英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

君が幸せでありますように/君の幸せでありますように

4泊6日でタイに行ってきた。人生初の海外旅行だ。旅行自体はとても楽しかったのだが、ネットがほとんど使えないのがネックだった。ちょうど『四銃士』リリース日がど真ん中にあたる日程だったため、WSも各種番組もほぼほぼ見逃すことになる。ホテルのフリーWi-Fi(わりとクソ)以外は時折飲食店でちょっと使えるくらい。普段1時間にいっぺんは見ている気がするTwitterでさえ1日の終わりにちょっと見れるくらいで、日本の出来事がぼんやり遠い。

四銃士のリリース日に不在であることに加えてもう一つがっかりしたのが、ベストアーティスト2015を見られないことだった。LOVEメドレーを楽しみにしていた。愛言葉をやることを知って見れないことが尚更悔しくなった。だから、11月24日の夜にホテルに帰ってきてWi-Fiを繋いだあとは真っ先にTwitterを開こうとした。NEWSのパフォーマンスのキャプチャ画像だけでもみたい。やっと通信が繋がった瞬間、LINEが来た。ステータスバーの上部に姉からのメッセージの冒頭が表示される。


「田口が!田口が!!!!!!」


LINEを起動した画面に書いてある言葉の意味が分からなかった。

 

「田口がKAT-TUN辞めて、事務所も辞めちゃうんだって!!!!」

 

メンバーのコメントの画像が添付されていたけれど、ネットの速度が遅いせいで全然読み込めない。何を言っているのか全然わからない。本当に、意味が分からなかった。だって田口くんが、まさか、だって、だって1番あなたが。


正直言って、まだ心の中で少しだけ「間違いかもしれない」「日本に帰ったら脱退なんてなしになってるかもしれない」と、ほんの少しだけ、一欠片だけ思っている。今私は日本に向かう飛行機の中で、この飛行機が東京に着いたら本当の本当に現実を受け止めなくてはいけない気がして帰りたくない。でももうあと1時間もせずに成田に着いてしまう。

Twitterを開いてTLを2時間分くらい読んだところで、私の頭はほとんどの現実を理解した。あの日から既に3日が経ったが、いまだ足元が崩れ落ちたような心許なさだ。正直言って、私自身にこの出来事を悲しむ資格などないと思う。別に、KAT-TUNのものすごいファンというわけでもないし、実際悲しいというわけではない。悲しみもあるけれど、それを圧倒的に凌駕するむなしさのような何かがある。得体の知れない脱力感があの日から拭えない。
多分これが誰の脱退であっても、少なからず同じように感じたと思う。それが田口さんであったことでこの感情の強さは増しているだろうけど、でもNEWS以外なら誰だったとしても同じようなことを考えただろう。だから、私にこういう風に思いを綴る資格はないかもしれない。私の思いはちゃんとずっと彼らを好きな人を不愉快にさせるかもしれない。それでもどうしても不安で寂しくてたまらないから、この場を借りて吐き出させてほしい。

これは田口くんが辞めることへの悲しみではない。田口くんへの怒りでもない。ただの、1人のNEWSファンとしての、気の持ちようの話だ。悲しみも怒りも憎しみも想像もKATーTUNを愛する人たちのものであって私のものじゃない。でも、何も思わないなんてそんなことは出来ないから、思ったことを書かせてほしい。誰に謝りたいのか謝るべきなのかわかりもしないのに、ただただ何かに謝りながらこの文章を打っている。


ゆっくりゆっくり事実を理解して絶望した。亀梨さんと田口さんと上田さんと中丸さんのコメントを読んで、もう泣きたいくらいだった。田口くんの脱退は、全然全く『円満』ではないのだろうと思う。山下くんを思い出させられた。田口くんの選択は多分、一つの仕方なさも備えていない。彼が彼自身の頭で考えて、大事なもの同士を天秤に掛けて、そしてKAT-TUN以外の何かを選んだ。
私が2011年10月のあの日、山下くんの選択に絶望したのも、彼の脱退に「必要」も「仕方なさ」も見つけられなかったからだ。
山下くんはNEWSを選べなかったわけじゃない。NEWSを続けられないのっぴきならない理由なんて1つもなかった――彼の心以外には1つたりとも。


増田さんの存在を知って、ジャニーズを、アイドルを好きになって、高校生の私は信じていた。パフォーマンス自体よりMCをみる方が楽しかったあの頃、アイドルにキャラ萌えしていたあの頃、当たり前のように信じていた。アイドルグループのメンバーは他のメンバーのことが好きだし、なんだかんだ不満があってもそれはいつか乗り越えられてゆくものだし、アイドルにとって「アイドルであること」はとても特別なのだと信じていたのだ。「アイドルになる」ことは出来るけど、「アイドルを辞める」ことなんて出来ないと思っていた。
それが初めて揺らいだのは、赤西さんが脱退したときだった。でも、その時はまだ大丈夫だった。特に理由はないけれどなんとなく、赤西さんは特別な人なんだと思っていた。それは彼が留学や活動休止を過去にしていたからだったし、好きな音楽の方向性がジャニーズの中では突き抜けているように見えていたからだったし、すごく才能がある人だと知っていたからでもあった。中丸さんを弄る赤西さんが、背中合わせの仁亀がもう二度と見られないのだと思うと悲しくて仕方なかったけれど、それでも私にとってあの脱退は特殊事例だった。赤西さんだから許された、赤西さんにしか許されない行動なんだと思っていた。

「アイドルでいること」は必ずしもアイドルにとって至上の価値を持たない。それは私にとって不都合な真実だった。でもきっと、赤西さんだけが特別なんだと思っていた。私が期待する通りの愛や誇り、執着が必ずしもなくたってそれでも、「アイドルでいること」と天秤に掛けられるものなどない気がしていた。そんな天秤は存在しないと思っていた。

 

山下くんと錦戸くんの脱退が発表された時、何を言っているのか理解出来なかった。錦戸くんの脱退は仕方ないと思えた。だって彼は忙殺されていて、どんどん痩せて、NEWSとエイトが躍進すれば兼任がいつか破綻するのは目に見えていて。だから諦めることが出来た。錦戸くんのNEWSへの、NEWSファンへの愛を信じたまま、「NEWSの錦戸亮」を諦めることが出来た。
でも、山下くんは違う。彼にはNEWSを辞める必然性なんてどこにもなかった。山下くんがNEWSで見せてくれたもの、NEWSにいた山下くん、山下くんが好きだったのに、彼はそれを天秤に掛けて、捨ててしまった。私が大好きだった彼を、彼自身が私から奪った。奪われたことよりも、その天秤が存在したことの方が衝撃だった。何故か私は無根拠に、そんなことは不可能だと思い込んでいたのだ。何がしたかろうと何が嫌だろうと、そんな個人の希望だけでグループの脱退が許されるなんて思ってもみなかった。


ああ、もしかして本当はアイドルっていうのは辞めたければいつでも辞められるんだろうか。みんな心の中で、何かとアイドルを天秤に掛けながらアイドルを選び続けているんだろうか。そうじゃないと言ってほしい。「アイドル」っていうのは、アイドルにとって唯一無二の何かで、他のものと比べることなんて出来ないんだと……言えない。言えないのだ。
この時アイドルに抱いた脱力感を、結局私は忘れた。NEWSのメンバーのNEWSへの愛が、NEWSでいることへの執着が、アイドルでいることの誇りが、NEWSファンでいることの楽しさが、私にこの虚無感を忘れさせた。山下くんを嫌いになりたくなくて、NEWSを好きでいたくて、都合の悪い想像を頭から追い出してNEWSファンでい続けた。


田中聖さんがジャニーズ事務所を解雇されたとき、「ああ、馬鹿だ」と思った。KATーTUNが好きなくせに、厨二くさいけど真っ直ぐな言葉でKATーTUNへの愛を語っていたくせに、再三注意されても契約違反を重ねた田中さん。なんでだろう、どうしてアイドルとしての立場を危うくしてまで外で活動したんだろう。KATーTUNでいることと天秤に乗せなきゃいけないとしてもやりたいくらい、それって大事なことだった?
「こんなんでもジャニーズやってんだよ」って言う田中さんが好きだった。田中さんにとって、「『こんなん』な自分」と「ジャニーズの自分」は、「『こんなん』な自分」の方が大事だったんだろうか。
馬鹿だと思った。でもまだ大丈夫だった。田中さんは結果的にアイドルの自分を天秤に掛けたけど、それはあくまで結果だ。続けたらやばいとわかってはいたかもしれない。その時はその時だと思っていたのかもしれないし、大丈夫だとたかをくくっていたのかもしれないし、アイドルから気持ちが離れていたのかもしれない。それは私にはわからない。でも、彼は「KAT-TUNか、それ以外か」を直接的にハッキリ選択したわけではないのだと思い込んだ。怖いから今でも調べていない。彼は解雇された、それだけが私にとっての事実だった。ファンを泣かせてまで続けるほどの価値があるのか決める前に彼の前から選択肢はなくなった。「『こんなん』な自分」を選ぶかどうか決める前に、「ジャニーズの自分」を彼は失くした。捨てた、と思うことはしなかった。脳裏にその言葉を浮かべることさえ出来なかった。
山下くんのことが頭をよぎらなかったと言ったら嘘になる。けれど、同じだとは思わなかった。山下くんみたいな辞め方をする人なんてもういないはずだ。

好きな人たちを信じていたい。違う、信じる信じないの話なんてしたくない。アイドルでいるのが自明の理であってほしい。ステージでペンライトと歓声の波を浴びる以上の幸福なんてないと言ってほしい。私が不都合な真実を見て見ぬふりするの同じように、アイドルにも「アイドルでいること」が選択可能な道の1つに過ぎないことを見て見ぬふりしてほしかった。


田口くんが脱退した事実と目に見える範囲の経緯を知って絶望した。心の中で糸が1本切れた音がした。かなしいくらいにはっきりと、大事な大事な糸が1本切れた。
彼は選んだ。大事に大事にしていた「KATーTUNの田口淳之介」と、そうじゃない別の「田口淳之介」とを天秤に掛けて、KATーTUNじゃない方の田口淳之介を自分の意志で選んだ。山下くんを思い出した。今度は脳裏をよぎるとかじゃない。はっきり思い出した、あの日の感情が再び胸に押し寄せた。
赤西さんがいなくなったときはまだ大丈夫だった。だって彼は特別だったから。錦戸くんがいなくなったときも大丈夫だった。だって彼はいつかはどちらかを選ばなければならなかった。山下くんがいなくなったことは、いつの間にか大丈夫になった。たくさんの美しい思い出と優しい今が大丈夫にしてくれた。田中さんがいなくなったのも大丈夫だった。彼がいなくなったのは100%の彼の意志じゃなかったから。

田口くん。

長い手足で優美に踊る、いつもにこにこ笑っている王子様。水と油のように田中さんと反発しあっていつしか混ざりあって素晴らしいものを見せてくれた。1人だけ、最初からずっと「俺はKATーTUNが好き」と言い続けた。滑ってばかりでも心折れない田口くん。どんどん中丸と仲良くなっていく田口くん。笑顔が似合う田口くん。どこかの国から紛れ込んでしまった王子様みたいな田口くん。

天真爛漫でグループを愛し、アイドルになるべくしてなったような田口くんでさえ「アイドルの自分」を天秤に掛けることが出来るなら、それが出来ないアイドルなんて多分1人もいない。一縷の望みを掛けていた。山下くんがNEWSを天秤に掛けたのは、彼の心の中にずっと別の仲間への思慕があったからなのだと。それはそれで私にとっては嫌なことで、山下くんを嫌いになりうる理由で、だから正面から受け止めることは出来なかったけど、1つの可能性としてちゃんと認識していた。山下くんもまた『特殊事例』の1人だったのだと、ぼんやり頭の隅で考えて、あとは目の前の楽しいものに夢中になって、それで忘れた。
4年前のあの日知って、そして忘れていたことを田口くんに思い出させられた。

 

アイドルはアイドルである前に人間だ。アイドルとして得られる喜びや楽しみは他では得がたいかもしれない。けれど、逆にアイドルでいる限り得られない喜び楽しみだってある。アイドルがアイドルでいる限り得られない「何か」を切望することだって当然ある。彼らはアイドルという生き物ではない。人間だ。
自分自身の幸せのために、欲しいもののために何かを取捨選択することを止めることなんて誰にも出来ない。たとえ私がその人にどれほどありったけの夢と愛を乗せてたってそれでも、他人の選択をどうこう言うことなんて出来ない。他人の選択に、他人の幸せに、私は一切関与できない。当たり前だ。そしてアイドルは他人だ。
どんなに好きでも、どれほど好きでも、何をしても何を言われても、私が大好きな人たちは遠いところにいる他人だ。私が願う「彼らの幸せ」はある日突然彼らにとって「要らないもの」になるかもしれない。ある日突然、愛する人を愛する人自身に奪われる日が再び訪れるかもしれない。その時出来ることなんて何もない。その時、愛する人にしてあげられることは、もう1つもないのだ。そして、そんな日がいつかやってくるとして、「その日」まで私はまた不都合な事実から目を逸らす以外何も出来ない。

今見て見ぬふりをしていること、都合よく解釈していることは本当は目に映る通りの事実でしかない。NEWSと関ジャニ∞の活動が相互に支障をきたしはじめていた、と私は何度か書いている。あれは嘘だ。あの頃、NEWSは活動していなかった。それをエイトとの兼ね合いだと思い込んだ。無活動はただの無活動だ。そこに良い意味合いがあることなんてほとんどない。売上が足りないとか脱退が決まってるとか、何かが駄目だからそうなっているだけなのだ。私はこれからしばらくはそう思ってしまうだろう。NEWSの小休止が去年で良かったと心から思う。あれが今年だったら、きっと私は田口くんの脱退に耐えられなかった。これから先、不満足な現状を楽天的に捉えられる自信が全くなくなってしまったから。


私が好きな人たちの全員が、1人残らず、今この瞬間にも「アイドルの自分」を何かと天秤に掛けてしまう可能性を持っている。そして天秤は「何か」の方に傾いてしまうかもしれない。目の前にある何らかの嬉しくない現実は全てその兆候でありうる。田口くんでそれがありえたのだ。誰でだって同じことがありうる。
アイドルを好きになった時、私の足元には踏みしめられるしっかりした土台があった。少しずつそれは崩落していって、山下くんたちの脱退で完全に崩れ落ちた。でも、足元が何もなくなっても私はまだ同じところにいた。命綱があった。材料さえもわからないその綱は、何かある度繊維が少しずつ切れて、今回ついに完全に切れてしまった。私が踏みしめられるものは何もない。私を繋いでくれるものも何もない。それでも何故か浮いている。土台や命綱がなんだったのか、今浮かんでいる場所がなんなのかも分からないまま、多分「好き」だけで私は浮遊している。
好きでいていいのか分からない、それでも好きだ。好きだけど、今、どんな些細な不安にも抗えない気がする。

多分何を聴いてもそうなるんだろうけど、飛行機の中で『Faighting man』を聴きながら田口くんのことばかりぐるぐる考えていた。
「挑戦したらいいじゃん?ありのまま思うがまま 何もしなきゃ始まんないぜ 自分に負けんな」「誰かのために生きているわけじゃない 比べずに迷わずに歩んで」
彼らが進みたいと思う道・彼らの望む幸福と、私たちが願う彼らの幸福が重なることは一体どれほどの奇跡なんだろう。私の望む幸せは、いつまで彼らの幸せなんだろう。その不確かさを嫌というほど思い知らされたはずなのに忘れていた。田口くんに思い出させられた。


それでもいつか忘れるだろう。浮遊感も絶望も脱力感も奇跡だということも、そのうち再び忘れるだろう。可愛くてかっこよくて楽しい現実に紛らせて、必ず忘れる日が来る。そうしたらもう2度と思い出したくない。もう2度と思い出させられたくない。今度こそ最後であってくれ。お願いだから。