英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

我が家に来航した黒船には慶応義塾大学の卒業証書が積載されていた

夏の終わりにほんのり怖い笑い話を一つ。

母を嵐オタに突き落としてからもう7年が経とうとしている。実を言うと、自分がジャニオタになったことよりも母がジャニオタになったことの方がいまだに意外だ。

櫻井翔さんがペリー提督のごとく我が家に現れ、すべてを変えてしまった。

 

 

 

開国前の湯坂家の話を少ししよう。私は極端に娯楽を制限される家で育った。

それはもうマジで鎖国としか言いようのない状態だった。テレビをほとんど見せてもらえないのはもちろん、漫画も禁止されていたしゲームもやったことがなかったし、もはや電池で動くおもちゃは禁止!くらいの勢いだった。親戚の家に遊びに行ったときに妹がト●ザらスで喋って跳ねるハム太郎のぬいぐるみを買ってもらったことがあったのだが、替えの電池が買ってもらえなかったのでそのうち重くて固いただのぬいぐるみになった。

テレビを見れるのは週に2~3時間くらい。それも決められたアニメだけ。

 

今でも、同世代と話すときは時折なかなかの寂しさに襲われながら生きている。

伊藤家の食卓』も『ミルモでポン!』も『おジャ魔女どれみ』も『ごくせん』も『野ブタ。をプロデュース』も通らずに大人になってしまった。一度でいいから『トリビアの泉』を見てみたかった。なんなんだへぇ~ボタンて。そんなもん授業中に鳴らすんじゃありません見てない子が寂しくなるでしょう。

 

テレビ番組といえば、幼稚園か小学校くらいの頃に『ハイパードールリカちゃん』というアニメが周りではやった。(ハイパードールじゃなくてスーパードールだったかもしれない)

周りが楽しそうにリカちゃんの話をするものだから、思い切って母に頼んでみたことがある。

「ねえお母さん、湯坂ちゃんもリカちゃんのアニメみたい」

「何曜日なの?」

「かようび」

「じゃあ木曜のポケモン見れなくなるけどいい?」

いいわけあるか。こうしてポケモンの前にリカちゃんは散った。

 

あと、小学校6年生の頃に、先生になぞなぞを出されたことがあった。

「『13S=6』という式に2本棒を足してこの式を成り立たせてごらん」

考えたけどさっぱりわからなかったので、結局降参して答えを聞いた。

正解は1の上に一本、3の左側に1本足して、『TBS=6』だった。ぽかーーんとした顔をしていたら、先生は思い出したように笑った。

「お前、姉ちゃんもおんなじ顔してたぞ~お前の家じゃわかんないかあ」

TBSが6チャンネルということも知らなかった私がのちにジャニオタになるとは先生も予想だにしなかっただろう。なおこの時点ではテレビの点け方さえ分からないというレベルだった。

 

そんな我が家にも、徐々に徐々に長崎出島のようなものができる。

その最たるものがパソコンとCS放送だ。

中学生になった私は、親の目を盗んでは夜な夜なニコニコ動画を徘徊し友人に借りた漫画とラノベを読みふけりポケモンに励むようになった。模範的な厨房だ。ちなみにポケットモンスターダイヤモンドだった。母に内緒で祖母に買ってもらったDSはとんでもない宝物に見えた。(余談だがこれは私が初めて手にしたゲームハードである。私の歳で初めてのゲーム機がDS、初めてのポケモンがダイヤモンドというのは多分かなり珍しい)

 

そしてCS放送。東京ヤクルトスワローズの試合を見るために加入したこれのおかげで、音楽専門チャンネルというものが我が家に上陸した。スペースシャワーTVM-ONなどだ。CSが我が家にもたらした最も大きな変化は、「とりあえずテレビをつける」という文化が生まれたことだった。帰ってきたらテレビをつける、目的の番組がなくともテレビを流すというのはそれまでの我が家では考えられないことだった。

 

 

 

こうして私は2008年、増田貴久さんと運命の出会いを果たすのである。

なにこの子かわいい。めっちゃかわいい。あ、これ山Pだ。青春アミーゴの人だ。えーこの子かわいい…!!!

(青春アミーゴは小学校の音楽の授業で合奏したので知っていた)

 

中学3年生の私は、『タイミング』/ブラック・ビスケッツと『A・RA・SHI』/嵐を同じ人が歌ってると思っているような深刻な芸能音痴だった。音楽なんて給食の時間に校内放送で流れてくるのを聴く程度だったから仕方ない。ついでにジャニーズがなんなのかもわかっていなかった。テレビに出ている若くてかっこいい男性芸能人のことをジャニーズって呼ぶのかなあと思っていた。山下智久はジャニーズなのに小池徹平はジャニーズではないのはなぜなのかという疑問がようやく解けた歴史的瞬間だ。

 

 

こうしておずおずとジャニーズの世界に足を踏み入れた私は速攻で嵐にも手を出した。理由は簡単で嵐には冠番組があったがNEWSにはなかったからである。

この冠番組が問題だった。

 

当時、関東で見れる嵐の番組は2つ。『嵐の宿題くん』(月曜23:58~24:29)と、『VS嵐』(土曜12:59~13:30)だ。宿題くんはよかった。親が寝てからテレビの音を小さくして部屋の電気は消しひっそりすれば大抵は見ることができた(たまに消されたが)。曲者だったのはVS嵐の方である。

私の母はパートの仕事をしていて、それが終わるのは13時だ。それから徒歩で帰ってくると、帰宅は大体13:20~25辺りの時間になる。つまり、VS嵐が終わるほんの少し前に母は帰ってきてしまうのである。

流石に完全な鎖国を続行することはもうあきらめていたと思う。でも母の眼に触れるところでまでそれを許してくれたりはしなかった。

 

妹と2人VS嵐を見て笑う土曜の午後。いいところ。決着がつくまであと少し。

というところで毎週帰宅する母。

母「ただいま」

私・妹「おかえり」

母 プツッ(無言でテレビ消す)

というやり取りを何回繰り返しただろうか。もう一度言うがこの時点で番組は残り5分かそこらである。それなのに消される。頼んでも消される。その5分も許せないほどVS嵐が不快だなんてそんなことがあるか――ついに私は決心した。

 

 

母に嵐を布教しよう。

 

 

ゴールは明確だった。母がパートからの帰宅後の5~10分間嵐の番組をつけていることを許してくれるレベルまで嵐の好感度を上げる。それだけだ。

 

 

戦況は芳しくなかった。そもそも今までも何度も「あと5分だから!消さないで!」とお願いしてはぽちっとされているわけで明らかに敗色濃厚である。しかし私はあきらめなかった。そもそも好きになってもらおうとは思っていない。「見るのもイヤ(好感度マイナス)」から「興味ない(好感度ゼロ)」に変わるだけでいいのだ。

というか今でもわからないのだがこの頃の母はなぜあんなに嫌悪感を示したのだろう…。

 

どのくらいの期間布教にもならない布教を試みては折れ試みては折れたのかもう覚えていない。安定の鳥頭。

そして運命のXデーが訪れる。

 

「ねえ知ってる?嵐の翔くんて慶應なんだよ。すごいでしょ」

「…へぇー」

 

記憶にある限り初めての(というか唯一の)好感触だった。

 

 

なぜだかわからないが、気づいたら母はVS嵐を一緒に見るようになっていた。

明りのついた部屋で胸を張って宿題くんを見れるようになった。いつの間にか増えるドル誌。積まれるテレビ誌。消費されてゆくVHSテープ。

いつの間にか好感度はマイナスからゼロへ…どころの話ではなかった。

 

 

 

気付いたら母は翔くんを好きになっていた。

 

 

 

それはもう本当に、黒船が現れて開国でも果たしたかのようだった。黒船に積載されているのは大砲などではなかった。慶応義塾大学の卒業証書だった。

母が、ミュージックステーションなど一度も見せてくれなかった、友達と同じカルチャーをほとんど共有させてくれなかった母が、みるみるうちに私よりよほど強火のジャニオタになってゆく。私は能天気に「ドル誌買わなくてもNEWSの切り抜き手に入ってラッキーだな」と喜んでいた。

こうして私は母と趣味を共有できるようになり、テレビを制限されることもなくなり我が家は徐々に普通の家に…となったらどんなに良かっただろう。

 

 

 

私は、本当に、母のことをわかっていなかった。頑なで厳しい母が、要するに0か100かタイプの人間であることを、全然わかっていなかったのである。

 

 

 

母はジャニオタになった。それはそれは模範的なジャニオタに。

嵐の冠番組を全録するのはもちろん、朝のワイドショーまでベタ録りするようになった。ブラウン管テレビが壊れた我が家にやってきたのは、カラオケにあるモニターよりでかい液晶テレビ。朝起きる、食卓につく、録画ランプがついている、テレビには触れない。夕方帰る、テレビで嵐の何かが流れている、部屋に引っ込む。夕飯を食べる、嵐関連の何かが流れる、見たいテレビは見れない。

嵐だった。流れる音楽も映像もテレビチャンネル権も何もかもが嵐だった。ステマしていたはずの相手からこれでもかこれでもかと繰り出されるダイレクトマーケティング。ダイレクト、あまりにもダイレクトなボディブローが私の精神に蓄積してゆく。しかもときは2008~10年、そう、嵐が爆発的な人気を得るか得ないか得るかくらいの頃である。追おうと思えばいくらでも追うものがあった。嵐。嵐、嵐、嵐嵐嵐A・RA・SHI

 

 

 

こうして私は嵐アレルギーになった。

父はぽつりと、「俺があの勢いでAKBにはまってもアイツは嫌がらないのかな…」と言った。父が女子アイドルにはまることはなかったが、断言しよう。母は嫌がっただろう。

 

母の性格と嵐のすさまじい人気と、どちらが悪かったのかはわからない。母と嵐の相性があまりよくなかったということなのかもしれない。それはわからないが、ともかく、母はあまりにも模範的で盲目で熱心だった。

端的に言ってしまえば、彼女は他との共存が非常にへたくそなタイプのジャニオタだった。

 

全ての時間と全てのお金と全てのデバイスが嵐に費やされた。それでも多分嵐を追い切れてはいなかっただろう。お金は母の自由だ。しかしデバイスは違う。

私がどんなにNEWSを見たいと訴えても、その言葉は母には微塵も理解されなかった。自分は前振りスポットCMから最後の予告まできっちり録画しきるのに、NEWSのメンバーがテレビに出た時はギリギリまでチャンネルを変えさせてもらえないし本編が終わると即切られた。私がDVDを見ることを許されるのは母が寝た後だけだった。母が起きている時間はパソコンとテレビの両方が母のものだった。

徐々に私は、家じゅうにあふれる嵐がうざくてうざくてたまらなくなった。自分の部屋で嵐の画像を眺めているときは全然いやじゃないのに、家に帰ってきた瞬間に嵐の歌声が聞こえるとイライラしてたまらない。

にのあいも泣き虫も天然も好きなのに、うんざりだった。

 

嵐が絡むと母は、他人の心情を慮る能力が著しく低下した。

録画してもらったはずの番組を見たかどうかの確認もされずに消されてしまうくらいのことは日常茶飯事だった。自分が嵐に関して言われたら絶対嫌がるようなことを、平気でNEWSには言われることもよくあった。

 

高校生になってから、私がテレビ欄を見ていて気になった番組があった。正確なタイトルは覚えていないが、「GHQが漢字廃止を施行しようとしていたときに、どういう経緯で日本は漢字文化を守ることができたのか」という内容だった。ジャニーズは1ミリも関係なかったが、私はそれを面白そうだと思ったし見たいと思った。

その時間に嵐の番組はなかった。しかし母は不機嫌になった。パソコンをいじり続ける母を無視して強引にチャンネルを変えたら、映し出されたドキュメント番組を一瞥して母は「ダサッ」と吐き捨てた。今考えてもジャニーズの方が漢字文化よりよっぽどダサいと思う…。

 

 

 

なぜ自分がいまだに嵐を好きでいられるのかちょっと不思議なくらいだ。

なんなら、嵐がいなければ私の反抗期はもう1年か2年は早く終わっていた自信まである。櫻井さんが我が家にもたらした影響はそれほど甚大ですさまじかった。もちろん、何もかもが悪かったわけではない。黒船来航前に比べれば随分と自由度は上がったし、妹は私と姉に比べればかなりドラマなども見ながら育つことができた。

ジャニーズのおかげでテレビを見れるようになって好きな役者さんもできたし、嵐はそれでもやっぱり面白いし、何より上京してからいろいろどうでもよくなった。母は母なりに色々大変なんだろなあとも少しずつ分かった。

 

 

だからまあ、今では悪くなかったんじゃないと思えている。

思えているのに、なぜ今さらこんな記事を書いているのか。実はこれまでの経緯は、私にとっては笑い話だ。

 

 

 

母が嵐のファンクラブに入会してから6年、いまだ一度もコンサートに当選していない。

 

 

 

 

 

母が生でアイドル翔くんを拝める日は来ないかもしれない。これをきいた瞬間今年の帰省で一番血の気が引いた。

 

 

 

嵐やばすぎる。みなさん布教は計画的に。