、当たり前の気持ちなのだろう。


■親という生き物はいない
自分と同じ失敗を後を来る人間にはさせたくない、という気持ちが自然なものであると分かってから、親への嫌悪感は和らいだ。たくさん辛くて、しんどくて、結局今も親になりたい気持ちはまったくないけれど、でも私の親が私にしようとしたこと、してくれようとしたことは、極めて人間的な行いだったと今では思う。
正しくはなかった。多分やり直せたら、母はまったく違う言動をするだろう。「すべてをやり直したいと今になって思う」と現に言われたこともある。それでも、親は親という生き物ではないのだと思えるようになって、随分楽になった。
親は親という生き物ではない。ただ子どもより長く生きているだけの人間だ。子どもは子どもという生き物ではない。ただ親より後に生まれて親より後に生きる人間だ。後を来るものに自分と同じ失敗をさせたくないと思うこと、選んでしまった失敗だと思う道を選ばせたくないと思うこと、それはとても自然で当たり前で仕方なくて普通のことだ。それが人生の後輩の選択に影響してしまっても、こちらの意志が意志決定において選択の主要因になってしまうとしても、それでも失敗を避けてほしいと思ってしまう。人間だから。親だからでも子だからでもない。人間だからだ。


■甘え
子どもという圧倒的に経験が少なく自分の影響を弾き難い存在に対して「自分で決めてほしい」と思うことはむしろ甘えではないかと私は思う。
だって子どもなんだから、周りの大人がどう思うか知らずにはいられないし、大人がどう思うかを全く無視して「自分の意志」だけに従うことはひどく難しい。従うにせよ逆らうにせよそうだ。従いたい、従いたくない、どちらを思わせてしまっても結局意志決定への少なからぬ介入で、でもそれは仕方ない。そう、仕方ないのだ。どうやったって子どもは大人の好嫌を一定程度察するし、察してしまったらそれは選択に反映される。「自分の意志で決めろ」「自分で考えろ」なんて言うのは大人の甘えだ。だって大人は紛れもなく、子どもの思考材料の大きな大きな1ピースだ。
あの子は学校に行くかもしれないし行かないかもしれない。後悔するかもしれないししないかもしれない。どっちになるかは今はまだ全く分からないだろう。でも、どっちに転んでも、「あなたの自己責任だよ」とはあの大人たちに言わないでほしいなあと思った。
大人だって迷うし、大人だって間違えるし、大人だって不安だ。でも、自分の接し方が、考えが、生き方が多大に影響せざるを得ない子どもに対して「自分で決めろ」「自分で決めたんだろ」と言うのは無責任が過ぎると思う。私は逆らうことしかできなかった。しなかったのかもしれない。今はまだ断言できない。だから人生の後輩に、逆らうだけでも従うだけでもなく自分の選択を志してほしいと真剣に思う。でもそれは無理だとも同時に思う。だって大人なんだから、守り育てる立場なんだから仕方ない。
押し付けたくない、絶対従わせたいわけじゃない、でも自分と同じ失敗はしてほしくない。それはとても自然な気持ちで、人間的で、そして他者の人生への大幅な介入だ。それを忘れたくない。


全部に従ったプロトタイプAの姉。全部に逆らったプロトタイプBの私。誰に助言を求められても、いや求められなくても、プロトタイプにはならないでほしいなと思ってしまう。製品版になってほしい。従うだけでも逆らうだけでもない人間になってほしい。でもそう思えば思うだけ、あの頃ぎゃんぎゃんに押し付けてきた親の気持ちが分かってしまうんだから皮肉なものだ。
あの子のことを今日も思う。こまっしゃくれたカンに障る、学校に行っていない女の子。自分で決めたと胸を張って言えるのか分からない、親の影響がないはずないと思ってしまう。それでもどうか、いつか「正しかった」と思えますようにと、全然知らないしムカつく子だけど思う。プロトタイプBだった私だから、製品版になれるといいねって心から思う。何故なら彼女は、私より後を来る人生の後輩なので。

私から彼を奪う人


NEWSの6人時代の曲の中でも特に思い入れがある楽曲の1つに『share』がある。6人時代のNEWSが、6人で作詞作曲した歌。NEWSだから、この6人だから作れる歌だと思った。嵐じゃなくて関ジャニ∞じゃなくてKAT-TUNじゃなくてNEWSだから作れる、NEWSだけの歌だと本気で思った。

すれ違いゆく風の中で僕らはなぜ出会えたんだろう
同じ星が今見えるなら 僕らはただそれだけでいい

 

無理に一つにならずに 分かりあえない日はそのままでいい
一人一人が持つ色だから鮮やかなマーブル描けばいい

P亮シゲの3人が好きだった。ビビって敬語のシゲと、そんなシゲを可愛がるP様と亮ちゃん。少しずつ距離が縮まっていくのをリアルタイムで見れたのは僥倖だったと今でも思う。大野くんと松潤とか、横山くんと大倉くんとは全然違うけど、でもNEWSのメンバーにはNEWSのメンバーの関係性があって、私はそれが好きだった。

好きだった。本当に。敬語でも、混ざりあえなくても、1つじゃなくてもほかのグループと絆のあり方が違っても、私にとってそれはNEWSの個性だし他との大切な差異だった。それは私にとって紛れもなく、NEWSの好きな部分の1つだった。


今もあの頃の歌が好きだし、今でも6人のNEWSが好きだ。でも、あの頃みたいには好きじゃない。それでいいしそれがいいって言えたのは、たとえ他と違ってもそれがNEWSの形だと思えたからだった。上手くいってないんでも関係が築けてないんでもなくて、それがNEWSなりのあり方だと思えたからそこを好きでいられた。今でも好きだし見て懐かしむこともあるし全てが嘘だとは今も思っていないけれど、でもあの頃と同じ気持ちで愛することはもう出来ない。だって結局壊れてしまった。私が好きだったものが本当にNEWSなりの形だったのか、それともただの破綻の予兆だったのか、今ではもう分からない。

好きだったはずの時間を否定された気になるのはとてもしんどい。見ていたもの、愛していたものが本当はあの時はもうとっくに駄目になっていたんじゃないか、自分が愛したものなんか本当は最初から存在しなかったんじゃないかって、そう思ってしまうのはとてもむなしい。もしかしたら、「もう見れない」という形で未来を奪われるより、「好きだと思っていたものは幻に過ぎなかった」のだと思わされて過去を奪われる方が辛いことさえあるかもしれない。
6人のNEWSのことを私にそう思わせたのは、他でもない6人のNEWSだ。私からNEWSを奪ったのはNEWS自身だった。

NEWSの皆の人生を何より狂わせたもの。ファンが何より怯えたもの。最年少となった手越さんが成人した時、同い年の加藤さんと2人でお祝いしたことに勝手に特別な意味を見出していた。
未成年飲酒って言葉、大嫌いだ。どうしてこんなことで未来を失わければならないんだろうって、だって大したことじゃないのに。どうせお酒なんかみんな飲むのに勝手に飲むのに飲ませるのに、芸能人にとってだけあまりに代償が大きくて大嫌いだ。
でも、それが禁止されていることにはきちんと意味があって、それは紛れもなくこの社会のルールで、そして何よりそれがもたらすものを誰より分かっているのがNEWSだと思っていた。私たちが怖がるのと同じように怖がってくれると、避けてくれると、勝手に信じていた。あのとき形振り構わずしがみついたんじゃん。自分の居場所として残したんじゃん。ステージに立つ資格と引き換えにできるほどの楽しみなんてあったのかよ。なあ、ないって言えよ。言ってよ。


少し話は変わるけれど、アイドルの恋愛を悲しいとか嫌とか思う気持ちの構成要素には、私の場合間違いなく「アイドルとしての自分より恋愛を取られた気がして悲しい」がある。自分の立場を危うくするほどの価値をそれに見出されたことが、と言うよりもっと正確には、アイドルであることにそれと天秤に掛けられる程度の思いしか持ってくれていなかったことが悲しい。
そんなに簡単な話じゃない。それだけが全てなわけじゃない。だから今まではそこまで気にならなかった。誰の何も全部、正直別にどうでもよかった。アイドルは私を看取ってくれないし、私はアイドルを看取れない。アイドルの人生はアイドルのもので、私の人生は私のものだ。嫌な気持ちが全くないと言ったら嘘になるけど、恋愛しないでほしいと言うのはもっと嘘だった。人間としての人生をちゃんと生きて、ちゃんと幸せに死んでほしいから。


今回も私は怒ってはいないのだと思う。怒るとかそういう話じゃない。
ただ「ああそうなんだ」と思う。感覚として分かる。複数人でお酒を飲むこと、盛り上がることは別にそう悪いもんでもない。ジャニオタの私は傷ついてるけど、一般人の私はどうしてもそれを忌むべき圧倒的な絶対悪だとは感じられない。絶対悪じゃない、みんなやってる。私も好きだ。でも、でもNEWSのメンバーにだけはやってほしくなかった。もう2度とお酒で失敗なんてしてほしくなかった。だってしょうがないじゃないか。1度や2度なら許されるかもしれない。牽制球を投げられてもギリギリセーフかもしれない。でもそうじゃないじゃん。そうじゃないグループだって分かってるでしょ。当人達が誰よりも1番身に染みて、分かってるでしょ。違ったのかよ。
違ったね、そっか。喉元過ぎたら熱さ忘れちゃうんだね。こっちはまだまだ火傷痕残ってるけど違うんだね。そっかぁ。

 

してしまったことが消えないのと同じように、してくれたことも消えない。見せてくれたたくさんの素敵なもの、素敵な言葉、大好きな気持ち、全部消えない。私は今日もNEWSが好きだ。
好きだよほんとに。でも私多分、今回のこと許さないと思う。許せないと思う。6人のNEWSを6人のNEWS自身に奪われたのを今でも許せないのと同じように、多分いつまでも今回のこと許せない。好きでいる限り永遠に。ねえ私まだ信じてるよ。あなたたちのアイドルでいることへの執着を、決意を、みっともなさを。でもいつか思うのかもしれないね。NEWSなりの良さとかNEWSなりの絆とか、そんな風に良いように良いように捉えてたの間違いだったなあって。信じたものなんて最初から存在しなかったんだなあって、いつか思わされるのかもしれないね。怒ってないのに許せないの変だね。なんなんだろうねこれ。

結局のところ、私の好きな人を私から奪えるのは私の好きな人自身なのだ。よくよく知っていた。それこそ身に染みて知っているはずだった。そして私の好きな人たちは、残念ながらあと1枚イエローカードが出たら退場させられかねないような、あと1球危険球を投げたら退場させられかねないような、そういう人たちだ。

 

986日々 だから今があって やっと叶えたこの 4合わせ

  

冷めていた あの頃の声 ごめんね もう二度と泣かさない

 

私からあなたを奪うのはあなただ。あなたに奪われるなら仕方ない。諦める以外何もできない。本当はいつまでもずっと、あの頃『share』を聴いていたのと同じような気持ちで『愛言葉』を聴いていたかった。ねえ、まだ好きだよ。きっと明日も明後日も好き。でもね、いつかなくしちゃうのかなあって、いつかまた奪われるのかなあって、多分しばらく忘れらんないや。

 忘れらんねえよ。忘れられるわけねえだろ。でも君たちは忘れられるのかもしれないね。それでもきっと好きだけど。ねえ嬉しい?私あなたたちのこと大好きだよ。

垢抜けたら人生おいしくなくなった話

こんにちは、凡庸な不美人です。
東京に出てきてから6年、随分垢抜けたもんだと思う。自分で言うことでもないけれど、私は年々綺麗になってゆく。髪を綺麗にして、眉を整えて、頬を淡く染めて…そうやって、鏡の中の私の憎むべき要素を一つ一つ消していくのは結構たのしい。何もかも根本的に駄目だと思っていたのは実は勘違いで、それなりに磨いてみれば私は路傍のビー玉程度には輝いていた。

綺麗になったと自分で思う。痩せて、垢抜けて、お金の自由が増えて。小学生の頃より、中学生の頃より、高校生の頃より、大学生の頃より、今の私が1番かわいい。1番かわいくて、1番つまらない。

そう、つまらない。つまらなくておいしくなくて時々発狂しそうになる。綺麗になって可愛くなって女の子になって、そして私は人間ではなくなってゆくような、そんな気がしている。


ブスの人生
以前飲み会の席で会社の同期に中学の頃の写真を見せたら、「女の子って変わるんやなあ…」と絶句された。その頃の写真をみると今でもちょっと笑ってしまう。オタク少年、以外の感想が特に浮かばない、床屋で切ったみたいな髪にダサい眼鏡で頬杖をつくジャージの少年。制服を着るのは登下校時だけで、あとの殆どの時間をズボンを穿いて過ごした。冗談めかして「お前の恋愛対象って女?」って聞かれてもなんの疑問も持たなかった。そりゃそうだ、そうだよね、そう見えるでしょ。別にいいよ。
先生に笑って体重を訊かれたら笑って答えた。本当に別に嫌じゃなくて、ただそういうもんだから答えた。高校生になっても別に何も変わらなくて、結局高校3年生まで一人称が「俺」だった。男になりたいのかと訊かれたらよく分からなかったけど、自分が「おんなのこ」だというのもしっくり来なかった。大学に入って東京に出てもそれは変わらなくて、女の子になれない何かみたいな、そういう気がしていた。
大学1年の終わりに、ピアスホールを開けて髪を染めた。それだけで何故か髪はさらさらになって、目は大きくなって、私は男の子に見えなくなった。成人式に向けて髪を伸ばしている間、何度も「女の子らしくなったねえ」と言われた。「俺は、湯坂ちゃんは垢抜けたらちゃんとかわいいって最初から思ってたよ」とも何人かに言われた。どんどん女の子になっていったけど、なんとなくそれは伸ばした髪の魔法のような気がしていて、二十歳の冬にショートカットに戻す時の怖さを今も覚えている。髪を切ったら魔法がとけて元に戻ってしまう気がして、でも全然そんなことはなかった。

それでも、垢抜け始めたのが大学に入って交友関係を築いた後だったから、どんなに垢抜けても私はやっぱり私だった。女の子のほぼ全員が女子大の子な中で唯一サークルの母体大学の生徒だったこともあって、重いから男子が担当していたデジタイマーの順番に組み込まれたり、AVを見る場に紛れ込んだり、「ふつうのかわいいおんなのこ」にはついぞなれなかった。それを嫌だとも思わなかった――今でも思わない。物心ついた頃からずっとそうだったから、それを100%嬉しく思うわけではなかったけど、でも良いか嫌かでいったら別に良かった。私は、そういう自分が結構好きだった。


ハローワールド
分かったことが一つある。私はただの若い女の子だ。そしてそれが、とても苦しい。

私はずっと、心のどこかで自分のことを「女の子になりきれない何か」だと思っていた。でも違った。少し容姿を磨いてみればもう、私はただの女の子だった。ジャージで過ごし、口汚く男言葉で喋り、男の中に紛れていた過去の私を知らない人から見れば、私はもう360°どこから見てもただの普通の女の子だ。それは別に悪意ある眼差しではないし傷つける意図も誰にもない。私はただの女の子で、これからの人生もずっと女だ。一生女として生きていく、だって身も心も女だから。それなのに、私は未だ「おんなのこ」な自分を受け止めきれずにいる。


女未満、ニアリーイコール人間
社会人になってから、「お前はいいなあ」と言われることが急に増えた。お前はいいなあ、女の子だもんなあ。部長に気に入られてていいなあ。部署のおじさんに好かれていいなあ。羨ましいなあ。俺だって可愛がられたいよ。いいなあ、お前は若い女の子で、いいなあ。


全然よくない。全っっっ然、おいしくない。


ずっと気づかなかった。お前女じゃないもんなって言われるのも、男と同じ負担を課されるのも、下ネタに配慮をされないのも、別にまあ面白いからいいやって、それ以上何も考えてなかった。でも、私はずっと心のどこかで、「私は容姿以外の点で認められ評価され受け入れられている」と感じ続けて生きてこられたんだと思う。もはや意識する必要もなく、ただずっとそれを当たり前だと思ってきた。だって私ブスだから、女じゃないから、可愛くないから。だから、そういう意味で一切のメリットを与えられない私にちゃんと友達がいて、毎日楽しくて笑っていられるのは、「おんなのこになれない生き物」としてちゃんと価値があるからだと無意識に認識して生きてきた。
可愛さの代わりに猛々しさを、愛らしさの代わりに言葉の鋭さを、可憐さの代わりに肩を並べるに値する賢さを。勝手に認められた気で生きてきたのだ。


人間が減る
社会に出てしばらくして、とんでもないことに気がついた。どうやら私の周りの人々は、私が私自身を可愛いと思っていると考えているらしい。他人が思う「私が私に下しているであろう自己評価」と「実際に私が私に下している自己評価」がズレていることがこんなに苦痛だとは思わなかった。
それでもまだなんとかなった。新人だから、まだ未熟だから、だから育ててあげなくちゃって、そういう風に思ってもらえたし思っていられた。
去年の暮れ頃から、先輩が仕事に行き詰まりだした。上司に叱られて、部長に冷たくされて、きっと彼は私よりずっと辛いだろう。彼と私の辛さを比べたら確実に彼の方に天秤は傾く。それは分かっている。それでも。

「お前はいいよなあ」「お前が羨ましい」「俺、お前に生まれたかったなあ」
なんの悪意もなく言われる度に、20代前半の女であることを羨まれる度に、とてもつらくてとても悔しい。誰も別に、可愛さで仕事をしようなんて思っていない。気に入られるために振舞ってなんかいない。ただ仕事をしているだけで、ただ頑張っているだけだ。そう、私は頑張っている。胸を張って言える。私は仕事を頑張っている。

それなのに若い女であるというだけで、それが得だと当たり前のように言われる。その通り、きっと得をしている。頭では分かる、職場の人々は皆優しい。でも心がついてこない。だってずっと可愛くなくても生きてきた。女未満のなにかだけど、身の内にない魅力を能力で、性格で、機転で、度胸で補って生きてきたはずだった。マイナスをプラスに転じられるだけの力があると思って生きてきた。でも今は違う。可愛くてよかったね、気に入られててよかったね、女の子でよかったね。

 

ねえ、実力以上に評価される身分でよかったね。


なんだこれ。なんだこれなんだこれなんだこれ。そんなもの要らない、望んでない、ちゃんと見てくれ、私を見てくれ。いつかは失う貴重なものを今すぐかなぐり捨てたいなんてバカだと思う。それでも今がどうしても苦しい。こんなことなら要らなかった。ずっとダサくて垢抜けなくて異性から見て惹かれる要素のない自分でいたかった。
だって私、仕事でくらい能力を評価されていたい。マイナスをプラスに転じられてるんだって、そう思えてた頃の方が楽だった。今の自分の方が好きなのに、容姿や年齢の分を勝手に評価から差し引かれる。ずっと自分の特権に気づかなかった。無意識に「おんなのこ」としてのマイナス分を補正して、面白いからまあいいやなんて思ってた。それも一つの得難い幸福だなんて知らずに。女としての私が認められるだけ、人間としての私が薄くなってゆく気がする。「ふつうのおんなのこ」になったらこんなに得を見込まれるなんて、こんなに「人間」が減るなんて、そんなの知らなかった。


君にしか決められない/私に決めさせろ
若さや可愛さで得をすることは、別に忌むべきことじゃない。可愛がられることをこそ楽しくておいしいことだと思う人もきっといるのだろう。「おんなのこ」
であることと、「おんなのこ未満の何か」であることはどちらにもそれぞれの損得があって、どちらが優れてるとかどちらが良いかとかそういうのを一意に決められる問題ではないのだと思う。
だけど私は、あまりにもながく「おんなのこ未満の何か」として生きすぎた。そんな自分としての得を享受しすぎた。愛着を持ちすぎて、その得を当たり前のものだと思いすぎた。失くしてみるとそのおいしさは、信じられないほど名残惜しい。女であることは、なんてお得で、なんて厄介で、なんて楽で、なんておいしくないのだろう。
明日も普通に仕事に行って、明日も普通に可愛がられて、明日も普通にニコニコ笑う。いつかこの狭量な幻想から醒めて、素直に今を享受できるのだろうか。全然おいしく思えない、とてもお得な今を。