英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

『星』に手が届くまで――舞台『TRUMP』および『リリウム』感想

フォロワーさんがあまりにも熱烈にダイレクトマーケティングを展開していてつい興味をそそられたので、舞台『TRUMP』を観に行ってきた。舞台をまともに見るのは初めてだったのだがとてつもなく面白かった。「満足できなかったらお金返すから観て!!!」とまで言わせるだけのことはあるな……!?と感激しきりである。そして勢いのままにシリーズ作である舞台『少女純潔歌劇リリウム』のDVDを購入しそちらも観た。冷めやらぬ興奮のままに感想を書いておく。って言ってももうTRUMPからは1週間経っちゃったけど!多分すでにそれなりに忘れてるけど!!って言ってるうちに1か月近く経った。すでに記憶がおぼろげです。

 

 

というわけで『TRUMP』および『リリウム』の感想です。考察というほどのレベルではありません。そしてがっつりネタバレします。ご注意を。

 

 

TRUMPについてはAsk.fmでも軽くお話したのでそれと結構かぶってますがとりあえず全部書きます~。

 

 

・『TRUMP』感想

冒頭でも述べた通り、舞台を見るのは初めてだった*1。しかも若手俳優の舞台。予習ゼロ、ストーリーの知識皆無、キャストの顔と名前は誰一人わからないという結構アレなコンディション。その上4泊6日の海外旅行から帰ってきたその足で成田から六本木直行で、さらに海外で田口くんの脱退報道を聞きHP削られまくり――というフルコンボにもほどがあるやろ状態。なんなら開演直前までブログ書いてた。(2個前の記事『君が幸せでありますように/君の幸せでありますように』) 該当記事をさらっとななめ読みすればわかるが結構なお葬式気分。ていうかもう正直言って入場時点ではチケットとったの後悔してた。だってこんな気分で楽しめる気しない……。

 

何はともあれ幕が上がってみると、ダイマ(※ダイレクトマーケティング)通りの厨二チックな世界観。と思いきや、ティーチャーグスタフとやらが「今日も髪立ってるぜぇ~~!!!」とかいいながら出てきて突然のロックなショーマストゴーオン。誰だお前は。そしてなんだこのテンションは。なんだろう、たとえて言うなら週刊少年ジャンプギャグマンガとして始まった作品の1~5巻くらいの感じ。あるじゃないですか、ギャグで始まってシリアスになだれ込むジャンプあるある。まんまあれ。ギャグシーンはリボーンの3巻でシリアスシーンは30巻台、みたいな。ヴァンプたちのイニシアチブの説明シーンのBLっぽいくだりとか、ギャグを披露するとこ、あとは歌の授業のソロ歌唱のところなんかは周りから黄色い悲鳴とか断末魔の声とかそれなりに聞こえて(あっ畑違うわ、、、)って思いました。あの辺はやっぱりキャスト本人のことを知ってるかどうかで面白さがけっこう変わる気がする。

まあそんな感じで、TRUMPという作品が本来持つ力のうちの「非・お笑い」な部分しか受容できなかったな~と思います。体感で多分6~7割くらいかなあ受け止められたの。っていう、120%を咀嚼できなかったであろうことを踏まえてもなおとても面白かった。観に行ってよかったです。観てる間だけ田口くんのことも忘れられたし。観劇してる間にTwitterの通知欄爆発して劇場出た瞬間全部思い出したけどそれはまあ置いといて。

 

 

 

『TRUMP』単体の感想を端的に述べると「舞台すげえ!!!!」です。これに尽きる。舞台の上っていう限りなく狭い空間で、ドラマや映画のようにあちこちでロケをすることも天気や背景を合成したり操作したりすることもできない。この不自由な表現形態だからこそできるトリック(?)だと思う。もちろん、照明や音響、ある程度の舞台装置とかはあったけど、それでも観客の想像力で補完しなければならないところがとても多い。それはたとえば雨が降っていることだったり、星がきれいなことだったり、そこが屋内なのか屋外なのかとか、廊下なのか地下なのか、現在なのか4500年前なのか、そういうのを全部観る人の脳内で補わなくてはならない。その不完全さを生かし切っているように感じられて最高にゾクゾクした。だって、舞台じゃなかったら100年のズレがある場面を同じセットで演じてそれが同時点の出来事であるかのように見せかけることなんてできない。しかもこの作品では、4600年前に火事が起きて城が焼けている。かなり最初のギャグ比重の重いとこで、「100年前に起きた火事でこの古城もボロがきてる」というセリフがあった*2。その「100年前(観客から見た4600年前)の火事が起こるまでの回想」が実は「今(4500年前)」と同時に展開されていて、観客の脳内補完としてはアレン、クラウス、ピエトロのシーンでは古城、ソフィ、ウルetc…のシーンでは焼け落ちた古城を思い浮かべなきゃいけないんだけど初見でそれができる人多分誰もいない。普通に同じ城だと思ってたわ。

違和感がなかったわけじゃない。話のつなぎがやたら不明瞭だなーとは流石に思っていた。ソフィ&ウルパートと、アレン&ピエトロ・クラウスパートのぶつ切り感は特に隠されてなかったとも思う。ストーリーの構築の仕方がやたらガッタガタで話の筋が見えにくいなあ~と初見はみんな思うんじゃないだろうか。特に顕著だったのがソフィ・ウルとアレン・ピエトロの間に一切の絡みがないこと。絡みがないだけならまだいいんだけど、まるでお互い知らないみたいな振る舞いだった。まあ知らないみたいっていうか知らないんだから「みたい」もくそもない。この2つの主要そうなパートが待てど暮らせど関連づく様子がない。話の筋isどこ。

でもまさか100年のズレがあるとは思わなかった。だってクラウスは一貫して「アレン」を探してるし、何よりクラウスはソフィたちともアレンたちとも会話してる。「アレンを探し回るクラウス」がどちらの時代にもいるから、なんとなくあるいろんな違和感を「演劇観るモード」に入った脳がなんとなくなんとなく処理してくれちゃう。一番「あれ??」と思ったのはかなり後半、クランフェスのところ。度々人里に下りてはメリーベルと逢引きを繰り返していたアレンがヴァンプ狩りの標的になり、瀕死の重傷でクランの懲罰房に入れられる。メリーベルの元に行きたいとうわごとのように言うアレンの元に迫る人間たちの魔の手、叫ぶピエトロ、上がる火の手――。

で、だよ。その頃ソフィたちは何をしてるのかというと、なんと剣術の試合してる。いや試合どころじゃないだろ地下に人間きてますけど!?何のんきに模擬戦してんの!?って思ってたらまさか!!という。

ティーチャーミケランジェロが「あらアレンったらまた逃げてたのね~」と猫を抱き上げた瞬間、積み重なっていた違和感が全て綺麗に繋がって一瞬息がとまった。ソフィパートとアレンパートにつながりがなく断絶感が強い分、無意識にフラストレーションがたまっていたのだと思う。わからない、どういうことだろう、みえない、が全部一気に解消された。あの感覚って何て名前なんですかね。誰か教えてください。

ウルがダンピールなんだろうな~というのは薄々気づいていたのでそこまでの驚きはなかった。しかし、ダンピールは短命で繭期を越せない者も多い、ウルはそんな種であるダンピールなのだ、という2つの設定は、絶望の連鎖・輪廻としてのTRUMPシリーズを考えると極めて重要だったのではないかと思う。

 

アイドルと星のたとえ話が大好きなので、「不思議ちゃんアレンが『星に手が届きそうだよ』と空に手を伸ばす」→「『星には届かなかったよ』と死ぬ」→「『星に手が届いた』と言いながらソフィをかき抱き永遠の命を与えるクラウス」→「『死に手が届くまで』と言いながら空に手を伸ばすソフィ」という一連の流れに最高にゾクゾクさせられた。観ているときはただの興奮だった。かみ砕いて考えを巡らせる余裕ができた今、『星』について考えてみるとますます絶望が増す。観ているときは、一般に希望の象徴として使われる星がソフィにとっては死になってしまったこと、ソフィは死という希望を追い求めなくてはいけなくなってしまったことがとても皮肉な悲劇だと思った。しかし、よく考えてみるとおそらくはここで言う『星』はただの希望ではないのではないだろうか。確かに一貫して希望の象徴として描かれてはいるが、ただの希望ではなく『到底手の届かない希望』こそが『星』なのではないかと思う。劇中で自分の『星』を手に入れることができたのはクラウスだけだったが、あれは正攻法ではない。正攻法ではないし、もっと言えば本当の本当に欲しかったものを手に入れられたわけではない。クラウスが求めていたのは『永劫の時を共に生きる友人(?)としてのアレン』だが、ソフィはもちろんアレンではないし(アレンの血をひいてはいるがアレンとは別の個人であることは明らかだし見た目はどちらかと言うとメリーベル)、クラウスと共に生きることも選ばない。おそらく、星を比喩として使用するにあたって『手が届かない』というのはなかなかに重要なポイントだ。

 

話をウルとソフィに戻そう。作中、うわごとのように死を恐れるウルの姿が執拗に描かれる。繭期を越せる見込みがなさそうなウルは、ダンピールであることを恥じないソフィに憧れ、死を恐れ死にたくないと叫び、TRUMPになることを望む。ウルにとっての『星』はTRUMPになること、つまりは『生きること』だ。けれどその望みは叶わない。ウルは、不老不死となったソフィの腕の中で「生まれかわったら君になりたい」と言いながら息絶える。そして実際にウルとソフィは互いが互いに生まれ変わり輪廻を繰り返す――という裏設定がTRUMPには存在する。TRUTH公演(私が観たのはこれ)と主要キャストを反転したREVERSE公演を繰り返すことで輪廻を演出しているらしい。それを示すのがウルの今際の際の台詞ということになっている。

ソフィは生まれ変わったらウルになり、ウルは生まれ変わったらソフィになる。これをごく単純に解釈すると、ソフィとウルは同じ輪廻の輪の中をぐるぐる回り続けているようにみえる。しかし、TRUMP世界においてそのように小さな輪廻の輪はおそらく成立しない。なぜなら、不老不死が存在するため設定上物語世界の時間は永遠に続くからだ。『輪廻転生』と『永遠の命』は明らかに組み合わさりがたい概念だ。しかも生まれ変わりの片割れであるソフィが永劫の時を彷徨う、というのが主要な筋の1つでさえある。これを考慮すると、ここで言う生まれ変わりは循環し続ける輪というよりは分岐し続ける世界線に近いのではないか。ウルの台詞によりお互いの魂が入れ替わって『ウル』と『ソフィ』が誕生する世界線が発生し、その世界でもまた同じことが繰り返され望まぬ死と望まぬ生(不死)が与えられ永遠に世界が続いていく――

ウルとソフィは、何度も何度も世界の分岐を繰り返し互いを大事に思い大きな望みを抱いて、そして、今まで発生したすべての世界線で絶望を味わっている。2人の魂は何度も何度も何度も何度も生を望んでは潰え死を望んでは潰え、無数の世界線を漂い彷徨っているのではないだろうか、という想像に辿りついたとき本当にぞっとした。どちらを望んでも絶対に掴めない。何度も何度も何度も何度も何度も何度も絶望だけを繰り返し、永遠に『星』には届かない。こいつら繭期のヴァンプじゃなくて思春期の少女だったらまどか*3なんか目じゃないくらいの魔法少女になれるのでは……?キュゥべえ、ここにすごい逸材がいるからとりあえずまどかはあきらめてスカウトしてみたらいいと思うよ……??

この脚本考えた人まじ精神歪んでんだろ、と思ってたらまさかの脚本書いた人キャストもやってたっていう衝撃の事実。しかもウルの父親役。ウルの生みの親ってもはや苦しめてる張本人じゃん。それが父親って。

 

 

 

・『リリウム』感想

「舞台すげえ!!!!」となった観劇後、わりと速攻で『リリウム』のDVDを購入した。そして『四銃士』観る前にこっちを見た。我ながら心囚われすぎてて笑う。

こちらも端的に感想を述べますと、「『TRUMP』観る前に観たかった!!けど『TRUMP』観てから観れてよかった!!!!けど!!!!」です。あと絶望を共有したすぎて観て速攻人に貸してしまったので1回しか見てません。

 

こちらは『TRUMP』と違って若干キャストを知っている状態。最後まで誰だかわからなかったのは、紫蘭(福田花音)、ナスターシャム(勝田里奈)、キャメリア(中西香菜)の3人。スマイレージ時代に全員の顔と名前を一致させたつもりでいたけどタケちゃんさんとあやちょさんとめいめいさんしかわかりませんでした。反省。やっぱ知ってると違うわーと思えたのは、繭期の説明シーンなど『TRUMP』と同じく『リリウム』でもギャグパートになっている部分だ。なにせキャストを知っているから楽しい。後ろで役を忘れてきゃはきゃは笑うマーガレット(佐藤優樹)がめっちゃかわいいー、とか、滑るチェリー(石田亜佑美)がかわいいーとかそういうのが分かると楽しさ3割増しだなあと思う。

前情報はなんにも仕入れず観たので、時間軸的にどこにあたる物語なのかすらわからず、途中まで「もしかしてこの中にアレンの母親でもいるのか?」とか思ってたんですけど、まさかね、まさか。ファルスお前がソフィかよ!!!!

一番の絶望は、この事実により『絶望の連鎖』があらわになったことだ。『TRUMP』ではあれほど不老不死を拒んだソフィが、3000年の時を1人で生きる中他人を思いやることが出来なくなってしまったこと、そしてそれにより殺したいほど憎いはずのクラウスと同じことを繰り返していることがわれわれには見えるから絶望する。ただの絶望ではなく、これが繰り返された絶望だということが分かってしまう。そしてだからこそこれからも繰り返されるのではないかと思ってしまう。実際、ファルスの作り上げた『永遠の繭期』の中で生き続けることを拒み集団自決に走ったリリーは、絶望の蘇生ののち「みんな、起きて」と叫ぶ。リリーの中にも「ひとりで生きたくない」「一人ぼっちで永遠に生きるなんて嫌だ」という気持ちがある、もしくは今後芽生えるであろうことが分かる。そして、その気持ちはきっといつか「だから誰かに一緒に『永遠』という牢獄に入ってほしい」へと変貌する。

 

そして『TRUMP』を観劇した者だけがあの瞬間に味わえる絶望のような悲しみのような何か。

「この薬の名前は、『ウル』さ」

一体どんな気持ちで救えなかった友人の名前を付けたのだろう。「俺は君で、君は俺」だから自分の血にその名前を付けたのか。それとも、あの時これがあれば彼を救えたのにという思いからだろうか。どんな気持ちからだとしても、そこにウルへの何かしらの思慕があることだけは疑いようがないと思う。ファルスになったソフィもウルを忘れていない。ウルとの間に起きたこと、あのクランで自分を巻き込んだ運命、そういうものを忘れたわけではないのに、それでもファルスはあのサナトリウムを作りたい欲求に抗うことが出来なかった。って考えると、どんな暮らしをしてきて、どんな平穏とどんな失望を送ってきたのかなあと思ってしまう。

『TRUMP』観劇後からずっと気になってたんだけど、クラウスは結局ソフィを置いてどこかへ行ってしまう。不老不死にするだけして、共に生きることを選ばない。じゃあソフィが不老不死になった意味ってなんだろう。ソフィの苦しみは何のためなんだろう。それがどれほど救えないことか、その虚しさを否応なく思い知らされてるソフィが、結局はリリーに同じことをしてしまうというのもやりきれない。

ソフィは、多少のズレはあるものの自分がクラウスにされたことをなぞってリリーにほぼ同じ仕打ちをする。『TRUMP』のみを観劇した時点では、ソフィは『巻き込まれた哀れな主人公』でクラウスは『身勝手な欲望を抑えられなかった諸悪の根源』だった。しかし『リリウム』を観ることで、その印象は変わる。ソフィは、絶望の連鎖の中の1つのコマへと変わり、与えられた分の絶望を誰かに受け渡してしまう。だったらクラウスがソフィにもたらした絶望も、いつか誰かに押しつけられたものだったのかもしれない。そして、『リリウム』中では『TRUMP』のソフィと同じく『巻き込まれただけの主人公』を完遂したリリーもゆくゆくは誰かに絶望を受け渡してしまうのかもしれない。

 

『リリウム』のすごいなあと思ったところは、『TRUMP』を観なくても全然大丈夫だったところだ。ソフィが誰なのか、ウルとは何なのか全くわからなくても十分に謎があり、十分に迫力満点の展開であり、何の不満もなくストーリーに納得できる。でも、観ていると全然違う。特に大きいなと思ったのは、おそらくリリーはファルスに殺してもらうことはできないであろうことだ。『リリウム』だけを観劇した人は、おそらくファルスのことをTRUMPだと考えるだろう。しかし本当はファルスはTRUMP=True of Vampではない。ただ不死なだけのヴァンプだ。ソフィはクラウスにイニシアチブを掌握されているから、クラウスならソフィを殺すことが出来る。クラウスならソフィに『星』を贈ることが出来る。しかし、ファルスはリリーのイニシアチブをおそらくは既に失っている。リリーがソフィと同じく死を望んだとして、そのための彷徨の末ファルスに再び廻り逢っても彼はリリーの『星』を掴んではくれない。

私の記憶が正しければ、一度発生したイニシアチブは死ぬまで消えないという設定があったような気がする。これはおそらくヴァンプの中では当然の常識であるはずだ。でも、多分ファルスとリリーのイニシアチブは同化してしまっていて、この2人はお互いにお互いをどうにもできないのではないか、と思う。

 

忘れることと忘れられること、そして忘れられないことの残酷さが三重奏で襲い掛かってきてやっぱりこの脚本書いた人精神歪んでるのでは…と思った(褒め言葉)

スノウは徐々にファルスのイニシアチブの影響を受けなくなり、自分たちが閉じこめられているサナトリウムの真実をおそらくほぼ知っている。それでもなお、死ぬのが怖くて一度はそれを受け入れた。イニシアチブの影響下にあるほかの少女たちに何度も存在を忘れられ、自分だけが一方的に思い出を紡いでいくのはどれほど寂しいことだろう。そうして結局は人とあまり関わりを持とうとしなくなったスノウにとって、生きることはどんな意味を持っていたのだろう。「私を忘れないで」と言いながら死んでいったシルベチカにしても、死に方を観る限り自分が存在したという記憶が今後どうなるか薄々はわかっていたのではないかと感じた。愛した恋人にさえ自分を忘れられるとわかっていてもなお受け入れられないくらい、彼女にとって『永遠』の檻は苦痛なものだったのだろうか。

キャメリアとリリー。何か大切なことを忘れている、忘れているのはわかるのに何を忘れているのか思い出せない。私は覚えているのに周りは誰も知らない。本当は『覚えている』んじゃなくて『夢でも見ていた』だけなのかもしれない。ただでさえ不安定な繭期の少年少女にとって、自分の記憶さえ信じられないというのは相当な精神的負荷なのではないかと思うのだがどうなのだろう。

そして何よりもファルスだ。自分だけが覚えているたくさんのこと。自分だけが生きてきた時間が違うこと。自分だけの、自分だけで、自分だけが…本当にサナトリウムでの時間はファルスにとって幸せだったのだろうか。『永遠』にここにいたいと思うくらい幸せだったのだろうか。それを考えると、このサナトリウムにたどり着くまでにソフィが過ごした時はきっととてつもない孤独に満ちていたのであろうことが窺える。誰かと話して、軽口叩いて退屈だなあってうんざりして、そんな暮らしをソフィが味わうことはもう二度とできない。サナトリウムでの時間なんて嘘ばっかりだし、自我は奪ってないと言っても何度も何度も記憶を消してあれこれリセットして、って繰り返してそれを800年も続けたら普通は飽きる。脆くて嘘だらけで自分だけが異質で、そんな出来の悪い偽物でも愛してしまうくらいソフィは切羽詰まっていたんだなあと思うと、なんだか憎めなくてもっとうまいやり方あったでしょって叱ってあげたくて。しかもその始まりがただ遠い祖先にある少年がいただけ、というのがますますやりきれない。別にソフィの父親でも息子でも孫でもひいじいさんでも、誰だってよかった。クラウスにとってはアレンの血さえひいていれば誰だってよかったのに、そんな理由で背負わされるにしてはソフィの運命はあまりにも過酷だ。

 

ここからしばらくただただキャストを褒めるのだが、ファルスの前にまずはスノウから。

この舞台の中で一番清涼感があって、“静”の存在感に満ち溢れていた。人と関わらず、シルベチカを探すリリーにも意味ありげなことしか言わず、裏には長い絶望と苦悩がある。その末の静けさに和田彩花さんがとても似合っていたと思う。何より声がいい。なにせキャストが全員ハロプロなので大体みんなハロプロっぽい歌い方なのだが、スノウだけはあの歌い方は似合わなかったと思う。儚くて細くてなめらかでしなやかで、あの舞台にいた人の中で和田さんが一番スノウらしい声をしていた。お姫様みたいだった。

スノウと並ぶ主人公、リリー。物語のクライマックスに差し掛かるまで、出番こそ多いがほぼ自我がないようなものなので感情移入して憑依して演じるのはとても難しい役なのではないかと思う。だからこそ憑依に頼らず演じる必要があったと思うのだけれど、鞘師さんはこの触媒のような主人公にとてもあっていたと思う。そこからの後半の怒涛の歌唱。力強さ。でもそれはどこか身勝手で、必ずしも正しいわけではない。「まっすぐな心で『運命』に抗おうとするリリー」がまっすぐまっすぐ演じられるのが余計に怖さをそそる。ここからリリーもまた誰かにとっての過酷な『運命』になってしまう日が来るのかなあと思うとなんかもう本当につらさが半端ない。語彙力を失うレベル。ほんとうにつらい。語彙力死んだ。

「私は実力者です!」っていうのがものすごい勢いで伝わってきたのはやっぱりマリーゴールド。表情、迫力、鬼気迫る雰囲気、すべてが圧巻だった。コメディ担当ではないものの、主要な登場人物に含めていいかと言うとちょっと首を傾げてしまう。主人公かと言われると決してそうではない。けれど、“動”の存在感という意味では間違いなく彼女が群を抜いていた。一番強烈な光を放っていた。彼女の舞台はこのDVD一枚きりしか観たことがないのだけれど、先日の卒業発表を聞いて「ああ、やっぱりなあ」と思ってしまうくらい、きっとこの子は舞台の上で生きていくために生まれてきたんだと思ってしまうくらいすさまじかった。アイドルとしての彼女もきっとすごいのだろうと思う。きっとすごく可愛くてとてもかっこよくてたくさん愛されていて、それを知っていてなお「がんばって、ここで生きて!」と叫びたくなるくらいすごいのだ。本当に、どうか頑張ってほしい。

そしてファルス、工藤遥さん。最初の軽薄で女の子大好きな男子生徒から、後半まさかの黒幕へ。キャメリアが戸惑い悩む思春期の少年役だったのに対して、ファルスはもっと強くて狡猾で男らしい。そして少年であって少年ではない、老人だ。私が初めて見つけた時はおかっぱ頭でランドセルをしょった写真が公式で売られていたようなあのかわいい女の子がこんな狂気に満ちた男の役を演じているなんて、ビー玉だと思って拾い上げたら手榴弾だったみたいな衝撃だ。『リリウム』単体としての主役はリリーとスノウなのだろう。けれど、裏の主人公はソフィだ。そして、いつかソフィになるリリーだ。心がまだあるけれど身勝手さに支配されて、あの時のソフィのままだけどどこか狂ってしまっている、そんな役を演じるのはどれほど難しいことか。さらに、『リリウム』は『TRUMP』のメインパート(4600~4500年前)と冒頭部分(今)の間に挿入される物語だ。だからファルスは、ちゃんとソフィと繋がっていなくてはいけない。既にちゃんとした男性が演じている男性キャラをあの年ごろの女の子が演じる、っていうそれだけでもプレッシャーは大きいだろうに寄りにもよってファルスだ。でもとてもよかった。少なくとも私の目には文句なしに少年に見えた。あのハスキーボイスが演技仕事の世界(舞台でもテレビでも映画でも)でどういう評価を受けるものなのか私にはわからないけれど、今後も彼女に演技をする仕事を色々してほしい。もっとたくさんこの子の演技が観たい。狂気、不安、渇望、執着、そういう3000年生きたものにしか味わえない様々の感情が、ファルスの演技にはちゃんとこもっているように感じられた。

 

 

 

・感想とかいろいろ

『リリウム』まで観たあとにネットでちょろちょろ考察を漁っていたら、「クラウスがアレンにあれほどの執着を見せたことから考えて、クラウスは実は女なのではないか、そして『リリウム』のサナトリウムに実はクラウスはいたのでは」と言っている人がいた。いやーそれは違くない?と私は思うのだがどうなんだろうか。それに関連して、作り手は「ここまでは『そういうもの』として受け入れてね」ってラインをどうやってどこまで観客に知らせるべきなのかなあということをぼんやり考えている。

私はクラウスのアレンへの執着を、よくわからないけど成人男性が青少年に剥けるめっちゃ重くてめっちゃ強くてめっちゃすごい感情なんだなーとあっさり飲み込んだので、どこまでを伏線(の可能性がある表現)扱いするかって難しいなあと思う。でも、クラウスのアレンへの想いには確かにほんのり違和感がある。『TRUMP』『リリウム』2作まとめると、程度の甚だしく強いだろうと思われる関係は複数ある。ウル⇔ソフィ、アンジェリコラファエロ、クラウス→アレン、アレン⇔メリーベル、クラウス→ソフィ。リリー→シルベチカ、マリーゴールド→リリー、キャメリア⇔シルベチカ、リリー⇔スノウ、ファルス→リリー&スノウなどがぱっと思いつく。この中で、クラウス→アレンだけ、なんとなく異質なのだ。なんだろう、あんまりうまい言葉が見つからないけれど、「なんでそんなに好きなの?」ってつい思ってしまう。

家柄のこと、将来のこと、自分との実力差などがぐちゃぐちゃになって、名前をつけがたいラファエロへの気持ちを募らせるアンジェリコ。彼はある意味とても分かりやすい。勝ちたい、勝たなきゃ、勝てない、並びたい、一緒に。一緒に同じくらい輝きたい、って気持ちはとても想像しやすい。その果てにラファエロを殺そうとしたのにクラウスに先んじて彼を殺されてしまい、灰になった『ラファエロだったもの』をみながら「あいつは僕が殺すはずだったんだ!僕が!僕が!この僕が!!殺したかった!!!!――違う、本当は、仲良くしたかった……」と崩れ落ちるアンジェリコはとても分かりやすい。わかりやすいという表現もどうかと思うが、脳が違和感を感じないのだ。純粋にラファエロとアンジェリコの感情の機微に集中できる。

マリーゴールドもそうだ。母親に忌み嫌われ、人とまともに触れ合ったことがなかったマリーゴールド。「リリーに出会って初めて私は生きることを知ったの」「リリーに会って初めて私は生まれたの」と歌う彼女にとって、リリーはそりゃあ大事な大事なかけがえのない存在だ。そこに性別は関係ない。

アレンは確かに特別だった。不思議ちゃんで、なんか変だし、「永遠なんていらないよ」とか普通に言ってのけちゃうし。でもやっぱり、何でそこまで?って思う。何千年も生きていて、ずっとクランで教師をやっていて、人なんて腐るほどであって飽きるほど別れてきたはずのクラウスにとって、アレンの何がそんなに特別だったんだろう。永遠に共に生きたいだなんて、何がクラウスをそこまでの境地に追い立てたんだろう。案外答えは簡単で、本当に連想させられる通りクラウスはアレンが好きだっただけなのかもしれない。ただ恋をしていただけなのかもしれない。もしもそうだとしたら、クラウスはなんて人間くさいんだろう。アレンの方が人間離れした価値観を持っていたとさえいえるかもしれない。誰よりも人から遠いところにいるくせに、人間みたいに簡単に恋に落ちるなんてそんなことあるんだろうか。

最後に。ダンピールについて私は勝手に

・ダンピール=思春期までは人と同じ

・というより、思春期までは人間とヴァンプに違いはほぼない

・繭期を境にヴァンプには人間と異なる種々の特徴が発現する

・一部のダンピールもヴァンプと同じく繭期が来る

・繭期がきても越えらえない(=死ぬ)ダンピールもいる

・越えることが出来たら性質的にはヴァンプと同じになる

と解釈してたんですけどどうなんでしょう。ソフィやマリーゴールドの言動からして、ダンピールには繭期が来る者と来ない者がいるんじゃないか、そして、繭期が来なかった者は人間と変わらないまま一生を終える。つまり、ダンピールは繭期さえ来なければ人間の中で人間と全く同じ生活を送れる(逆に言えばヴァンプにはなれないことになる)のかと思っていた。TRUMPシリーズにまだまだ未見の作品があるため怖くてネタバレやら脚本家の話やらをみていないので既にこの疑問は解決されていそうだけど。

それに付随して、ヴァンプと人間て種として非常に近いところにいるいきものなんだろうなと思う。そもそもヴァンプ狩りが始まったのも、人間がヴァンプの不死の力を羨んだからだっていう説明があったようななかったような。「羨んだから」っていうのが私の記憶違いじゃなければ、ヴァンプ狩りの究極目標は『人間も不死を手に入れること』だったことになるのでは?応用すれば人間にも不死をもたらせる(ほどに種として近い)、ってますます人間とヴァンプの関係が気になる。そもそもクラウスも人間だったとか?ヴァンプは突然変異や神のイタズラが生んだ人間の亜種ということもありうるなあと思う。ただ、「羨んで」ではなく「不死を恐れて」とかが狩りの理由だったような気もするので何とも言えない。

まあ何はともあれめちゃくちゃ楽しかった。すんごい頭使ったし、考えてないと死ぬ脳みそ露出思考マグロとして非常にいい経験でした。また舞台観に行けたらいいな。

 

 

そんなこんなで『TRUMP』『リリウム』をめちゃくちゃ楽しんだ私は、『リリウム』視聴のその日にはモーニング娘。’15のコンサートのチケット(これまた死ぬほど楽しかった。感想を書く余裕がないのが悔しい。))を手に入れていたのでしたとさ。~完~

*1:幼少期に定期的に舞台を観る会みたいなものに入会していたので厳密には初めてではないですが、大人向けのものを観るのは初めてでした。

*2:どうでもいいけど「ボロがきてる」って日本語初めて聞いた。「ガタがきてる」じゃないのかなw

*3:魔法少女まどか☆マギカ