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英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

些末な思い出と死に方の話

 

些末な思い出の話をしたい。めっちゃ私的。24時間テレビスペシャルドラマの話をさらっとちょこっとしているので、未視聴でネタバレが嫌な方はちょっと注意。あと全体的に暗くて重い。

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに24時間テレビを少しだけ見た。普通の社会人の顔をする増田さんはちゃんと普通の大人に見えて、なんだか変な感じがした。途中で仕事辞めちゃったけど。笑

冒頭いきなりお葬式から始まったのでどう考えても諒平くんが死んでしまうのはわかりきったことだったが、それがわかっていても悲しいものは悲しい。痛いものは痛い。わずか17歳で病気になって、1年も闘病して、歩けなくなって髪も抜けてぼろぼろに痩せて力尽きて亡くなってしまうなんて、どう考えたって悲しい。

 

でも、見ていて、こんな風に死にたいなあと思った。どうせ死んでしまうなら、私は病気で死にたい。ある程度の期間闘病してぼろぼろになってやせ細って死にたい。

 

 

多分私はずっと、8歳の頃からずっと、突然死んでしまうのが怖かった。

小学2年生の春、祖父が交通事故に遭った。日課だった朝の散歩をしていたところを車に撥ねられた。即死でこそなかったが事故の瞬間には意識を失い、そこから約24時間意識が戻ることは二度となかった。祖父は事故の翌日にはそのまま逝ってしまった。事故を知らされてから、実の娘である母だけが関西に行き、私たち姉妹と父は関東に残っていたので死に目には会っていない。「おじいちゃんは脳死状態だ」と姉と二人で聞いて、家にあった『家庭の医学』という辞典か何かでノウシという聞きなれない単語を引いたのをぼんやりと覚えている。祖父が助からないらしいことはなんとなくわかった。

「祖父の怪我のことを考えたら、事故から1日も命があっただけでもありがたいこと」と誰かに言われた。「お別れを言う時間があっただけでも幸運なんだ」と。意識のない人に言うお別れに、どんな意味があるんだろう。

奇しくも祖父が亡くなったのは私の誕生日だった。事故の前日に誕生日祝いをしてもらっていたが、訃報を聞いて同じく関西にある父の実家に行ったらケーキを用意してくれていて、8歳の誕生日は2回お祝いをしてもらった。

 

祖父は健康な人だった。事故に遭ったその日は、定期的に開催していた「1日10000歩歩く日」だったらしい。几帳面な人でもあった。亡くなってから一度だけ見せてもらった手帳には予定が事細かに書き込まれていた。厳しい人だった。北陸出身だった彼は大阪に住んでいたくせに大阪弁が嫌いで、娘たちが喋るのを嫌がった。だから私の母と叔母は、大阪生まれの大阪育ちのくせにほとんど大阪弁を話せない。祖父は不運な人だった。当たり所が少し違えば足を折るくらいで済んだかもしれなかった。

祖父を殺した人は善良な人だった。今まで事故を起こしたことも目立った違反をしたこともなく、事故後にはすぐに通報をし、裁判の時にはずっと頭を下げていたらしい。家庭もあった。彼に実刑はつかなかった。

祖父は死ぬような人ではなかった。健康で厳しくて元気で几帳面で、多分誰も彼の死を想像したことなどなかったのだろう。誰も覚悟などできていなかったのだろう。

 

突然夫を亡くした祖母は壊れてしまった。一番何もかもを受け入れられなかったのが祖母だった。納骨さえ嫌がって、随分長いこと遺骨は大阪の家に置いたままだった。

実を言うと、この頃どんなごたごたが起きていたのかをいまだによくわかっていない。私はわずか8歳で、そういう色々を教えてもらえるような歳ではなかったし、そのうち母方の親類縁者との付き合いはほとんど絶えてしまった。あれもこれも何もかも揉めて、夫の死を受け入れられなくて、祖母はうつ病になったらしい。「らしい」というのは、それが本当かを私たちは知らなかったからだ。母はそれを信じていないようだった。

鳴り響く電話が怖かった。祖母が何度も何度もかけてくる電話を母は決してとらなかった。電話が鳴るとナンバーディスプレイを見て、それが祖母からだったらただじっと鳴りやむのを待つ。うっかり電話をとってしまうと、それが私たち家族の誰であっても構わずに祖母は助けを求めた。今ならわかる。あれはSOSだったと頭ではわかる。でも、10歳にもならない私には、「私が死ねばいいんでしょう、私に死んでほしいんでしょう」と訴える声を受け止める器などあるはずもなかった。私の3つ下の妹に対してさえ祖母はそんな調子だった。怖かったし憎かったしわからなかった。

祖父が死んで、私の家は普通ではなくなってしまった。祖母の押し付け合いの挙句親戚には半ば縁を切られた。祖父の墓参りを最後にしてから何年経つのかさえ分からない。関西在住だった叔母は、実の母であるはずの祖母に家がばれることを極端に恐れていて、半年に一度は住民票を移していた。6年ほど前に北陸に住んでいた祖父の母(私の曾祖母)が亡くなったとき、姉と叔母は葬式に参列したが母はしなかった。母たち姉妹はかわいがってもらっていたらしいから、行きたかっただろう。けれど行けなかった。頑ななところが、祖母と母は似ている。それから数年後、一度だけ曾祖母の家を訪ねた。親戚に見つかりやしないかとびくびくしながら、母と叔母と姉と妹と、住む人を失って荒れ果てた家を見た。

今、祖母は大阪にある老人ホームにいる。その前は、私たち家族が知らないうちに精神病院の閉鎖病棟に入院していた。入院していることを知ってから、一生懸命話し合って、昔よりほんの少しだけ『普通』に近づいたけれど、きっとここが限界なんだろうなと思う。時々お見舞いに行く。時々手紙を書く。本当は、祖母を愛しているのかよくわからない。手紙にいつも書く「会いたい」という言葉は多分嘘だ。

 

 

あの頃からずっと、死が怖かった。何もかもを変えてしまう死が、突然訪れるそれが多分怖かった。

 

 

父方の祖父の肺の病気が発覚したのは私が小学校高学年の頃だった。苦しいときも弱音を吐かないのが男らしさだと思っているような人で、わかった時にはもう手遅れだった。入院しても祖父はしっかりしていて、頭だけはかなり最後の方まできちんとしていた。祖母も気丈にしていて、何度もお見舞いに行った。最後にお見舞いに行ったとき、祖父母の家から病院に向かう道で父に「おじいちゃんに会えるのはこれが最後だよ」と言われた。そこから2週間も経たずに祖父は亡くなった。それでも祖母は気丈だった。私たち家族と祖母の間に何かしらの亀裂が入ることなどなく、法事にも滞りなく出席することができた。おばあちゃんはすごいと思った。

 

 

そんな気丈だった祖母が亡くなって、来年でもう丸2年だ。

膵臓がんだった。見つかった時にはもう…というよくある膵臓がんだった。自分の死期を知ってなお気丈な人だった。

一応手術もしたけれど駄目で、いわゆる『開いて閉じるだけ』の手術になってしまった。祖母はどんどんどんどん痩せ細っていった。太り過ぎを医者に注意されるような人だったはずなのに、会うたび小さくなっていった。それでも祖母はずっと、本当に死の間際まで、祖母のままだった。

亡くなる3か月ほど前に、祖母は傘寿の誕生日を迎えた。祖母の希望で割烹で誕生日会を開いた。誕生日会と銘打ってはいたけれど、本当のところはお別れ会だった。付き合いの深い親戚と、女学校時代からの友人を数人招いて、その日の祖母は綺麗にめかしこんでいた。「今日は集まってくれてありがとう」「皆さんご存知の通り私は病気になりました」「今日は楽しみましょう」そんな感じのことを冒頭に話して、たくさん写真を撮った。

 

それからも亡くなるまで、暇を見つけては関西まで通った。孫の中でピアスの穴が開いているのは私だけなので、祖母のお下がりをいくつかもらった。たくさんの思い出話を聞かせてもらった。お正月を迎える頃には祖母は完全に弱ってしまっていて、話をしながら時折涎を垂らしてしまっては気まずそうにこっそり拭っていた。

父が小さい頃とても頭がよかったこと。地元の国立大学を目指していたのに友達が東京に行く人ばかりで自分も東京に進路変更してしまったこと。挙句浪人した上に予備校を勝手に辞めたこと。お見合いで私の母を初めて見た時美人でびっくりしたこと。女学校を出て服飾の仕事に就いたのに、結婚が決まっていた祖父がそれを嫌がって辞めさせられたこと。「だからね、『それなら辞めますけど絶対稼ぎませんからね』って言って、本当に10円稼いだこともないの」と笑いながら言っていた。それから、戦争で死んでしまった姉の話。二重の美人さんで、家族で唯一一重だった祖母は容姿がコンプレックスだったこと。「湯坂ちゃんも3人の中で1人だけふたかじゃないから同じだね」と、「私も自分のひとかが本当に嫌だった」と、似ていることを喜んでくれた。正直そこは似たくなかったよおばあちゃん…。

 

一番一番泣いたのは、ずっと持っているポーチから小さな紙を取り出して見せてくれた時だった。一切の延命措置は望まない、苦痛を感じるようになったらそれを減じる最大限の処置をしてほしい、それが命を縮めるような麻薬の類でも構わない、と自筆で書かれたその文字は祖母の字で、祖母は強くて、でももうすぐ死んでしまう人だった。阪神淡路大震災を経験してから肌身離さず持ち歩き氷砂糖やチョコレートを入れていたポーチの中に紙が1枚。

最後にお見舞いに行った日、私が着くほんの少し前に祖母は痛みを訴えだしてモルヒネ投与が行われた。話をすることもできないまま帰った。

結局次の日の明け方に祖母は亡くなった。

 

驚いたことに、葬式の段取りはすべて決まっていた。業者も進行も、着る服から遺影から流す曲にいたるまで事細かに決めてから祖母は逝ったのだった。棺の中に思い出の品々を入れるとき、その中に私が昔あげたティッシュケースがあった。ヘッタクソな字でガタガタに祖母の名前を刺繍した、フェルトで作ったそれを入れるとき、めちゃくちゃ泣いた。お葬式でもお通夜でも泣いて、泣いているけど実感もなかった。なんだか非現実的だった。父なんか、少なくとも5回は「実感わかない」って言ってた。わかなすぎだろう実の息子よ。

 

 

親戚が集まって食事をしながら、皆が口々に「こういう風に死にたい」と言った。私もそう思う。心底思う。

「死ぬなら老衰がいい」「寝ている間にぽっくり」「苦しまず安らかに」っていう気持ちもわかるけど、そりゃあ苦しいのなんかいやだけど、突然死ぬのはもっといやだ。朝起きたら死んでるなんて、絶対にいやなのだ。

 

死ぬなら病気がいい。発覚してから半年か一年かはもつような病気がいい。自分も周りもみんな私の死を受け入れられるくらいの時間が欲しい。お別れ会だってしたいし祖母のように全部決めたい。

闘病して、ぼろぼろになってやせ細って、死んだときには「楽になれたね」って泣きながら笑われたい。いいんだよ、ありがとう、幸せだったよ、バイバイって周りの人に伝える時間が欲しい。死ぬほど苦しんで、もういいやって思いたい。もういいよって思われたい。

 

 

 

本当はそんなの関係ないのかもしれない。死に方なんて関係なく、強い人は受け入れられるし弱い人は壊れるだけなのかもしれない。そもそも私の祖母が壊れたことと、祖父の死とにそこまでの関連はないのかもしれない。本当は祖母はずっと不安定な人で、祖父の死がなくてもいつかはそれが顕在化していたのかもしれない。(というか、多分もともと遺伝的に精神を病みやすい傾向がある血統なのだと思う)

 

それでもやっぱり、それならなおのこと、どうか突然死ぬことなどありませんようにと思うのだ。弱いかもしれない私の周りの人々が覚悟を決める時間を与えてあげられますようにと思うのだ。もういいよって言ってもらえるくらい頑張って生きようとして見せるから、頑張り切ったら「がんばったね」ってちゃんと褒めてね。

 

 

 

来年は祖父の13周忌、祖母の3周忌です。

ティッシュケース向こうで使ってくれてるのかなあ。天国では鼻水なんか出ないかな。笑

 

 

 

山田さんも増田さんも井ノ原さんもお疲れ様でした。