英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

優しくあるためにこころとあたまを授けられたのだ――『ドリアン少年』問題によせて

 

 

前記事でも長々と考察を垂れ流しましたが、今日はジャニオタとしてではなく現代社会に生きる日本人として、ドリアン少年問題について感じたことです。

あんまりドリアン少年もNMB48も関係ないんですけど、なんだろうな、自分たちが生きる社会の価値観の変遷について思ったこと、みたいな感じ。投稿する場所を間違えている気しかしないけどほかに場所も思いつかないので。あと書かないと忘れるし。

 

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herodontsing.hatenablog.com

 

 

の前に、ジャニオタとしてもちょっとだけ『若さと容姿は氷の剣』についての補足を。

書いたつもりだったのに読み返したら忘れてたーー。

 

 

「アイドルはかわいそうなのか?」「かわいそうだとしたら、(かわいそうな仕事をしているときの)アイドルを応援するのは間違ったことなのか?」という問題に関して。

 

私は、人間が若さや容姿といった一過性の魅力(=氷の剣)で戦うことには何の問題もないと思っている。前記事で言ったらダイニングバー店員としての私が、お客さんが感じるストレスへの対処法として女性らしい愛嬌あるふるまいで彼らの心の許容範囲を広げてもらうみたいな、そういう話だ。この時私は自分を偽っているかもしれないし、決して自分にとって性的対象ではない相手に性的にまなざされているかもしれない。そしてそれは私にとって快い経験ではなくて、だから私はかわいそうかもしれない。けれどこの時私は、その自分の『かわいそう』に見合うだけの利益・快をきちんと得ている。

つまり、何らかの意味で誰かに一過性の魅力を『消費』されているかもしれないが、同時に氷の剣でもって相手を『切り倒して』いるのである。RPG風に言えば、モンスターを攻略して経験値なり素材なりを得ているわけだ。別にお客さんのことガノトトスだとかメタグロスだとか思ったことはないけども。ついでに別に不快でもないけど。「そんなふるまいをしなきゃいけない仕事でかわいそうだね」って言われたら、「そうですねえ飲み屋の女の子ってかわいそうですねえ」って返すかもしれないけど、私をかわいそうだと思ってくれる人の心はとても綺麗だけれど、別にだからって全面的にかわいそうなわけじゃない。かわいそうだけどかっこいいし、めんどくさいけど楽しいし、高尚じゃないかもしれないけど崇高だ。だって誰かに楽しい時間を売ってるわけですよ。それってこっちも楽しいよ。ストライクゾーンから大幅に外れた方に「俺、飲食の女の子もアリかも、でゅふふ」とか言われるのが嫌じゃないと言ったらウソになるけどさー。

 

で、アイドルに関しても同じようなことが言えると思っている。

「かわいい」「かっこいい」「抱きたい」「抱かれたい」といった感情を抱くとき、水着の彼女たちに高揚するとき、シャツをはだける彼らに感嘆するとき、私たちは彼らを消費している。けれど、彼ら彼女らを消費するということはそのまま、彼ら彼女らに切り倒されるということに等しいのだ。切り倒されたオタクは、石ころにでも変わってアイドルが歩む道を舗装する。アイドルはかわいそうかもしれないが、そのかわいそうさはアイドルが追い求めるものの一部で、かわいそうじゃないアイドルなんて多分存在しない。かわいそうじゃなくなることがあるとしたら、カメラの向こう側にいる誰にも欲望を向けられなくなって誰の理想の恋人でもなくなって誰にも求められなくなった時だ。そっちの方がよっぽど哀れだし多分それはもうアイドルじゃない。

消費されるのがかわいそう、と言われても、オタクにしてみればそれは消費しているというかきらめきに魅了されているのだ。圧倒的に魅了して、圧倒的に消費されて、圧倒的に快を得て、圧倒的に輝く、というのが全部まとまってアイドルになる。しかも、このそれぞれがアイドルの要素というよりは、どういう価値観で見るかによって同じ現象の形容が違うだけだ。全部、同じこと。

 

りんごを1つ思い浮かべてみてほしい。あなたはそのりんごを「真っ赤で美しい、素晴らしい」と思うかもしれない。逆に「小さいから駄目だ」と思うかもしれない。あるいは「重たくて素晴らしい」「甘くて素晴らしい」「コンポートを作るのに向かないから駄目」「高いから駄目」など、いろんな人がいろんな感想を抱くだろう。そしてこういうたくさんの『素晴らしい』と『駄目』はどれ一つとして不当な評価ではないのだと思う。

私が素晴らしいと思うものを、誰かが駄目だと憐れむかもしれない。でも、甘くて素晴らしいと思う私と、小さいから駄目だと思う誰かとは同じものでも違う視点から見ているわけで、お互いにお互いの感想を否定することはできない。私がどんなに甘さを訴えたところでりんごが小さい事実は覆らない。誰かがどんなに小ささを訴えたところでりんごの味は変わらない。

だから、甘いこと・赤いこと・蜜が詰まっていることを理由に、値段や大きさについて声を上げる人を押しやってはいけないと思うし、逆に値段や大きさについて何を言われようと、甘さも赤さも蜜もそのままほめたたえていいと思う。

『消費されるアイドル』のかわいそうさは私にとってりんごと同じで、だからかわいそうだと認めるけれどかわいそうだと感じはしないしこれからもそれは変わらないだろう。「甘い!めっちゃおいしい!すごい!」と「甘い!コンポート作れねえ!駄目だ!」は交わらないし交わらなくていい。

 

 

「大人の思惑で、鋼の剣を創ることをサポートされずに氷の剣のみを振るわされることがあるなら、剣が溶けたら次の子を探して来ればいいという考えからプロデュースされることがあるなら、そのときこそ本当にアイドルはかわいそうだ」という旨のことを述べたが、これは本心からそう思う。こういう事例が存在するならそれは、自分じゃない誰かの利益のために自分の魅力をいたずらに浪費させられるってことだから。

これの何が駄目って、なにより長期的な目で見た時にアイドル本人に何の利益にもならない。頑張って氷の剣で誰かを切り倒しても、モンスターがゴールドしか落としてくれない状況。しかもそのゴールドが戦った本人以外の人の懐に入るっていう。そりゃー駄目でしょ。アイドルをプロデュースする側の心構えとして0点でしょ。

真っ赤なりんごを育てたいな~って思ってる人が、「大きい方が売れるんだよな~日に当てない方が大きくなるんだよな~」という地主の思惑でりんごに袋をかぶせられるなら、それはまあかわいそうでしょう。自分のりんごの木をそんな風に扱われるのがかわいそうじゃないならなんて言えばいいんでしょう。

でも、完全にこういう状況になることはなかなかない。剣が溶けるまで稼げりゃいいや~って売り出される子は実際いるんだろうなとは思う。思うけど、そのときアイドルが「氷の剣で戦えとしか言われないから氷の剣だけで戦うよ~そうしてほしいみたいだからゴールド落とすモンスターだけ選んで戦うよ~」とはならない。99%ならない。絶対に鋼の剣を創ろうとするし、自分の夢と希望を掴もうとする。そういう自分の『浪費』を迫られる環境で鋼の剣を創るのに苦戦しても、見せたい自分で誰かを魅了しようとし続ける。とにかく自分のため、自分の利益のため、夢のために戦うことはきっと誰もやめない。

まあ私アイドルプロデューサーでなんとなくわかるのはジャニー喜多川さんとつんく♂さんくらいなので、そもそも『完全にお金儲けのためだけにアイドルビジネスを手掛ける人』というのはちょっと想像つかないんですが。秋元康さんにしたって、少なくともAKB48を立ち上げた段階ではそのコンセプトは完全に『鋼の剣養成所』だったわけで。

 

だからまあ結論として、

  1. アイドルは『消費』されるという意味でかわいそうかもしれない。
  2. が、しかし、その『消費されるというかわいそうさ』を理由にアイドルをかわいそうな存在だとする論調には私はコミットしない。
  3. また、『浪費』されることがあるならそのアイドルはかわいそうな存在と言えるかもしれない。(ただ、それは『アイドルがかわいそう』ではなく『かわいそうなアイドルがいる』かな?と思う)
  4. が、しかし、『浪費されること』を無気力に受け入れるだけのアイドルなんていない。
  5. また、『浪費』されようとしているアイドルに対してもそのアイドルを愛するオタクにできることは結局彼ら彼女らの剣で切り倒されることだけ。

 

 

というわけで、私にとってはアイドルを応援するのは間違いではない。犯罪ではない。落ち込みもしない。死なない生きる。以上補足説明終了。

 

 

 

 

 

 

ただ、元記事書かれた方が異議を申し立てているのはおそらく『消費』だけではなく『浪費』も含めたかわいそうさであるように感じる。彼女にとってはアイドルや芸能人、特に女の子の芸能人が肌を晒すのは多分浪費で、そのとき後ろ側にいる大人のことを多分彼女は信用していない。彼女にとっては『ドリアン少年』はそういうどうしようもない世界を象徴するものに思えて、だからああいう記事を書いたのではないだろうか。何事も具体例があった方がわかりやすい。女の友情を薄っぺらく描写する世界にも、女の子を女体として扱う世界にも彼女はずっと憤慨していて、たまたま『ドリアン少年』がその憤慨を言語化してネットの海にぶちまけたくなるレベルにまで押し上げる最後の一撃になっただけではないかと思う。

彼女が抱く問題意識は非常にまっとうなもので、アイドルをきちんと人間扱いする人道的なものだ。アイドルへの悪意はきっとない。

加えて、私が話題にできるのは主にジャニーズ、せいぜいハロプロと48G系列くらいで、それ以外のアイドルのことはほっとんどわからない。こういうある程度大手のところ以外に関しては完全な無知。どんな世界でも小さくて経済的に苦しい人の方が悪いことを考えやすいというか世間体を気にしなくなりがちだ。だから、大きくて華やかな世界しか知らない私が「アイドル、ちゃんと浪費に抗ってるよ、戦ってるよ」と言うことに、大した説得力はないかもしれない。(大手が汚くないかというとそういうわけでもないんですけども)

私の目には見えないけど、世界のどこかには存在するのだと思う。ただお金のためだけに大衆のオカズにされて使い捨てられるかわいそうなアイドルが。それはたとえば無名のジュニアアイドルだったり、本当は歌いたいけどグラビアしかやらせてもらえない子だったり、性的興奮を煽るためだけにつくられたイメージビデオをとらされる子だったり、そういう子たちがきっといる。抗っても抗いきれなくて、あるいは抗い方もわからなくて、ただただ不幸に食い物にされる子が、絶対にいる。そしてそれが、私が見ているキラキラの世界と地続きであることは真実だ。

 

 

 

というわけでここから本編です。

アイドル関係なくなるので、興味ない方はここまでで大丈夫です。

 

 

 

 

「かわいそうだと言う人がいるから、かわいそうな存在になってしまう」「かわいそうだと言うことは失礼だと思うから言わない」「かわいそうと言うとき、私たちは彼らの魅力をくすませている」というような意見をちらほら見かけた。

これも一つの事実で、世の人々の大多数がかわいそうだと思うものは、そのうち本当にかわいそうになってしまう。だからかわいそうがらない、というのは一つの考え方だし、アイドルに関しては現状間違ってはいないことかもしれない。

 

けれど、『「かわいそうだ」と言うことでかわいそうになる』ということは、裏を返せば『だれも「かわいそうだ」と言わなければかわいそうにはならない』ということだ。だから私たちは、かわいそうなものには「かわいそう」という、おかしいものには「おかしい」というレッテルを正しく貼らなければならない。なぜなら、誰かがかわいそう/おかしいと言わなければ、『そういうもの』として見過ごされ続けてしまうから。かわいそうなままの現状がずっと続いてしまうから。私たちが今、普通のことだと思っている何か、そういうものだと思っている何かのせいで、大変な生きづらさを抱えている人がいるかもしれない。いつかそんな人を救えるとしたら、その救済の始まりは「かわいそう」「こんなのおかしい」というレッテルを貼ることなのではないかと思う。

 

 

小学生の頃、紫式部の伝記漫画を読んだ。その中で今でも印象に残っている台詞がある。夫との仲がうまくいかず落ち込む式部に、召使の女の人が言うのだ。「女は一という字も読めない振りをした方がかわいいと思われるのですよ」と。すげー時代もあったもんだな、と思った。なんだ馬鹿な方がかわいいって。あと、もっと本筋追えよな小学生の私。

纏足という風習を初めて知ったとき、唖然とした。まともに歩く能力を失ってまで小さくした足が美しいなんて、よろよろ歩く様がかわいらしいなんて、馬鹿みたいだ。臭いが性的にそそるというのは理解の範疇超えるし置いておく。

それから黒人と白人の話とか、国のために死ぬのが正しいとか、ほかにもいろいろ、歴史を少し振り返れば、歴史なんて壮大なスパンじゃなくてほんの数十年振り返るだけでも、今生きている私たちが「馬鹿だな」「かわいそうだな」「おかしいな」と思うような事例は腐るほど出てくる。

そういういつかの『常識』が今の非常識になっているのは、誰かがそれを変えようと奮闘した結果だ。

 

それが『常識』だった頃、何の疑問も持っていなかった人もたくさんいたはずだと思う。

平安時代の女性たちは、「男は漢字覚えなきゃいけなくて大変だなあ、女に生まれてよかったなあ」と思っていたかもしれない。漢族の女性たちは、「私の小さい足まじセクシー最高」と思っていたかもしれない。「人間て生まれながらに優劣があるんだな」「自分の命は国のためにあるんだな」「小説なんて和歌に比べたら低俗だから子供に読ませないようにしなくっちゃ」って、そういう現代の非常識を『そういうもの』だと思って大多数の人が生きていたはずだ。

 

 

それが変わったのは、いつか誰かがおかしさに気づいたからで、声を上げたからで、行動に移したからだ。だから、世の中には、私たちが生きている今はまだ声を上げる人がいなくて放置されたままの『おかしさ』『かわいそうさ』が、本当はゴロゴロあるのかもしれない。私たちにとっての常識のいくつかは、いつか非常識になるかもしれない。

もちろん、それを言い出したら私たちの認識も価値観もすべて不変のものではないわけで、とらわれすぎたら身動き一つとれなくなってしまう。信じられるものなどなくなってしまう。けれど、それを見て見ぬ振りするのも違うんじゃないだろうか。

 

誰かが何かについて「かわいそうだ」と声をあげたら、「おかしい」と疑問を呈したら、それが自分と全く違う観点からの見方で自分の価値観と交わらないものでも、検討してみるくらいのことはした方がいい。誰かが確かに傷ついているかもしれないし、ひょっとしたらあなたを少し生きづらくしているかもしれない。

私たちはいつか未来の人々に、私たちが平安時代の人々や漢族の人々を見るような目で見られるかもしれない。「女体扱いされたって、本人が納得づくで得もあるならいいじゃないか」という主張が、「男性が休暇をとって育児に励むなんて言語道断」という声と同じように奇異なものだと捉えられる日がいつか来るかもしれない。未来だなんて遠い話じゃなくて、5年後10年後には何かが変わるかもしれない。

 

 

 

私たちは、自分が生きる時代のおかしさやかわいそうさには、きっとなかなか気づかない。だってその中で育ってきて、それがフラットな状態だと思って生きているのだから。でも、そうじゃないかもしれない。私たちが今この日本で男女の別なく文字を読み文学や漫画を楽しめることは、昔の誰かにとって想像もつかないユートピアだったはずだ。上司に性的な言動でからかわれることは、十数年前はOLにとって仕事の一部だったかもしれない。それと同じことが、多分今でもたくさんある。今フラットだと思っている状態をマイナスだと捉える見方が主流になったら、私は少し生きやすくなるかもしれない。

それをかわいそうだと言われることを当人が嫌がることもあるだろう。でも、かわいそうだとレッテルを貼ることで、かわいそうなものだと貶めることで、それが普通じゃなくなるかもしれない。それが普通じゃなくなった世界は、今より少し優しくて、今より少し生きやすいかもしれない。

 

だから私は、『ドリアン少年』を引き合いに出して女性のあり方に異議を申し立てた彼女の主張を、それなりには検討したいし、説得力についても考えたい。アイドルオタクの私にとって、アイドルがかわいそうな存在になることは今後もないだろう。けれど、現代社会に生きる人間として、本当にそれでいいのか考える必要はあるんじゃないかと思うのだ。

今『そういうもの』だと思っていることを本当に『そういうもの』のままにしておいていいのか、今の頭で考えた方がいい。その結果、「それでいいだろ」って答えが出るなら、それでいいから。考えることもなしに『そういうもの』だと受け入れてしまうことは、きっと私のためにならない。せっかく、理性があって伝達手段を持っていて環境を変えて生存してきた生物、人間に生まれ落ちたのだから、その利点を存分に活用した方がきっと楽だ。

数世紀後まで変わらない、数千年後も変わらない価値観もきっとある。今に生きる人間には全然おかしく感じられないものごともきっとある。けれど今の当たり前の中には、そういう変わらない常識に紛れて『今考えてもおかしいこと』が1つくらいはあるかもしれない。それを見過ごさないことで、自分が救われるかもしれないから、誰かを救えるかもしないから、ちゃんと考えたいと思う。レッテルを貼ることが優しさになるかもしれないことを、心の片隅にとどめておきたい。「意外と世界は、お前にやさしいよ」って、私が私に胸を張って言えるように。

 

 

 

まああれですね、1つ言えるのは、これここに書くことじゃねえな、っていう。そろそろもっとハッピーなこと考えよう。