英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

存在の必要と不在の不要/人間増田貴久論


NEWS QUARTETTOツアーのマイ初日とマイ楽(という名の前楽とオーラス)が終わりました。あーーーーーNEWSが好きだなああああああ。明日もこのコンサート入りたいなああああああああ。と思いながら日常生活へとご帰還です。余談ですがオーラス翌々日から出勤時間が30分早まりました。つら。笑

さて。

前回のNEWS whiteツアーは、彼らが物語を脱ぎ捨てて初めてのツアーでした。復活コンサートじゃないし、アニバーサリーコンサートでもない。NEWSが創るエンターテインメントを楽しませるためのコンサート。個人的な印象としては、まぁなかなか好評だったかなあと。
そして今年、NEWSをとりまく環境は去年と明らかに変わって、セトリも結構な方向転換で、なんとカップリング曲ゼロ。去年はつなぎのなめらかさが巧みだったけど、今年は曲順のびっくり箱感が楽しかった。まさかLIS’Nの次Touchだと思わないじゃん。高低差で耳キーンどころか心臓ギューーーン。
たくさん考えたんだろうな、去年より前に進んでるんだな、って思えるところがたくさんあって、来年は東京以外のドームでもやってほしくて(なんせ今年アリーナ激戦過ぎたし笑)、でもそういうこと全部置いといて、もう増田さんしかみえなかった。

増田さん。

時をかける少女の話で、「俺も出してよ」って言った増田さん。変ラボの話、サバンナの話、ちょっと痩せた顔、自信満々の衣装。
生で、この目で見て改めて、ああこの人は変わりたいんだなあと思った。変わりたいって思ってるんだ、変わりたい気持ちを隠すの辞めるんだ、現状維持じゃ嫌なんだ、って思ったら、もう泣きたいくらいこの人が好きだった。私の自担が「存在の必要が欲しいです」ってカードを首からさげる日が来るなんて信じ難いけど、信じられないことにこれは現実なのだ。

 

・ニュースキャスター、エンターテイナー、ライター、スマイル、スーパーマン
NEWSが4人になって少し経ってから、『NEWS』の4文字にメンバーをあてはめたら、という話がNEWSファンの間で盛り上がってラジオでも取り上げられた。
N ニュースキャスター
E エンターテイナー
W ライター
S
小山、手越、加藤と職業(エンターテイナーが職業かは微妙だが世間への浸透度はばっちりだ)が続くのに、Sの増田さんにファンが贈れた言葉は「スマイル」「スーパーマン」だった*1。確かメールで取り上げられたのはスタイリストだったのかな?「俺だけ裏方じゃんw」と増田さんは笑っていた。
その後NEWSには□♡▽○っていう超イカしたロゴが出来て、増田さんはSの人じゃなくてWの人になって、だけどやっぱり何の人でもなかった。スタイリストタカヒサマスダではあったけど、それがほかのアイドルと一線を画すかというとそうではなくて、まぁ大体のアイドルはある程度までいったらメンバーの誰かが衣装プロデュースを担うし、すごいけど武器にできるほどって印象は正直なかった。好きだったし誇ってたけど、NやEやSには及んでいなかったと思う。でも増田さんは笑っていた。シュールなギャグで滑り倒しながら、変わらないクオリティのパフォーマンスを披露し続けてくれていた。
歌とダンスなら全然誰にも負けてない。アイドルとして足りないところなんてなかった。彼を好きになった人をがっかりさせない実力があったと、どの瞬間をとっても断言できる。


・「なのに」の人と、「だから」の人
だけど増田さんには、やっぱり何もなかった。「アイドルなのに○○」がなくっちゃ翔んでいけないこの世界で、増田さんには何の武器もなかった。「アイドルだから」なら負けてないのに、「なのに」の世界ではリングに立つことすら出来ていなかった。
それはどんな気持ちだったんだろう。私はテゴマスの、「こいつにだけは絶対負けたくねえ」と思っていそうなところが大好きだ。6人時代からずっと2人はそうだった。永遠にいたちごっこをしてるみたいな顔をしながら、本当は増田さんは負けていた。勝負が始まってすらいなかった。
小山さんや加藤さんが足掻いてもがいて泥臭く戦っているのに、増田さんのゴングは鳴らなかった。違う、鳴らせなかった。
でも彼はそれを、悔しいとか焦ってるとか、そういう素振りを一切見せなかった。ゴングを鳴らせていないのに、鳴らないだけみたいな顔をしていた。俺の戦場じゃないからグローブはめないだけだよって、そのチャンピオンベルトなんか目指してないよって、そんな顔でそこにいた。
増田さんをみながら、心の片隅で「これでいいのかな」と思っていた。でもその思考の欠片を言葉にすることは私にはできなかった。ただ戦ってないだけだからって思っている間は負けじゃない。戦ってないから勝てはしないけど、でも負けもしない。「だから」で勝負してるでしょって、「なのに」なんて要らないよって、だから平気な気がしていた。


・あの日から
増田さんは大変見栄っ張りでとってもかっこつけで弱味をみせるのが大っ嫌いだ。ほんとは全然大丈夫じゃないのに、自分相手にさえ虚勢を張ってこの4年を過ごしてきたんだろうなと思う。
それを1番痛烈に感じたのが去年の10,000字インタビューだった。2011年のあの日からを3人が誇る中、増田さん1人だけが「これでいいのかなって思っていた」と思いも寄らない心情を吐露していた。この気持ちはたくさんの想いが重なった複雑なものなのだろう。忘れられるリスクをとってでもクオリティにこだわって始動を遅らせるか、何を武器にするのか、2人の脱退をどう扱うか、トンチキ?エモーショナル?どんな曲でいく?考えなきゃいけないことが満載で、その一つ一つが迷いの理由だっただろう。だけどそのたくさんの思考の中に、「俺はこれでいいのかな」も絶対あった。「俺はこれで戦っていけるのか」って、誰にも言えずに考え続けていたはずだ。これでいいって思ってる、思えてる、だけどほんとにこれがいいのかな。「これで」じゃなくて「これが」って思えないまま、その時その時の全力を発揮しながら走ってきたのかなあって、あのインタビューを読んでそう思った。

 

・存在の必要と不在の不要
何度でもいうけど、増田さんの存在がNEWSにとってマイナスに働いたことはないと思う。彼自身も、迷いながらも「これでいい」と思いながら進んできたんじゃないかと感じている。歌唱力の面では間違いなく主力だし、衣装だって評判悪くないし、メンバーの中で取り立てて人気が低いなんてことも多分ない。増田さんがいて迷惑なことなんて何もなかった。足を引っ張ってるなんてこともなかった。いて駄目なことなんて、一つもなかった。
だからいいんだ、これでいいんだって、ファンにも自分にも一生懸命言い聞かせていたんじゃないだろうかと、ここ半年の増田さんをみていると苦しくなる。いて駄目な理由なんて一つもない。いなくならなきゃいけない理由なんて全くない。でも、本当はきっと、いなきゃいけない理由が欲しかった。
手の中にあったのは不在の不要だった。いなくなる必要なんてどこにもない。貢献してないなんてことはない。だけど、「ここにいていいよ」で満足できる人なんて、この世界じゃやっていけるわけないのだ。その程度の欲しかない人が、ここまで来れたわけがないのだ。大器晩成型だから、運命のいたずらでデビューできたようなもんだから、山下くんと錦戸くんがいるから……そう言い聞かせて生きてきて、現状維持を銘にして、そうして気づいたらメンバーが「存在の必要」を手に入れていたとき、どんな気持ちになっただろう。
「いてもいいよ」と「いなきゃ駄目だよ」を目の前に差し出されて前者を掴む人なんていない。みんな誰だって、不在の不要より存在の必要が欲しい。喉から手が出るほど欲しいのに、欲しがっちゃったら自分が自分じゃなくなるような気がしていたんじゃないかって、それを欲しがる増田貴久なんて増田貴久じゃねえんだよって、そう思っていたんじゃないだろうか。
何もないなんてことないんだよ。ファンは本当にあなたが好きだよ。あなたじゃなくっちゃ嫌。あなたでいいんじゃなくてあなたがいい。だけど、あなたに「存在の必要」が「何もない」ことも確かに一つの事実なんだ。
増田さんはまだ、欲しがることを始めたばかりだ。欲しいものはまだ全然見えなくて、掴めるかどうかもわからない。それでも、欲しいと口に出せただけで大きな大きな一歩なのだ。喉から手が出るほど欲しいものを、なりふり構わず欲しがることは、本当はとても難しい。特に増田さんにとっては、手に入れるより欲しい気持ちを表に出すことの方が高いハードルだったかもしれないとすら思う。これから先、欲しいものが見つかるのかを私は知らない。存在の必要は誰だって欲しいけど、簡単には手に入らない。それでも。

それでも、欲しがるという一歩を踏み出せただけで、増田さんは格段にかっこよくなった。去年の今頃とは見違えるほど。
これから先も、変ラボでキャラがないキャラ扱いされる度私の心臓はキリキリ痛むかもしれない。増田さんが満足できるほどの「存在の必要」なんて獲得できないかもしれない。だけど大きな一歩なんだと、QUARTETTOツアーの増田さんは一秒も目が離せないくらいかっこよかったと、世界中に向かって叫びたい。
頑張ろう、頑張れ、頑張れるよ、頑張る。

この人が好きだ。息をして、悩んで、挑んで生きていくこの人が。目の前で生きているこの人が、大好きだ。

*1:スーパーマンは増田さんのソロ曲由来

私がJr.なら尊先はきっとKAT-TUN

こんばんは、お久しぶりです。ご縁があって、5月1日KAT-TUNの10ks!コンサートのオーラスに参戦してきました。本編ラストの挨拶で初対面のフォロワーさんに縋り付きそうになるくらい泣いて、たくさん叫んで最後は笑って、まだ熱が冷めやらぬ思いです。(嘘です流石に我にかえりました。)

というわけでコンサートの感想書くと思うじゃん?書かないんだなこれが。
なんかもっとざっくり、KAT-TUNかっけ〜〜って話をしに来たよ。


・アイドルソングと王道と覇道
今回わりと早々にKAT-TUNコンに行く決意だけは固めていたので、アルバムの方の10ks!もほぼ発売日くらいには購入した。hyphen select盤がついている赤いやつである。それを聴いてびっくりした。

好きな曲が、いっぱい、ある。

すごい曲やいい曲、かっこいい曲がたくさんあるのは流石に知っていた。しかしそうではない。『私の好みの曲』が意外なほどたくさんあったのだ。GOLD、PERFECT、Will Be All Right、ハルカナ約束……
これらの曲を知っている人ならもう言わなくても分かるだろうが、私はアイドルソングが大っ好きだ。これまで、「KAT-TUNで1番好きなのは喜びの歌」と公言していたし、それだけはシングルも持っている。嵐のOh Yeah!とかHey!Say!Jumpの明日へのエールとか、あとはJr.曲のHappy Happy Lucky Youやララリラなどの明るくてアイドルが歌ってそうな歌が大好きだ。
そういう曲がいっぱいあった。こんなにあるとは思っていなかった。Disc1、2には私が知っている通りのKAT-TUNの曲が並ぶ中、Disc3だけキラキラしていた。ファンが選んだ好きな曲がこうなるなんて、KAT-TUN=かっこいいだと思ってたのは何なんだろうなって少し思った。
そりゃあ、当たり前だ。かっこいい曲しか歌わないグループも可愛い曲しか歌わないグループもないし、ポップな曲しか歌わないグループもバラードしか歌わないグループもない。You&J時代でも、関ジャニ∞にはかっこいい曲もあったしかわいい曲もあった。NEWSにだってかっこいい曲も暗い曲もあった。それと同じことだ。それでもなんだかびっくりした。多分、キラキラした曲の存在にびっくりしたわけじゃない。それでもずうっと私の中でKAT-TUNがかっこよかった、という事実に改めて驚いたのだ。
KAT-TUNが歩んでるのは、ほかとは違うけどめちゃめちゃ強い覇道だと思ってたのに、彼らは案外王道にもいたらしい。全然こっち側にもいたらしいのに、あんなにも強く強く『打ち破っていく側』オーラを出していたKAT-TUNどうなってやがる、と感心した。

 

・だけどやっぱり覇者でした
1階スタンドほぼどセンター前から14列目、というサイコーの席から観た(回数入れるなら天井からもみたかったしアリーナにも入れるもんなら入りたいけども)KAT-TUNは、そりゃあもうかっこよかった。NEWSコンがデートだとしたらKAT-TUNコンはベッド、とかいうけどなんかもうそんなんじゃなくて、圧倒しに来た人たちと圧倒されに来た人たちの殺戮ショーみたいだった。見下ろしてるはずなのに見上げてるみたい。NEWSコンの私が1人×55,000だとしたら、KAT-TUNコンの私は1人/55,000だった。今のNEWSのコンサートは多幸感で圧殺される感じなんだけど、KAT-TUNは攻撃的な限界突破で殴り殺される感じ。結果何見てもわりと死ぬ。
あーーーかっこいいーーー!!!って何度も思った。死ぬほど思った。満足感じゃなくて、満足のもっと上を内臓に直接叩き込まれてるみたいだった。大事な10周年で、エモーショナルな要素がなかったわけじゃない。私が好きになったきらきらした曲も満載のセトリだった。それなのにやっぱり、可愛いよりもきらきらよりも王道よりも何よりも、覇者だった。強くてかっこよくてとまらない男の人たちがいた。
なんだか安心した。私が憧れていた通りのKAT-TUNが、羨んでいた通りのKAT-TUNがちゃんとそこにいる。きっとそれだけはずっと変わらない。今までもこれからも彼らはずっとずうっとKAT-TUNなんだろう。

 

・そうは言っても泣いたけど
本編最後、中丸さんが泣き出して、みんなバラバラのところから出ていくはずが全員でぎゅうっと固まったとき、耐えられず泣いた。その日が初対面だった同行者さんにすがりついて泣いた。なんで泣いてるのかももうよくわからなくて、かなしかったのか悔しかったのかさみしかったのか今でもわからない。あの瞬間、広い東京ドームが啜り泣きに満ちて、演者と観客と双方の感情がぐわんぐわん揺れた。

10年。

いろんなことを経験して、何度も道を別ってきて、そうして辿りついたあの東京ドームにエモーショナルな要素を全く持ち込まないなんてそんなこと出来るはずない。観客にも演者にも無理だ。それは流石にKAT-TUNだって例外じゃなくて、悲しい悔しい嬉しいさみしいありがとう好きだよありがとう!って、きっとみんな心で叫んでた。いいとか悪いとかじゃなくて、そうすべきだったすべきじゃなかったとかじゃなくて、ただそこに55,003人の感情が溢れていた。
あそこは私のホームでも何でもないのに明日にでもあの場所に帰りたかった。次のコンサートにも絶対に行きたかった。そう思わされた要因に、あの感情の爆発が全くなかったと言ったら嘘になる。物語を物語らないことに定評のあるKAT-TUNだけど、あの日は無弁ではなかったように思う。


・ここから本編--カッコイイオトコノコ
さて、前置きが長くなったが、今日の私は別にKAT-TUNのコンサートの話をしたいわけではない。彼らがかっこいいという話をしたいのだ。
去年初めてNEWSを生で見て、ほんとうに心の底からあの場所に立ちたいと思った。「私が10歳の少年で、あのステージを見たならば、今すぐにでもあの場所に立ちたくてたまらなくなっ」ただろうことにはほんとうに自信がある。でも。

でも、もしも本当に私が10歳の少年だったなら、私はきっとNEWSには憧れなかっただろう。もしも私が10歳の少年で、なんだかよくわからないけどお姉ちゃんとかクラスの女子とかのすすめでジャニーズ事務所に入ったなら、絶対絶対ぜーーーったい、私はKAT-TUNの誰かに憧れたと思う。
女の子にきゃーきゃー言われるためじゃなくて、自分がかっこいいと思える自分になるために生きているようにみえるKAT-TUNに、心の底から憧れただろう。
私はそれがずっと眩しくて羨ましくて妬ましくて、その気持ちを8年抱えたままNEWSのファンでいる。


・かくも彼らはかっこいい――心と脳と屁理屈と
Hey! Say! JUMPはかっこいい。と、私は思っている。ふざけているわけでも馬鹿にしているわけでもなく、可愛さを武器にする今日も彼らはかっこいい。それがどんな種類だろうと、何らかの刃を振り抜いて戦うことを決めた人は誰だってかっこよくて愛しい。
カワイイを武器にして研ぎ澄まして、世界全部を切り裂いて進んでいく。それを武器にするって決めてるところ、その武器の切れ味に本気なところ、すごくすごくかっこいい。9人で一糸乱れぬダンスが踊れることを知っている。それを武器にするために実力がバラバラなメンバーが相当な努力をしただろうこともなんとなくわかる。彼らは十分にかっこいい。この世界で戦っていけるくらいのかっこよさをちゃんと備えている。それでも、それでも『カワイイ』を選んで躍進していく姿がかっこよくないわけがない。
本気でそう思う一方で、私のこの気持ちは『脳で感じるかっこよさ』だなあとも思う。思考というフィルターを通して初めて分かる類のもの。彼らをほんの少し知っていてほんの少しみているからこそ分かる。優劣なんかどこにもないけど、どっちがいいとかじゃないけど、KAT-TUNとはちょっと違うのだ。
KAT-TUNに感じるかっこよさに脳はいらない。脊髄が震えるかっこよさ。
それってすごく、すごいんじゃないのか。
誰が見てもかっこいいってこと。わかりやすくかっこいい、薄皮1枚剥がなくてもかっこいい。それって本当にたくさんの人を救ってきたんじゃないかって結構本気で思っている。


・ここに来たこと。ここから行くこと。
最近はそうでもないけど、YOU&Jくらいまでの世代って「○○くんに憧れて入りました!」って人あんまり多くなかったなあ……と思う。入ってから「△△くんが目標です!」「××くんみたいになりたいです!」って人はいっぱいいたけど、入る前からジャニオタな人ってあまり知らない。私が知らないだけでたくさんいたら申し訳ないんですけど。
あんまりいなかった理由として、そもそも『アイドル』っていう存在が、男が憧れるようなものじゃなかったってのも大きいんじゃないだろうか。アイドルそのものをとりまく文化的価値観がどんどん変わってきたなあと感じることがここ数年でぐんと増えた。
理由の一つにはおそらくインターネットやSNSの影響が挙げられる。特別な人がどんどん生まれにくくなって雲の上のアイドルが誕生しづらくなった分、逆にアイドルと一般人の境目が曖昧になってきている。いわゆる地下アイドルを含めれば、アイドル(的な人)の存在は増えているのではないだろうか。(これはアイドルに限った話ではなくて、芸能人的な人(あるいは芸能人的な人になりたい人)の数は全般的に増えていると思うが)
その結果なのか並行する現象なのかは判断しがたいが、『アイドル的なもの』の受容度も上がったように思う。社会現象レベルにまでなるのは困難になる一方で、アイドルっぽいことをしたり、アイドル的表現を好むことへのハードルは下がっているような気がする。
この感覚があんまり上手く言い表せなくてもどかしいのだが、自らの欲望でもってアイドル的存在を志す人が男女問わず増えた、とでもいえばいいのだろうか。アイドルという存在が、ただ人から欲望を向けられるだけじゃない主体を持つものへと進化を遂げつつある気がする。
これは多分ジャニーズで言ったらSMAPの功績がよく取り上げられるいつものあれなのかな。操り人形じゃなくなったからこそ一生アイドルとして生きていく道を選ぶ人が現れて、ただ欲望を向けられるだけじゃない主体的な存在価値を生み出して今に至っている――っていうやつ。
わけもわからず辿りついたスタート地点で顔を上げたら、「こうなりたい」と思える先達がいること。それってきっと、30年前なら想像もつかないくらいの幸運だ。


・確かにあいつらかっこいい
で、KAT-TUN。そうだよKAT-TUN
顔を上げた時に、よく見なくてもかっこいい先輩がいるってめちゃくちゃでかいよなあと単細胞の私は思う。よくわかんなくても、価値を知らなくても努力を知らなくても軌跡を知らなくてもかっこいい存在。女の子からかわいいって言われるんじゃなくて、何かを支配する側、ガラスケースぶち破る側の人がいてくれること。この場所から、自分の感性がかっこいいと思うものをめざしていけるんだって思えること。それってどれほどワクワクするだろう。どれほど血湧き肉躍るだろう。
「まーた仁のコピーかよwww」って言われるくらいに、まぁ結構な人数のJr.が罹患(?)する「赤西仁になりたい症候群」ってほんとすごいよなあって思う。みんながやりたがるかっこいい曲がたくさんたくさんあるKAT-TUNって、本当にカッケーーーーよな!って思う。
今のJr.をみていると手越さんもまぁ結構な人気で嬉しいけど、でもやっぱりいつまでもKAT-TUNに憧れる子いっぱいいるんだろうなって思うし、自分の感性がかっこいいと思うものを追求したら「KAT-TUNコピーを抜けられてない!」って言われちゃう子もたくさんいるんだろう。だってKAT-TUNかっこいいもん。脊髄震えるもん。

そもそも、アイドルが「なりたい存在」になった一因にはKAT-TUNの影響もあるんじゃない?って言いたかったんだけど論理破綻しそうなのでやめました。

 


・一生妬んでやるからなバーカ!
昨日一昨日とNEWSコンに行ってきて、やっぱり多幸感にもみくちゃにされてこの人たちが大好きで、私の一番はずうっとこの人たち!って思った。ほんとに心の底から。
だけどそれでも、もしも私がお姉ちゃんに騙されてジャニーズ事務所に入った少年なら、顔を上げた瞬間に心を奪われるのはきっとKAT-TUNだ。
永遠にかっこよくて、血の通い続けた覇者たちに私はこの先も嫉妬して、NEWSとは全然違う彼らを妬み続けるんだと思う。永遠に羨み続けていたいから、この先も絶対とまらないでほしい。

一生嫉妬しつづけさせてくれよバーーーーカ!!!

 


っていうブログを3月22日に上げたかったんですけど全然無理でした。10周年おめでとうございます。

 

拝啓 世界のどこにも二度といないあなた

あなたが好きです。


伸びやかな声で歌っていたあなたが好き。
カメラを前にするといつもふざけてみせたあなたが好き。おどける時に決まって持ち上がった眉を見る度、なんだか無性に愛しいです。
本当はもっと柔らかな声が好きなはずなのに、「俺上手いんだよ!」って声から既にバレちゃってたようなあなたの歌声はなぜだか好き。

あーー可愛いー好きだーーー!
ってそればっかり思ってしまって、客観的に見てカッコよかったのかどうかもよく分かりません。どうだったのかな、イケメンだったのかなあなたって。

だぼっとしたズボンが本当に似合っていました。ちょっと悪いお兄さんみたいな、悪いこと教えてほしくなっちゃうなあ年下なのに。でも今見ると肩や腕が明らかにまだまだ少年ですね。未熟で発達途中の、これからもっと魅力的になるんだろうなってすぐ分かる身体。私は痩せ型が好きだから、大人の身体になったらそれはそれで文句を言ったんだろうけど(笑)


メインボーカルで歌ったときももちろん素敵だけど、コーラスしていたときの声も好きです。思いっきり気持ちよさそうにぐんぐん伸びる歌声でした。どんな歌が好きでしたか。歌手なら誰が好きでしたか。誰を目指していましたか。
今私が応援しているグループには別れる歌ばかり歌う人が約2名いますが、あなたは抱く歌ばっかり歌いそうですね。って思ってしまうのは、あなたのオリジナル曲を1曲しか知らないからかもしれません。

なんであの時の衣装がジャージだったのかとても気になります。不慣れだったのかセットがおかしかったのか、何度も何度もヘッドセットを直した仕草にさえきゅんとするから不思議です。いかにもな感じで腰を突き上げていたパフォーマンスにちょっと笑ったりさみしくなったり。どのCDショップにもこのパフォーマンスが入ったCDもDVDも置いてないなんて信じられません。私が持っているあなたの声が入ったCDはたった2枚。まぁあるだけマシなのかなーそうなんだろうなー。

今でもたまに思います。もしも今ここにあなたがいたら、どんな光景が見れただろう。どんな歌声で、どんな笑顔で、どんな5人を見れただろう。考えても意味はないのに、それでも時々考えます。
本当はよくよく分かってるのにね。もしもあなたが今ここにいたらきっと2016年までの歩みは全然違うものになっていて、そもそも5人かどうかも分かりません。あれから今まで余りにも時間が経ちすぎて、余りにも色んなことがありすぎて、あなたがいたらどんな未来が有力だったのかもう見当もつかない。今私が知っている曲も大好きな言葉も愛してる光景も、全部全部全然違うものになっていた気がします。
2015年まであなたを直視することも出来なかったくせに今更こんなことを考えるのは馬鹿みたい。本当にばっかみたいです。今がこんなに愛しいのに。今をこんなに心から肯定してるくせに。

それでも時々考えてしまうのです。5人で笑う写真を見る度、心の隅っこが少しだけ痛い。


あなたのことが好きです。その目も眉も髪も声も。事務所に入りたての頃あどけなく先輩への憧れを語っていたあなたも、後輩に優しくしていたあなたも、くすぐられて絶叫していたあなたも、CDのジャケットでポーズを決めていたあなたも、マイクを持って気持ちよさそうに歌っていたあなたも、目に見えるあなた全部が好きです。

 

あなたは、世界のどこにも二度といません。


いるのにいない。どこかで元気に息をしているし、仲間と笑いあってるし、実をいうとあなたの歌う歌を聞くことさえできるのだけれど、でも、いません。ポーズをきめて写真におさまるあなたも、キラキラの笑顔で笑うあなたもここにはいない。もう二度と、もうどこにも、アイドルのあなたはいません。
5枚のCDと1枚のアルバム、2枚のDVD。それから、ネット上にある過去の映像。
それであなたは全部です。それを見終わったら、あなたはおしまい。見終わりたいような、見終わりたくないような、不思議な気分です。まだ知らないあなたをもっと見たいけれど、見たら知らないあなたが減ってしまうのが悲しい。多分、今になって過去を追いかける身だからこそこんな風に脳天気にただ惜しむことが出来るのでしょう。

 

もしも生まれ変わるなら、次はあなたがずっと今でもアイドルでいる世界だといいなあ。歌っていたあなたでもふざけていたあなたでも踊っていたあなたでもなく、

歌うあなたを

踊るあなたを

笑うあなたを

力いっぱい愛せる世界だといいなあ。

 

あなたを愛したかった。過去そこにいたあなたじゃなくて、今ここにいるあなたを。
世界のどこにも二度といないあなたが好きです。あなたの28歳の1年間、そしてこの先の人生が、素敵で幸福なものでありますように。

 

 


草野博紀さん、誕生日おめでとうございます。

顔認証〜オクとメイギと、しばしばソウバ〜


嵐のコンサートについに顔認証が導入されるらしい。Twitterでの反応は様々で、私のもとに流れてくるのはどちらかというと賛多めだったが全体的には賛否半々か、賛6~7割くらいなのかな?という印象だった。
私個人の意見としては、嵐に関しては今回のやり方におおむね賛成である。おおむね、と言うと気に食わないところもあるようだが、実のところ具体的にあげられる不満点は特にない。

今回のアリーナツアーは
・1名義1公演
・1名義1席
・最高2連番まで
・同行者もFC会員である必要あり
・申込者、同行者共に申込時に顔写真申請
・郵送の紙チケットではなくデジタルQRコード
・席が分かるのは当日
という大変厳しーーい制限(私自身は嵐のFC会員ではないので何か間違ってたらすいません)がかかったものだが、これはまあ事務所サイドの2つの意図達成のためには仕方ないだろうと思う。

不正な手段での入手および不正な譲渡をするのをやめろ
1人1回しか来るな

ってことなんだろうなーと。これ別におかしなこと何も言ってないじゃないですか。仕方ない。嵐の場合コンサートに行きたい人の数に対して動員数が少なすぎる(確かドームツアーでも80万人かそこらなのに対してFC会員数は180万超)上、今回のアリーナツアーに関しては動員数が20万もいかないくらいなのでもう完全にFC会員じゃない人を入れる余裕はあるわけない。チケットが高額で売買されているのをそうそう見過ごすわけにもいかないし、転売・譲渡はそもそも禁止が明文化されているわけで「急にいけなくなった時のことを考えて」というのも堂々とできる話ではない。今回の形式だと多ステできるかどうかは『同じ顔での複数名義からの申し込みが弾かれるのか否か』にかかってくるようだが(複数名義も禁止が明文化されてますが)、これに関してはどうなのかまだ分からないのでいったん置いておきます。


さて。
私がFCに入会しているのはNEWSのみでこちらも春からのツアーに向けて当落待ち真っ最中なのだが、参考までに今回のQuartetteツアーの申し込み形式を。
・1名義何公演でもOK(同じ公演を複数回申し込むことはできない※1)
・1名義で取れる席数に制限はなし
・最高4連番まで
・同行者はFC会員でなくともよい(同行者情報は特に何も求められない)
・申込者、同行者共に顔写真等は不要
・郵送の紙チケット
・チケットが届き次第席が分かる※2
※1:「『第1希望東京公演 第2希望仙台公演』と『第1希望大阪公演 第2希望仙台公演』の2枚振り込む」みたいな申し込み方はNG
※2:たまに当日まで分からない席もあったようななかったような

はいゆるゆる!嵐の制限みたあとだと天国ですね。ちなみに私は自分の1名義だけで2枚×3公演の6枚チケットを申し込んでいます。当たるかどうかは神のみぞ知る。

今後、チケットに関する制限が厳しくなることはあってもゆるくなることはないだろうなあというのが個人的な予想なので、NEWSでも顔認証が導入される可能性はゼロではないのかなと思っている。「嵐は仕方ないけど○○では顔認証はやめてー」「△△で顔認証導入したら空席祭りだろ」というような声も見かけたのだが、顔認証と多ステは別に直接的な関係にはない。なんかもっとこう、うまいやり方をしたらこう、なんかもっといい感じにできるのではないかと思ったので顔認証のやり方について数パターン考えてみた。



1-1.顔認証最ゆるパターン:現行のNEWSのやり方にとりあえず顔認証を入れるだけ
・1名義何公演でもOK(同じ公演を複数回申し込むことはできない)
・1名義で取れる席数に制限はなし
・最高連番数はグループの人気などに応じて
・同行者はFC会員でなくともよい(同行者情報は特に何も求められない)
・申込者のみ申込時に顔写真添付
意味があるのかないのかよく分からない。しいて言うなら事務所がその気になったら複数名義の人を殺せるくらいか。また、最初から転売目的の人にとってはチケットが1枚死ぬのが確定になるので、利益が出せるかどうかがやや危うくなる可能性も。入場時に顔認証をする人としない人に別れることになるので、入場列が複数になり混雑が緩和するかもしれないし激化するかもしれない。譲渡も同行も可能。


1-2.FC会員じゃなくてもこれるけどバラ譲渡を禁止するパターン
・1名義何公演でもOK(同じ公演を複数回申し込むことはできない)
・1名義で取れる席数に制限はなし
・最高連番数はグループの人気などに応じて ・同行者はFC会員でなくともよい(同行者情報は特に何も求められない)
・申込者のみ申込時に顔写真添付
・同行者チケは申込者と一緒でないと入場できない
つまり2連番なら2人、4連番なら4人で一緒に入場しないといけないことになる。同行はできるけど譲渡はできない。「チケット余ってるんだけど××に興味あるなら一緒に行かない?」はできる。ダフ屋は死ぬ。このやり方だと、組織的に利益のためにやっている転売屋などは抑制できるが、Twitterなどで売買する個人の規制は多分できない。つまり自分も行く気があるダフ屋は勝てる。また、同行は可能である以上友達多い人の勝ちみたいなところが出てくるので同行目的の友達増やしとかあれとかこれとか人間関係にひびが入りやすくなるような気もする。複数名義の場合は、同じ公演に複数申し込んで複数あたってしまった場合空席を確実につくることになる。事務所的にはお金はとれるわけなので損ではないが、あまりに目立つとメンバーが落ち込みそう。


1-3.FC会員じゃなくても来れるけど顔認証は全員必須パターン
・1名義何公演でもOK(同じ公演を複数回申し込むことはできない)
・1名義で取れる席数に制限はなし
・最高連番数はグループの人気などに応じて ・同行者はFC会員でなくともよい(同行者情報は特に何も求められない)
・申込者、同行者共に申込時に顔写真添付
FC会員じゃなくても来れるけど、顔認証は全員にするよ、というもの。この場合、顔認証の運行の厳しさによってさらに2パターンに別れる。
1つ目が、申込者としても同行者としても登録しても複数名義でも通るパターン。チケットをとれる確率は高くなるが、1-2と同じように空席をつくる覚悟が必要。この場合、「不正な売買により第3者が利益を得ること」は防げることになる。
2つ目は、同じ顔を複数登録したら全弾きされるパターン。「不正な売買により第3者が利益を得ること」に加えて、「不正な複数名義登録により一名義当たりの当選確率を下げる行為」「不正な複数名義登録により自分の当選確率を上げる行為」を抑制できる。



さてここまで3パターン読んだらわかると思うのですが、顔認証でできることって大きく2つに分けられるわけです。

①「不正な売買により第3者が利益を得る行為」をできなくする
②「不正な複数名義登録によりチケットの当選確率を上げようとする行為」をできなくする。

このどちらを抑え込むために顔認証を導入するのか?によって、作り上げるべきシステムも変わってくることになる。個人的には、①の方はこれから事務所に限らず法律やらコンサートや公演を行う各種団体で何らかのガイドラインをつくっていかないといけないのかなと思っている。なぜなら今ビジネスチャンスとして中古(?)チケット取引が注目されているらしいから。チケットキャンプみたいなサイトが堂々とテレビCMを打てるのとかジャニオタ的には少し不思議なんですけど、「とったチケットはどうすべきものか」ってのかこれから考えていかなきゃいけないのかなあと。売買できて当たり前にするのか、できないものにするためにエンタメ業界として取り組んでいくのか、っていうのは少し考えなきゃいけないんじゃなかなあ。

それを踏まえて


2.複数名義解禁パターン
・1人で複数名義持つことを認める
・1名義何公演でもOK(同じ公演を複数回申し込むことはできない)
・1名義で取れる席数に制限はなし
・最高連番数はグループの人気などに応じて ・顔認証は少なくとも申込者必須
上で挙げた①の何が問題かって、『第3者が』利益を得ているっていうのもあると思うんですよ。で、これからコンサートとかそういうショービジネスがもしも盛り上がっていって、多額のお金を払ってでも…って人が今後も増えるんだとしたら、その『多額のお金』が公式に入るようにした方がいいんじゃないの、って話。顔認証は同行者もするのかとかなんとかは色々置いておいて、行きたいその気持ちの分だけ公式にぶっこめるようになるのも一つの解決策としてナシではない。
これを取り入れる場合は、「同一公演を複数枚当選したらどうするのか」っていうのを、公式側が仕組みとして整えることができるのも一つのメリット。半額返金して再抽選とか、手数料をとって譲渡を仲介するとか、何かしら今よりクリーンな仕組みを構築できる可能性が生まれるかもしれない。また、たとえば半額返金にしたら2枚当選したら1枚あたりの値段は1.5倍になるわけで、複数名義に多少の損を被らせることも可能になる。
このジャニオタパラダイムシフトを起こした場合、同時に全グループ先振り込み化もありえる。欲しい気持ちの分だけお金を公式に払うにあたって、『欲しい気持ちの額』と『実際支払い可能な額』は大体前者が大きくなるので手元に実際に持ってるお金分以上の申し込みができないようにするのは健全な運営のために必要かなと思う。
現状複数名義を取得している人は少なくないし、何故それが不正なのかというと「会員規約に反しているから」以上の理由ってないような気がするのでいっそ認めてしまうことで事務所に利益が出る形を構築していくのもありかと。
ただ、この場合は「1名義しかないことが極端な不利にならない」ように慎重に色々考えていかなくてはいけない。

 

 

3.もっと会員証活用しようぜパターン
Suicaとか大学の図書館みたいに会員証でゲート開閉みたいな仕組みになったらちょっと楽しい。具体的なことを何も考えていないのでふわふわだが、手間を掛けず最低限の個人情報の保持だけで個人を特定できるやり方を模索していく方向。
友人同士なら簡単に貸し借りが可能なので信用できる人とのみ今までのような気軽さで譲り譲られが出来るのでは?と思う。
逆に顔認証と組み合わせれば年に一度更新の時に顔を登録することで大変ガチガチの個人認証が可能になる。
ただ、これをやるとスキミングされた時とんでもない事になるのでちょっと非現実的かな……

 

今回は『転売』『複数名義』に焦点を絞って考えてみたのだが、もちろんこの他にも考えなくてはいけないことは多々ある。半券ほしいよ問題だとか座席は事前に分かるべきなのかどうか問題とか、会費をクレカか口座引き落としにしてくれ問題などなど。
今回「顔認証いぇーーーいv(☆ڡ☆)v」って思った人も「顔認証ハァアアアア┗(⌒)(╬´ ω `╬)(⌒)┛!?!?」って思った人も、自分にとって何が「イェーイ」なのか?何が「ハァア?」なのか考えてみる良い機会なのではないだろうか。


もちろん、1ファンがあれこれ考えたところでそれがダイレクトに反映されることなどないのだが、「なんかこう、もっとこう、なんかいい感じ」にしてこうぜ、という機運を高めてく一助にはなれるかもしれないし、考えるだけ考えとこうと思っている。考えようぜジャニオタ。半券ほしいぜやっぱり。さぁ俺らの明日はどっちだ!!

優等生と自転車少年/君が集めた銀河の砂を世界一綺麗なキセキにするよ

 

世の中には2種類の人間がいる。やるべきことをすぐにできる人間と、期限ぎりぎりまでやらない人間だ。残念ながら私は完全に後者に分類される人間である。

 

というわけで本当はピングレプレゼン会のパワポを作らなければならないのをいったん置いておいてNEWSのコンビ語り第4弾をします。マスシゲです。シゲマスです。8年かかっていまだどちらで呼べばいいのか定まらない金八コンビです。愛しくて優しくて少し切ない、いつまでもこのままでいてほしい2人。

2015年はコヤテゴの供給がとんでもないことになっていたので、その道連れなのなんなのかシゲマスもちょいちょい絡んでいて楽しかったですね。4人になってから増田さんがデレを爆発させる相手が加藤さんだけになってしまったので、気持ち悪い感じに(笑)デレデレしている増田さんをみられるのは基本的にマスシゲ絡みだけになってしまいました。昔からずーっと変わらずに加藤さんにデレデレな増田さん。どんな時代も変わらず「シゲかっこいい」といい続けてきてくれた増田さんには頭が上がりません。まあ私増田担なんですけど。めんどくせえ増田さんを適当に適切に処理してくれて増田さんの意志を汲もうとしてくれる加藤さんにも頭が上がりません。シゲマスの方向にお辞儀しながら生きていきたい。

 

 

 

・軌跡⑴――エリートと雑草

「NEWSで一番付き合いが長いのはしげ/まっすー」と割とことあるごとに本人たちも発言しているが通り、金八コンビの付き合いは長い。増田さんが1998年11月入所、加藤さんが1999年4月入所なので、かれこれ16、7年の付き合いということになる。言うまでもなく、NEWS内ではコヤテゴよりもテゴマスよりもコヤシゲよりも、どのコンビよりこの2人の付き合いの方が長い。長けりゃいいってもんじゃないけど、長い分だけ思い出も増えるのもまた一つの真実だ。2人の歴は半年ほどの違いだが、加藤さんが入ってすぐの頃に「新しいやつが入ってきたぞ」みたいな感じでJr.仲間と取り囲んで質問したことを増田さんが回想している。多分これが2人のファーストコンタクトのはず。ちなみに、増田さんが合格したのは大型のオーディションで同期もなかなかの数いたそう*1だが、加藤さんはテレビ番組『8時だJ』内でのオーディションでジャニーズしており、入所段階から若干エリートだ。厳密に同期といえる人(入所日まで同じ人)は多分いない*2*3

入所段階から若干エリートだった上に小学1年生からお受験のための塾に通っていた加藤さんは「受験を放棄したくなかった」という理由で小学6年生の後半は休業に入った。なかなかの勇気。入所してすぐに沖縄に連れていってもらい、マイクを持つまでもかなり早かった加藤さんは受験後ジャニーさんに「受かりました!仕事またしたいです!」と臆面もなく電話し、すんなり仕事に復帰した。金八のオーディションの時も、周りに「いけるんじゃない」といわれていたそうで、少なくとも待遇と実績だけで言えば間違いなくエリートだった。それに実力が伴っていたかというと、残念ながら本人の認識の上ではまったくそんなことはなく、1回目の10000字インタビューでは「できてないのが分かるのに立ち位置がドンドン前になって…」とその苦悩を思い出している。実際、入所から今に至るまで加藤さんは歌を得意だと思っていたこともダンスに自信を持っていたことも一度もなさそうだ。加藤さんは声変りが早く入所時から既に低い声だったそうなのでボーイソプラノが出なくなる恐怖は味わっていないだろうけれど、歌に自信があった時期は一瞬もなかったということにもなる。しかし実績はある。多分プライドもあった。加藤さんはそんなエリートJr.だったのである。

一方の増田さんの歩みは、加藤さんとはずいぶん違う。増田さんはオーディション時も合格こそしているけれど『そのまま雑誌取材組』には入れず、歌番組などでも度々『リハには呼ばれるけど本番には出れない組』を経験したと語っている。それでも踊るのは楽しくて、1.2曲しか出れなくてもコンサートが楽しくて…とJr.を続けていた増田さんの大きな転機になったのは2001年7月に出演した舞台『PLAYZONE2001新世紀~EMOTION~』だった。東山さんと踊る役に抜擢され、その姿勢や技術などに大いに感化された…らしいのだが、この時も決して「増田がいい」と選ばれたわけではなかった。踊れて背が低くてなおかつ夜公演にも出られる15歳以上のJr.がたまたま増田さんしかいなくて「増田でいい」と選ばれたらしい。また、金八オーディションに参加できることになったのもこのPLAYZONE公演中に他のJr.が大勢参加すると聞いて意を決して直談判したからで最初は呼ばれていなかったそうだし、何かのテレビ収録でジャニーさんが合格発表をした時も加藤さんと東新さんはいたのに増田さんはいなかったそうだ。ただ、本人談では金八効果でそんなものすごい人気、推されJr.に上り詰めるなんてことはまったくなかったらしい。Jr.時代からのファンの方が「まっすーはNEWS結成直前くらいにはトップクラスに忙しい部類に入っていた」と書いているのを見かけたこともあるし、テレビでの発言などは多少脚色されているかもしれないのでどこまで本当かはちょっと分からないが、どちらかというと雑草タイプだったことは間違いないはずだ。このような経緯もあってか、その頃の増田さんの話を聞いていると『1現場に出れることへのありがたみ』『こいつにこの仕事をやらせようと思ってもらえることのありがたみ』みたいなものが身に沁みついていたらしいことが窺える。ビバ雑草

そんなこんなで東新良和さんも含めた3人での『3年B組金八先生』第6シリーズへの出演を果たした。各々思い入れの深い作品であることは間違いなく、この時共演した人についてはジャニーズ外の人であっても『幼馴染』と形容するのを幾度も聞いている。平愛梨さんや上戸彩さんなど、今でもたまに交流を垣間見ることができる。また、仕事で中学の卒業式に出席できなかった増田さんにとって金八での卒業式は一際感慨深かったようで、リハーサルから号泣していたことをたまにいじられている。私自身は1シーズンたりとも観たことがないのだが卒業式のシーンは恒例のものらしく、またほとんどアドリブで進行するらしいのである種本物の『卒業式』なのかなあと思う。つかみ取った経緯は違えど、加藤さんと増田さんの両方にとって経験出来てよかったと心から言える仕事であることは間違いないないのだろう。そして、2人の心に特別な絆が結ばれていることも。

 

 

・軌跡⑵――エリート根性と雑草

NEWS結成段階では、やっぱり加藤さんはエリートだったし増田さんは雑草だった、と思う。なんせリアルタイムで観ていないのであんまりそんなによく分からないのだが、「NEWSができたときは、金八で一緒だったシゲ以外はそんなに知っている人もいなくて、エリートばっかりで…」とか「他の人は『あれっまっすーがいる』って思ったんだって」などの話もあるし、多分加藤さんの方が人気はあった、ということにしておく。

ちなみに、現NEWSメンバーのJr.時代からの彼らのレギュラー番組に『Ya-Ya-yah』があるのだが、ここでも加藤さんは2003年1月からのレギュラーだが、増田さんはそうではなかった。手越さんと共にレギュラー入りを果たしたのがNEWS結成直前の2003年9月7日だそう。初の本格的な出演?は同年6月らしいがここら辺はあやふやな上に当時を知らないやつが語っても…と思うのであまり気にしないでください。

 

で、だ。

 

ジャニーズ事務所に入ってからデビューまでの加藤さんは間違いなくエリートだったし、増田さんは雑草だった。これは間違いないと思う。しかし今、加藤さんをみてエリート根性というか、そういう何かを感じる人はおそらくほとんどいない。8年前には既にそういう見方は少数派だった。

 

 

herodontsing.hatenablog.com

 

これは昨年加藤さんと増田さんの10000字インタビューを読んだときの私の感想なのだが、2人の覚悟に対する印象は変わっていない。増田さんがNEWSに関して抱えているのは『泥を塗らずに背負い続ける』という覚悟で、加藤さんが抱えているのは『泥にまみれてでも進み続ける』という覚悟だ。泥を塗らない、という生き方。泥にまみれてでも、という生き方。不思議なことに、増田さんの方がよほどエリート根性をもって生きているし、加藤さんの方が明らかに雑草魂に支えられている。

9人時代の最初の頃から自分が歌も踊りも周りに劣ることを否応なく自覚していて立ち位置もそれほどよくはなかった加藤さんは、6人時代には完全に『いじられキャラ』の立ち位置を確立してしまっていた。小山さんと2人でMCを担っていたが、加藤さんが小山さんをいじることより小山さんが加藤さんをいじることの方が圧倒的に多く、加藤さんをいじることでNEWSの面白さが担保されていた部分も多少あったように思う。「小山は2人の時優しいのにMCだとあたり強い…」という加藤さんの発言もこの頃なされたものだ。(当時の私はただ萌えているだけだったが今にして思うと、ね)(余談だが、今の小山さんが加藤さんにデレデレなのは、加藤さんをいじったり下げたりすることなく『楽しい』『面白い』を生み出す方法を見つけたからなのかなと思っている)

増田さんは、この頃から今までずっと変わらず「しげかっこいいよ」と言い続けている。6人時代のことを思い返してみると「マッスーといえば手越or錦戸くん」というコンビでの人気が高かったような気がするし、「しげといえば小山or錦戸くんor山下くん」というコンビの人気が高かったように思う*4。それほど表立って絡んだり営業(?)していた印象は特にないけれど、NEWSの他のメンバーがそうだったのと同じように増田さんも加藤さんのことが大好きなのはよくわかったし、それを隠してもいなかった。

NEWSが結成されてからの増田さんの歩みについてなのだが、正直どんな気持ちで何を考えどう悩んでいたのか、あまり考えたことがない。私個人の話で言えば、悩んでいるのかなとぼんやり考えるようになったのもここ2年くらいのことで、それまで増田さんの苦悩とかそういうものをみたことってあまりなかったなあと思う。なんとなく言えることは3つくらい。

以下3つ全部私の主観の思い出なので「ハ?」って思っても気にしないでほしいのだが、1つ目、「このグループの歌を支えている」という自負はずっとあっただろうということ。テゴマスでも一応順調に活動していて、歌唱力ではNEWSに不可欠な存在だと思えていたことは間違いないと思う。歌と踊りは増田さんにとって絶対的な武器で、自信で、支えだったのだろう。次、「まあまっすーだもんね」って思ってるファンが多分少なからずいて、本人もそう思っている節がなくはなかっただろうこと。ドラマに出て爆発的な人気を博すようなタイプではないことはファンも本人も了解していて、でもそこはまっすーの戦場じゃない、という雰囲気がなんとなくあったような気がする。増田さんはいつだってにこにこで、代名詞は『笑顔』で、下ネタとか男らしさで勝負する人ではなくてananで脱ぐとかそういうことを求められてもいなかった。かといってバラエティでめちゃめちゃ活躍できるような人かというとそんなことはなくて、でもまっすーの戦場はそこでもないしなーと私は思っていた。増田さんには歌があったし、踊りもうまくて、それで十分だった。そこでなら増田さんは十分に戦えていたし、不満があるようにも見えなかった。最後、3つ目。増田さんのガチガチのアイドル美学には「楽しいところ(だけ)を見せるのがアイドル」という意識があったんだろうな、ということ。増田さんが本当の本当に「俺の戦場じゃない」とか「俺はこれでいい」と思っていたのか、不満がなかったのか、といったら、多分全然そんなことはなかったんだろうなあと近年ようやく思うようになった。思うようになったというよりは、そういう思考の言語化を私が私に許してあげられた、という方が正確かもしれない。

すべってばかりの増田さんの発言を拾い上げて笑いに変えてあげる役割を担っていたのが加藤さんだった。みんなと仲良くして、潤滑剤みたいな役割を果たしていたのが加藤さんだった。P亮の懐にいつの間にか入り込んでいたのももちろんだけど、それは増田さんに対しても発揮されていた、と思う。

いつも一緒にいる必要はなかった。それでも大事な人だというのは変わらないから。一番付き合いが長いのもわかりきっていたし、役割分担もはっきりしていて、大事な『幼馴染』を助けてあげたり助けてもらったりしながら、わりと平和な関係を築けていたと思う。当時から加藤さんは結構雑草魂ちょい見えではあったし、そこは増田さんとはイマイチかみ合わなかったかもしれないが、あの頃そこまでコンセプトを突き詰める必要もなかったし物語を売りにするかどうかを考える必要もなかった。増田さんの職人気質というかそういうところはテゴマスにぶつけることができたし、むしろそれでこそNEWSとテゴマスの差別化が図れていたのかもしれない。あの頃のシゲマスを一言で表すなら『平和』だったなあ。幼馴染感はそこまで出てなかったような気がするけどそれは私が観ていなかったからそう思うだけなのかもしれない。仲悪いんじゃねーのって疑う要素もなく仲良しで、かわいくて、雑草魂を秘めた元エリートと、エリート根性を発揮する元雑草は、仲良く4人で愉快な仲間たちをやっていた。

 

 

・奇跡⑴――平和の終わった日

シゲマスの平和は終了しました。といったら変な顔をされるかもしれない。でも本当だ。2011年4月、彼らの平和は幕を下ろした。去年4人分の10000字インタビューを読んでいろんなことを考えた。それはもう色々。私は結局山下くんのことをどう思ってるのかとか、アイドルって結局なんなんだろうとか、そういうこと。その中でものすごく考えさせられたのが、マスシゲの方向性の乖離の甚だしさだった。

チャンカパーナのリリースまで、本当に待った。脱退発表から1週間ぐらいで一応ポジティブモードに切り替えたはした私が思ったことは「とにかく早く動いてほしい」だった。それから、たくさん活動してくれること。年に3公演しかライブがないなんてもう嫌だった。山下くんと錦戸くんがいなくなって人気が落ちるのは分かりきってて、それでもいいから活動してほしかった。全部ホールでも構わない。近くにきて、年に数度の音楽特番以外でも活動して、地に足つけてほしかった。私の思考は随分加藤さんと似ていたのだなあと、4年経ってから知れて面白かった。面白かったけれど泣きたくなった。

大丈夫だよ、安心して、もう裏切らないよって一生懸命伝えてくれていたあの頃、2人の胸にある未来図はこんなにも違ったなんて。それでも一緒にやっていこうと決めて、これからのことを考えてくれていたなんて、嬉しくて悲しくて切なかった。あれほど待ったのは増田さんのゴーサインが出なかったからだったこと。中途半端なものを出すくらいならNEWSを続ける意味がないと思っていたらしいこと。増田さんらしかった。私が好きになった増田さんだった。でも、この2人が共に歩んでいこうと決めてくれたことは奇跡なんだなあと思った。

 

 

・奇跡⑵――雑草魂とエリート根性

シゲマスの方向性の甚だしい乖離が問題点にまでなったのは、彼らがフロントマンになったからだ。今、NEWSの楽曲や衣装、コンサートなどは、昔に比べ明らかにセルフプロデュースの割合が激増している。4人になったことで1人1人の存在の大きさが重くなり、1人1人の意見の反映率も大きくなったことで、みているだけのファンにもこの2人のタイプが違うこと、2人の理想のアイドル像が違うことがたやすくわかるようになった。それを一番分かっているのは当然本人たちで、それでもなんでもないみたいな顔でいろんなものを届けてくれている。

この2人のすごいところは、それでもなお互いが互いについて「あいつの一番の理解者は俺だ」と思っているところだと思う。理想が違う。輝き方が違う。手に入れてきた武器も、目指しているものも違う。それでも、それだけ違っても、一番『わかってる』のはお互いなところがとても優しい。

特にわかりやすいのが増田さんで、ラジオでも「しげの話をしないと死ぬ病気なのでは…?」とファンに揶揄されるくらい加藤さんの話ばかりしている。小山さんと手越さんに対してはそれほどかわいい顔をしないのに*5、加藤さんに対してだけ飛び切りかわいい顔でうざがらみをしにいく。加藤さんがグループ内でいじられ役に徹していたときには加藤さんをしきりに褒めていたのに、そのバランスが変わってからは超積極的にいじりに行くようになったのもやさしさの発露なのかなとちょっぴり思う。このいじるか、上げるかに関しては私の主観でものを言っているので、データ的な証拠は見せられないのですが多目に見てください(笑) だいすき!って顔にも声にも態度にもフルで現れているところがずっと変わらなくて、2人の違いに不安になるたびホッとできる。

アイドルとしての在り方はぜーーーんぜん違うくせに、加藤さんもやっぱり「俺がまっすーのこと一番分かってるよヅラ』が大好きだ。ここからは完全に妄想になるのだが、増田さんの辛さを一番分かってくれているのは実際加藤さんなんだろうなと思う。私はよく加藤さんを形容して『加藤さんは舞台裏まで公開して裏側の様子でさえも魅せるための武器にする人』といっている。脳みそ露出狂なんて言われたりする加藤さんの思考のさらけ出し方は、確かに彼の主人公力を高めてくれていて、戦い方として一つの正解なのだと思う。これと対照的なのが増田さんで、増田さんはたとえるなら『舞台裏の存在を認めない、見せない、隠しているということすら隠す人』だ。もちろんそんなわけはなくて、増田さんにだって裏側も悩みも苦しみも当然あって、でも増田さんは自分のそういう面をファンに魅せるのを極度に嫌う。

4人になってから一番もがいて一番苦しんで一番今の自分に苛立っていたのは、多分増田さんだ。歌と踊りで戦えていたし、自分の戦場では誰にも何にも負けていないつもりだっただろうけれど、客観的にみてこの4年余り一番負けていたのは増田さんだった。出演番組で長く続いたものはなかったし、小山さんと加藤さんのようなテレビに呼ばれやすい売りもなくて、かといってバラエティがめちゃめちゃ得意なわけではないけれど、恋愛ドラマにバンバン出るような需要もないし、これだ!!って思う自分、胸を張って振りかざせる武器が無くて苦しんでいたんだろうなと思う。確かに歌はうまいけど、確かにダンスは上手いけど、そんなのみんな一定レベルではできていて、それだけじゃ渡っていけない。増田さんは『アイドルだから』という種類の魅力はとっても輝いている人だけど、『アイドルなのに』ではとても弱い。この苛立ちを一番分かってくれていたのは多分加藤さんなのではないだろうか。もちろん唯一無二の相方は手越さんに決まっているけれど、増田さんは手越さんに対して「悩み、苦しみをわかってほしい」とはあんまり思っていなさそうにみえる。どちらかというと「こいつにだけは負けたくない」という気持ちが一番強くて、次に「俺の作りたいものをわかってほしい」かなあ。でも、加藤さんに対してはそういうバチバチはなくて、グループの一員である前に幼馴染で、だから傷付いていることを悟られていてもぎりぎり許せるんじゃないかなと思う。

そう、増田さんは、傷付いている事実を知られることが多分大嫌いだ。大嫌いだけど、加藤さんにならそれを悟られていても我慢できるんだろうなと思う。加藤さんだから、加藤さんにだけ許すんだろうなって時々ぼんやり感じる。

本当は、一緒にやっていくのは向いていないのかもしれない。お互いがお互いの武器を殺しあってしまうようなそんな危うさがマスシゲにはあって、そのくせお互いがいないと駄目なんだからおかしくて切ない。それでもきっと心から「いてくれないと嫌だ」って思っていそうで、陳腐な言葉だけれど「尊いなあ」って何度も何度も思う。

 

 

・輝石――NEWSのクリエイター班

この2人は本来的には相性があまりよろしくない、と私は正直思っている。思っているのだが、仕事面でも実はお互い必要不可欠だよね、とも思っている。ダブルスタンダード万歳。

志向する方向があまりにも違うのは、得意なことがあまりにも違うからだ。それは裏を返せば、長所と短所がぴったり重なっているということでもある。

増田さんは優秀なクリエイターだけれど、思考の言語化が極端にへたくそだ。しかも、新しいものを生み出す能力が高い。その結果、『やりたいこと』『作りたいもの』を他人に伝えること、そしてその『素晴らしさ』を他人に伝えることがモノづくりの才能と反比例してしまっているところが多々ある。6人時代は、そんなときにはただ提案を却下されてしまうことも多かったんじゃないかと推察しているのだが、今加藤さんはそんな増田さんのパイプになるべく尽力しているらしいことが伺える。「まっすーのこと一番分かってるのは俺」という自負の通り、増田さんの頭の中にあるきらきらを現実世界に持ち込む役割を果たしているのが加藤さんなのではないだろうか。

増田さんの中にも、加藤さんをいかに魅力的に見せるのか、加藤さんのきらきらをいかに引き出せるのか、という意識が常にあるように思う。増田さんの場合はNEWSのメンバー全員に対してそう思っているのだろうけれど、「俺が一番こいつを輝かせられる」って思っているようにみえる。

「俺が一番こいつをわかってる」から、「こいつの良さも一番分かってるのは俺」で、だから「こいつを一番輝かせられるのも俺」って思っていそうなこのコンビ、ここまで一緒に歩いてこれて本当によかったと思う。お互いを一番きらきらさせられるのはお互いで、理解者の座を譲る気がさらさらない。金八コンビは、たとえるならば手をつないで歩く2人の子供だ。手をつないでいるだけだし別々の人間だから、行きたい方向が全然違うことも多い。その度「どちらにいこう」「どうしよう」と話し合っては手を繋ぎなおして、絶対離さず歩いていく。二人三脚のように脚を縛られているわけではない。おつかいのように目的も行先も決まっているわけじゃない。それでも2人で手を繋いで歩く。離さないのは2人の意志だ。離さないから強くなれる。転んだ傷が痛いことは、お互いだけが知っていればいい。いつかかさぶたになる頃にはきっと笑えるから。転んだことも、頑張ったことも、泣いたことも笑ったことも全部みている。全部いつか輝きに変えてみせる。めんどくさくて頼もしくって愛おしい2人なのです。

 

 

 

 

 

 

去年の7月から始めたこのシリーズ、いつになったら終わるんだろう……

*1:赤西仁さん、亀梨和也さん、藤ヶ谷太輔さん、中丸雄一さんなどが同期

*2:正確には、「いたはずだが既に辞めている」が正しい

*3:いたといっても1人か2人くらい

*4:これに関しては私がこれらのコンビが好きでこのコンビばかり見ていたせいもあるので何とも言えないが

*5:最近コヤマスの距離が本当にものすごく縮まって仲良くなってきて、結構デレデレしているのをみられるようになったけど

映画『ピンクとグレー』感想/余裕で翔べないすべての人へ

映画『ピンクとグレー』2度目の鑑賞を無事終えた。1度目は公開初日の朝イチの回を観たのだが、小説『ピンクとグレー』を読み直す時間がなかったのでちゃんと読んでからも観たいなあと思って2回観た。あと1回は渋谷で観たかった(初回はスケジュールの都合がどうしてもつかなくて大阪で観た)ので。同じ映画2回観たの初めてだわ。

色々考えさせられることがあったので備忘録も兼ねてつらつらと感想を。参考までに書いておくと、

・原作:発売日(2012年1月)に購入して読了

・でもその一度しか読んでなかった

・映画:公開初日と2月1日の2回鑑賞

・原作文庫版:2度目の鑑賞前日に再読

・宣伝やインタビュー、解説など:SORASHIGE BOOKでの言及以外ほぼ何も知らない

って感じなので、監督や役者さんの解説とかと矛盾してるところもあるかもしれません~まあそれも味かなってことで(笑) 考察というよりは解釈に近い感じです。

ストーリーにもガンガン触れるのでこれから映画が公開になる地域にお住いの方は読まない方がいいと思います。

 

 

 

裕翔くんの最後の台詞を聞いた瞬間私はニヤッと笑って、そしたらそのままアジカンの主題歌が流れ始めてちょっと変な感じがした。そうか私は泣かないのか。映画中も別に一度も泣かなかった。エンドロールを眺めながら、泣けなかったなあとかあそこどういう意味かなあとかくだらないことを考えた。スタッフに田口貴久さんて人がいるとかその少し後に増田さんて人も出てくるんだなとか、そういうことも考えた。(ちなみに2回目で気づいたけど錦戸さんと加藤さんもいる)

裕翔くんの初登場シーンの靴が白黒のぴかぴかで妙に記憶に残った。上唇の左側に古い傷跡があるの、知らなかったな。菅田くんの髪型くそダサいと思ったけど後ろでちょこんと結ぶとかっこいい。それから、ごっちのお姉さん綺麗だった。岸井さん初めて見たけどかわいい。それからそれから、コピーバンドでやるのがフジファブリックくるりってなんかいいな、それから、

 

 

それから、少しこわかった。

 

 

正直言って62分後の衝撃は全くの予想通りで大した衝撃でもなくて、でも、そこからの展開はある意味衝撃だった。いや、衝撃とは少し違う。怖い、としか言えない感覚。少しずつ背筋を這い上ってくる、うっすらとした不安。どうしよう。どうしよう、もし、

 

もし、

 

 

 

もしも本当は、菅田将暉さんが中島裕翔くんをこんな風に馬鹿にしてたら、どうしよう。

もしも本当は、行定監督が加藤さんのことをしょうもないと思ってたら、どうしよう。

 

 

 

中途半端にほんの少しだけ試写会に行った人の感想などを観ていて、すだゆとコンビの微笑ましさのレポをなんとなくみていて、だからこそ余計に怖くなった。成瀬凌が川鳥大に思っていたようなことを、本当は菅田将暉も中島裕翔に思っていたらどうしよう。そう思ったから、そう思えたから、私は映画『ピンクとグレー』を肯定することにした。私は映画を正解だと思っている。だけど映画に怒ってもいる。けれど映画を肯定する。

 

 

・映画『ピンクとグレー』が捨てたもの

映画に対するざっくりした印象は、「小説『ピンクとグレー』から可能な限り加藤シゲアキをそぎ落としたらこうなるのかあ」だ。映画では、出会いのシーンの「しょうもな」エピソード/毛虫を握りしめるごっち/スタンド・バイ・ミーになぞらえて大人たちがつけたあだ名/スタンド・バイバイ・ミー/サリーと木本がいなくなって幼少期のうちに2人ぼっちになるという経緯/りばちゃん作曲ごっち作詞のファレノプシスetc etcとにかく2人の関係性に関わるシーン、2人の絆の根幹がカット(あるいは改変)されまくる。あれもカットこれもカットそれもカットついでに改変!祭りじゃ祭りじゃー!!!くらいの勢いだ。

で、このカット&チェンジフェスティバルで何がしたかったのかというと、とにかく加藤シゲアキをそぎ落としたかったのかなあ、と思う。加藤さんの生い立ちや育ちを思い起こさせるような描写はほぼほぼ祭りの餌食(?)になった。その結果、映画ごっちと映画りばちゃんはどちらも加藤シゲアキではなくなった。逆に言えば、小説『ピンクとグレー』では、ごっちとりばちゃんはどちらも加藤シゲアキだった。彼らはどちらも加藤さんの分身で、サリーも多分そうで、登場人物みんなが少しずつ加藤さんだった。小説では、ごっちとりばちゃんは同じ人物で、ただほんの少しのきっかけでいつの間にか全然違う道を歩むことになってしまっただけで、本当は一緒に歩いて行けるはずだった。だから小説の最後は2人が一体化して終わるけれど、映画は決別して終わる。映画の2人は違う人間だから。河田大貴は加藤シゲアキの中の凡人ではなくてただのうだつの上がらない売れない若手俳優モドキだし、白木蓮吾は加藤シゲアキの中の芸能人じゃなくてただのカリスマ芸能人で、だから2人は分かり合えない。一体化できない。

監督のお話などをそれほど読んでいないので見当違いの可能性もなくはないが、すくなくとも私が映画に対して『別物感』とでも言うべき感覚を抱いたのは主にこれが原因だった。で、私が映画に怒っているのもこれが大きいと思う。改変が多いのは言うまでもないが、「加藤シゲアキをそぎ落とす」「2人を分かり合えない他人にする」の2点を目的として手が加えられているので、その改変が、なんというかいちいちむかつく(笑) 私の愛したりばちゃんと私の愛したごっちと私の愛したサリーが画面にいない。木本に関しては愛した記憶ないやごめんね。これから野性時代読んで愛する予定なのごめんね。

小説『ピンクとグレー』に込められた加藤成亮の情念、過去、鬱屈、希望、そういうものが大体取っ払われているように感じた人も少なくないと思う。映画はそれを捨ててしまった。もっと大きな捉え方で言うと、映画はこれらの改変によって『ピンクとグレー』が備えていた特殊性と普遍性を捨て去った。

 

 

・小説『ピンクとグレー』――分身、通過儀礼、自我の統合と確立

特殊性と普遍性についての解説の前に、私にとっての小説『ピンクとグレー』の話を少し。小説『ピンクとグレー』は、加藤成亮にしか書けなかった小説で、けれど誰にでも書ける小説だ。なぜなら『ピンクとグレー』は加藤成亮の分身だから。分身だから加藤成亮にしか書けなかったし、分身だから誰にでも書ける。完全に個人的な見解だが、プロの小説家と趣味の字書きを隔てる最大の壁は『自分ではない人物を描けるか』『自分の分身ではない小説を書けるか』だと常々思っている。そして、この意味で言うと『ピンクとグレー』はプロが書いた小説ではないとも思う。ここら辺わりとデリケートで解釈は様々あるけれど、私はそう思っている(強調)。フォローしている方が作家性の話題でおっしゃっていた、『生きているだけでたまる創作ボーナス』という表現が一番しっくりくるので使わせてもらうが、ピングレはまさにこの『ボーナス』で構築された物語だ。ジャニーズになって、よくわかんないけどなんでか前の方で踊る立ち位置を手に入れて、でも何もかもは上手くいかなくて、デビューはしたけど全然思い通りにならなくて、上手に生きれていない気がしていた加藤さん。幼少期の引っ越しで思ったこととか、売れる人と売れない人の違いが分からないのに差がとてつもなく開いて行ったり、友人の活躍が嬉しいのに喜べなかったり、そういうこと全部。どうすれば上手に生きられるんだろうってとにかくもがいてた人が書く、とにかくもがいてる人たちの話が『ピンクとグレー』だった。自分の人生を振り返って、悩んだこととか楽しかったこととかを題材にして自分を主人公にすれば、誰でも一冊は小説が書ける。ピングレはそういう世の中にあふれる分身の一つだ。上手に生きられなくて息苦しさに喘いでいた若者がどうにかこうにか自分と対峙して、折り合いをつけて立ち上がる話。

そして小説『ピンクとグレー』を語る上で欠かせないのが通過儀礼という概念だ。りばちゃんにとってごっちの死とそれにまつわる一連の出来事、そして小説の執筆は、河鳥大として必要な儀礼だった。りばちゃんが河鳥大になるために、この世界で息をする人間になるために。友達の死体を綺麗にして、彼の最期を作り上げて、彼の唯一無二の語り部になって、そして彼と一体化する。パンフレットで監督が小説ごちりばを「成り代わる」と表現していたが、成り代わるというよりは『成る』、もっと言えば『一つになる』が一番近いと思った。この過程を経て彼はようやく本当の意味で『河鳥大に成る』ことができたのだ。

りばちゃんにとってごっちの死が通過儀礼だったのと同じように、加藤成亮にとってもごっちとりばちゃんは通過儀礼だった。この小説が書かれたのは2011年3月。上手に息ができなくてもがいていた、いや、もがき方さえ分からずに暗闇の中途方に暮れていた加藤さんが見つけた起死回生の一手が小説を書くことだった。壊れてゆきつつある自分のグループをどうにか守りたくて書いたこの作品は、結果的に当初の目的を果たすことはできなかった。「俺にも存在意義を」「俺がいてよかったと思わせられるような『何か』を」という思いは願い通りの形では報われなかったけれど、けれど加藤成亮が『加藤シゲアキに成る』ために決定的な役割を果たしてくれた。自分の分身2人を小説という形にすることで、自分の中のせめぎあう自我を統合し確立するという意味でも、小説家という肩書を手に入れ喉から手が出るほど欲しかった『何か』をついに見つけるという意味でも、『ピンクとグレー』という通過儀礼は決定的な役割を果たした。

だからこそ私は『ピンクとグレー』が愛おしかった。りばちゃんが、ごっちが、サリーが愛おしかった。加藤さんがやっと見つけた一筋の希望の光であるという意味でも、もしかしてNEWSはもう活動しないんじゃないかと思っていた時期に発表された仕事という意味でも並々ならぬ思い入れがある。その登場人物であるごっちやりばちゃんにも、本当に言葉では語りつくせないくらいの思い入れがあるのだ。青臭くてやりきれなくて閉塞感と有り余るやり場のない生命力に満ちた登場人物が好きだ。それは加藤さんをそこに重ねて見ていたからでもあるし、重ねて見てしまうほど圧倒的なリアリティに魅せられたからでもある。ごっちもりばちゃんもそこらへんにいそうなところが好きだった。2人の送る数奇な人生が好きだった。彼ら2人は、私と同じように息をして、笑って、何かを愛して生きている人間だった。私は、ごっちとりばちゃんが大好きだ。加藤さんと魂を分けた存在である河田大貴と鈴木真吾が、本当に本当に大好きだ。

 

 

・映画が捨てた普遍性と特殊性

映画が捨てた特殊性は、そのままずばり『加藤成亮が書いた小説であるという点』だ。これは捨てたというかむしろ維持する方が困難だし、さらに言えば維持する意味もあまりなかったと思う。あのとき、あの状況だから書けた、多分今の加藤さんにはもう書けない作品が『ピンクとグレー』だし、その種々の状況を映画に持ち込むのは不可能だ。強いて言えば、加藤さんを主演にしていればまた話は変わったかなと思う。あの温度と湿度をそのまま再現する方法はそれくらいしかないし、でもそうすると「世界が閉じ過ぎ*1」だなあと思う。で、その結果、温度も世界観も少しずらして加藤成亮をそぎ落とす方向に走ってああなったのかなあと解釈している。やり過ぎなのかそうでないのか何なのかなんだかもうよく分からないけれど『テーマの描き方を235°くらいひねったら必要になる改変』『脱・加藤成亮のために要請された改変』が大半だと思うので、つまりは大体なるようになっただけだと思うので不可抗力なのかなと。何もかもを好意的に受け止められたと言ったらウソになるけどさ。

ただ、普遍性に関してはもう少し何とかならなかったのかなと思わないでもない。加藤さんの魂を分けた存在だった小説ごっちと小説りばちゃんは血の通う人間だった。その人生の軌跡もどこかで起こっていそうなもので、アイドルを好きな人はもちろん、一度でも挫折や懊悩を経験した人ならだれでも心の隅をつつかれるような、そんな普遍性が小説にはあった。で。

 

 

で、ですよ。

 

 

映画りばちゃん、馬鹿過ぎじゃない????

 

 

IQ下げの必要については分かる。この映画に関しては商業的な成功が筆頭意義だとも思う。だけども、本当にりばちゃんが馬鹿なのだ。悲しいくらい馬鹿なのだ。何が悲しいって、馬鹿過ぎてもはやりばちゃんがのことがよく分からないくらい馬鹿なのだ。小説みたいな、ほんの一つ何かが違えばごっちの立場に立てたようなりばちゃんはべつに望んでないけど、せめてそこらへんにいそうな凡人に仕立て上げてほしかった。特に菅田りばちゃんは何考えてんのかよくわからないシーンが結構あった。

普通友人の家で友人が飲み物取り行ってる隙に女の子は襲わないでしょーとか。あとこれは好みの問題なのかもしれないけど、裕翔ごっちと菅田りばちゃんの別離のシーン、夏帆サリーを襲う必要はあったんだろうか。そこは抱き着いて泣くくらいの方が小者感が出たような気がするし、何よりあれでりばちゃんとサリーが付き合うのは不可解過ぎた。もうだめだサリーのこともわかんない。付き合うか?あの流れでなぜ付き合うんだ好きになられたら好きになっちゃうのか?そいつレイプ魔だぞほんとにいいのかお前IQ30か??エロ同人か???(エロ同人への圧倒的な偏見)

そう、サリー。「俺といるべきは君じゃない」って言ってくるような男に「私といるべきもあなたじゃない」って言えた賢くてかっこよくて素敵なサリーが、IQ下がるどころかもう別人。名前が同じだけの別人。まあこれに関してはしっかり納得はしてるんだけど、やっぱり残念なものは残念。あと、わかりやすさのためには残しようがなかっただろうけれど、幼少期は表に立つタイプだったりばちゃん、少し不思議で言葉にするのが不得意なごっち、互いが互いの兄であり弟だったごっちとりばちゃんの姿が映像化される機会がなくなったのは少し悲しい。

 

 

・映画が得たもの――普遍性

映画はこうして普遍性を失った。代わりに得たものがある。普遍性だ。

 

(笑)

 

世界の片隅に転がっていそうな、似ていたはずなのにひょんなことから道をたがってしまった2人はいなくなった。残されたのは、カリスマ性でも才能でも圧倒的に差のある、住む世界の違う2人だ。あーーーいそう。こっちも世界の片隅にいそう。舞台俳優からのし上がってきた人の過去とかにいかにもいそう。そして、悲しいことに実際世界は割と優しくないし結構こんな風に回っている。登場人物にいやなやつが追加されたのも現実に即している。小説では小出水社長も赤城さんも香凛も皆『いい人』だ。でも映画では違う。小出水さんはりばちゃんに現実を突きつける役割を担っているし、香凛の魅力もよくわからない。(個人的にはもっと特徴的で説得力のある半端ない美人を使ってほしかった…)

菅田りばちゃん、馬鹿だけど、わからなくもない。自分より圧倒的にすごい人がすぐそばにいて、そいつのおまけみたいな人生で、好きな子の気持ちも持ってかれるし主役はいつも向こうだし、なんなら仕事までごっちありきのものばっかで、しんどいし苦しいしどうすればいいのか全然わかんないし、だからもう食堂で牛丼食べることくらいしかできることなんてないのだ。自分はアイツには勝てないんだ、って認めるのはすごくしんどい。せめて、アイツに出来ない何かが一つでもあればまだいいけど、映画りばちゃんにはなんにもない。映画ごっちに勝てるところがひとっつもない。

りばちゃんとごっちの対比として残酷なのが、映画では白木蓮吾の死をもってしても河鳥大は『あちら側の人間』にはなれないところだ。小説では丁寧に丁寧に2人の絆が描かれていて、ごっちに口から(口っていうか遺書だけど)「僕よりも有名になってね」「りばちゃんなら大丈夫」と、それから一体化の過程でも「りばちゃんは僕のヒーロー」「彼はもっと輝くべき人間」「僕を存分に利用してでも僕の隣に並んでくれるのを待っていた」と描写される。2人はほんの少し歯車が狂ってしまっただけ、ほんの少しの違いで大きな違いが出来てしまっただけだ。だから、きっかけさえあればりばちゃんもごっちになれる。映画ではそうじゃない。「お前、白木蓮吾がらみのやつ断ったら仕事なくなるよ」/「蓮吾はもっと努力してたよ」「蓮吾じゃないですから……俺は白木蓮吾じゃないですから」「そうだよ、全然違う」などの台詞や、成瀬とサリーのやり取りなどから、りばちゃんは『向こう側』にはいけないことが分かる。白木蓮吾の死、という十二分に大きなきっかけがあってもりばちゃんは駄目なのだ。ここはとても強烈に映画と小説を別物にしているし、普遍性を生んでいると思う。

普遍性っていうのは、ありふれてるってことじゃない。あるかもしれない、あったかもしれないって誰かに思わせる力だ、誰かの心に刺さる鋭さだ。そんなもん必要ない創作物もあるけど、あった方がいい創作物もある。それは世界観とか状況設定とか登場人物次第で、『ピンクとグレー』に関しては完全にあった方がいい側の創作物だと思う。だから、これでよかった。どこかにあるかもしれないし、いつかあったかもしれないと思えるような挫折と再生の物語になっているから。

 

 

・小説と映画が共通して抱える主題

小説と映画は別物だ。それはもう完膚なきまでに。

でも、実は同じものを違うやり方で描いてるだけなのではないかと思う。ごっちとりばちゃんの人柄や関係性に注目していると、まるで入れ物だけそのままにコーヒーが入っていたマグカップにウィルキンソンの辛口ジンジャーエールを注いだみたいだけど*2、どちらかというと親子丼をいったん下げて鮭とイクラで親子丼亜種を作りましたって感じだなと思う。

小説と映画は共に、自我の確立と自己の統合が最大の見せ場になっている。ここで注意しなくてはならないのは、映画と小説では『確立』も『統合』も同じ形では成されえないということだ。

小説では、ごっちとりばちゃんは誰よりも分かり合い認め合いお互いがお互いを規定できるほど深い仲だった。ごっちは自分の最期をりばちゃんに託して、『白木蓮吾らしさ』を丸ごとりばちゃんに委ねてしまう。また、りばちゃんもそれを引き受ける。そして映画撮影に入ると2人はどんどん同化していく。ごっちとりばちゃんは、もともとは同じ魂を分かち合い世界中で互いだけの特別な関係を築いていたのに、別離によってお互いに自分を見失う。そして一つになることで『自分』に成る。お互いを本当に理解できるのはお互いだけだった2人、『表人格』と『内部人格』が統合され、『世界に共にある』ようになることがゴールなので小説はそこで終わる

一方映画では、2人の自我の確立は小説とは真逆の形をとる。こちらの2人は決して分かり合ってなどおらず、根本的に違う人間だ。だから、映画においてはごっちがりばちゃんを想うこともりばちゃんがごっちを追いかけることも、自我を揺さぶる要因にしかならない。お互いがお互いを意識することはむしろ『自分』をぐらつかせてしまう。だから映画の2人は同化をゴールにすることができない。2人が自己を確立するためには、2人は互いを自分から切り離さなければならない。映画では、りばちゃんがごっちを理解できないことを悟りライターをぶん投げて終わるが、あれが映画における『自己の確立』なのではないかと私は思う。りばちゃんの表人格と内部人格はりばちゃんの中にだけあって、ごっちもそれは同じで、決別によって一人前になる。俺たちはべつの人間だということ、理解しあえないということを理解することこそが『統合』になる。

そう考えると、小説と映画のラストシーンは全然違うけれど、最後の瞬間に描いているものは実は同じなのではないだろうか。

 

この主題の現れ方の変化に絡んで、ごっちとサリーとりばちゃんの関係性の変化もここに帰着する。小説ではりばちゃんとサリーがごっちを『こちら側』に引っ張る役割を果たしている。2人ともごっちにとっては愛おしくて離してはいけなかったもので、両方を失ってごっちの中には『表人格』しかいなくなってしまう。映画ではこの構図はがらりと変わって、ごっちとサリーが『向こう側』と『こちら側』からりばちゃんを引っ張り合う。

ここから完全に超自己流解釈になるので真偽は分からないが、事務所移籍と引っ越しで衝突した挙句サリーのもとに転がり込んだりばちゃんをみて、多分ごっちはあきらめたのだ。自分が引っ張ってもりばちゃんは『向こう』(ごっちにとっては『こっち』だが)には来ないのだと、そう悟った。だから同窓会の後、飲んだくれながらごっちは言う――「サリーのことは、大事にしてやってよ」

あれは、『自分のことをかつて好きだった大事な幼馴染』を大事にしてほしかったのではなくて、『りばちゃんが選んだ場所』を大事にしてほしかったんじゃないだろうか。でもごっちは意地悪を一つした。意地悪な賭けを一つ。自分の死をりばちゃんに看取らせて、自分のことを小説にしてほしいと頼んで、りばちゃんに『きっかけ』を与えた。捨て身の賭けだ。りばちゃんを『向こう側』に呼べるかもしれない最後のチャンスだった。結局それは失敗に終わったようだけれど、きっとごっちは本当は、りばちゃんにも『向こう側の人』になってほしかった。『表』も『内部』もきちんと備えた人間として、自分の隣に立ってほしかった。

 

さてこの賭けは、ごっちにとってどの程度重要だったのだろう。映画をそのまま素直に受け取ると、ごっちの死はただの姉の後追いなのでまあついでに過ぎない。ついでだけどどうでもよくはなくて、きっとごっちはりばちゃんに幸せになってほしかった。幸せを望んではいたけれど、違う人間なのは分かっていたんだろう。

最期のシーン、ごっちが首を吊った場所でりばちゃんも首を吊ろうとするシーン。あそこがどこなのか、現実なのか何なのか話題になったが、私はあれは夢じゃないかと思いたい。そうじゃないと鍵の整合性が~とかそういう話ではなく、映画『ピンクとグレー』は分かり合えない通じ合えない2人の話だから、最後のあの邂逅もりばちゃんの中だけで完結していてほしいなあと思うからだ。りばちゃんは『りばちゃんの中のごっち』と対話して泣いて文句言って色々わかってりばちゃんに成る。『河鳥大』になって『河田大貴』になってりばちゃんになる。映画のりばちゃんは、芸能人を辞めてしまうかもしれないし続けるかもしれないしサリーと別れるかもしれない。でも大丈夫なのだ。りばちゃんは『絶望的に素晴らしいこの世界の真ん中』に辿りつくから。『果てのない世界』ならこれから見る。自分の目で、自分だけの目で。

 

 

 

・映画が再生産したもの――めっためたにしてあげる♪【してやんよ】

さて、映画『ピンクとグレー』はNEWSの進退とは関係ないし、あの湿度もあの熱量もない。ドライに描かれた青年のアイデンティティストーリーだ。小説が持ちえたあの特殊性、あの頃の加藤成亮があの状況で書いたという事実はどう頑張っても再現不能だ。

しかし再現されている。いや、生みなおされている、と思う。

先に述べたように、私が映画を観て真っ先に浮かんだ感想は「こわい」だった。微妙な改変が連ねられた前半から、「62分後」を境に裕翔りばちゃんと成瀬、岸井サリー、三神を中心にほとんど二次創作に近い展開が始める。これがメタい。強烈にメタい。映画初主演を果たしたりばちゃんに対してごくごく友好的な態度をとる成瀬。成瀬の方が先輩だけれど、成瀬はりばちゃん役、りばちゃんがごっち役ということもあって成瀬はりばちゃんを尊敬し、互いに高め――あわない。全然そういうことしない。成瀬は映画『ピンクとグレー』をクソだと思っているし、りばちゃんが芸能界に残れるわけがないと思っているし、ごっちを追いかけるりばちゃんを馬鹿だと思っている。ほ、本当に菅田くん裕翔くんのこと好き?大丈夫?よくわかんないおっぱいがいっぱいの変な店連れてったりしてない?ていうか、ていうかていうか行定監督「くそ原作押し付けられたわー」とか思ってない?大丈夫??

なんだかくらくらする。役者の役の役者さんが、インタビューに答えているという演技をしている。芝居をしているという芝居をしていて、虚構の中で虚構を演じている。『本当』があるのか不安になる。三神は「ホントウのあたしとか誰が決めんの?」とか言ってるしパンツ穿くの超スムーズだしりばちゃんは駄目駄目だし。

そう、りばちゃん駄目駄目。びっくりするほど駄目。りばちゃんとごっちはどっちも加藤成亮の一部を反映したものに過ぎない。どっちも加藤さんの一部だしどっちも加藤さんの全部じゃない。わかっている。でもどうしても、誰か一人に加藤さんを投影するならそれはりばちゃんだ。それがもう、ほんと駄目。全然芸能界で生き残れなさそう。小説の『その後』をこんな風に創作してみせるなんて加藤さんへの挑発にしか見えない。お前ほんとにやってけんのかよって、お前のオハナシ綺麗事過ぎんじゃねえのって言われてる気になった。試写会が終わった瞬間に観客が一斉に加藤さんをみたのも納得だ。映画の中に映画が入っているわけだけど、現実ももしかしたら何かの中に入ってるんじゃないかとか、あれはこれを暗示してるんじゃないだろうかとか、色々ぐるぐる考え込んでしまった。たとえば渋谷駅のピングレジャック。小説の中のいくつかのシーンが柱に貼られてて話題になったアレ。でもあれ、映画の宣伝なのにあそこに抜粋されてた台詞はほとんど映画に出てこない。だからもしかして河鳥大の『ピンクとグレー』の中の台詞として貼られてたんじゃないかとか、なんかそういうあれこれ。

 

ぐるぐる考え込んでたら、急にすとんと「裕翔くんでよかった」と思った。

 

私にとって映画『ピンクとグレー』は、中島裕翔が主演したことで完成した。小説『ピンクとグレー』が作者が加藤シゲアキであること抜きには語れないのと同じくらい、映画をこうするなら主演は裕翔くんでなければならなかった。映画では、柳楽ごっちと裕翔りばちゃんは分かり合えない。それは仕方のないことで納得はしているし、473°ひねってあったって主題が描かれてないわけじゃない。普遍性を捨てた代わりに普遍性が加えられて、特殊性をそぎ落とした代わりに裕翔くんがいる。裕翔君にとってこの映画が、中島裕翔をつくるための一片になっていたらいいと思う。演じながら、自分の中のりばちゃんと自分の中のごっちと向き合っていてほしいと思う。私はNEWS単体のファンでしかないから、Hey! Say! JUMPのことは深くは知らない。彼らの栄光も挫折も軌跡もうすぼんやりとしか知らない。でも少しだけ知っている。加藤さんと裕翔くんは、少し似ている。目立つところにいて、後ろに下げられて、武器を探してた。置いて行かれてもがいていた過去があることを、ほんの少しだけど知っている。

小説『ピンクとグレー』でごっちとりばちゃんを書いたことが加藤さんにとって加藤シゲアキに成るための通過儀礼だったのと同じように、映画『ピンクとグレー』でごっちとりばちゃんを演じたことが裕翔くんにとって中島裕翔に成るためのに重要な一コマになっていてほしい。「小説処女作『ピンクとグレー』」が加藤シゲアキの見つけた『何か』として道を切り拓かせてくれたのと同じように、「映画初主演作『ピンクとグレー』」が中島裕翔が自分のあり方を確立していく一助になっていてほしい。いつかそんな日が来たら、そのときこそ私は心の底から映画『ピンクとグレー』の存在を喜べると思う。

映画『ピンクとグレー』の存在そのものが、小説『ピンクとグレー』が加藤シゲアキに対して果たした役割を中島裕翔に対して果たしているのでは?って気づいた瞬間感動したけれど、あまりにも作者が生きすぎているなあとも思うので考察というより解釈です。でも裕翔くんでよかった。裕翔くん以外のジャニーズの誰にもこの再生産はできなかったと思う。ただ、これを監督や事務所が狙っていたということはまずないと思うので副産物ですね完全に。

 

 

・雑感

映画に怒ってる人の言葉をみて「わかる~~」ってなって映画を褒める人の言葉をみても「わかる~~~」ってなって、結局自分どう思ってんだろ…って整理するのに時間がかかったけど、結局「映画を正解だと思うけど、映画に怒ってるけど、映画を肯定する」以上にシンプルな言語化はできない気がする。

出来ないついでに少しだけ、もやっとポイントというかなんか細かいことあれこれ。ちょっと批判的な要素も入ってるので苦手な方はこの項読み飛ばしてくださいな。

ごっちと唯さんの関係がああなってたのは割とびっくりしたしどちらかといえばそういうんじゃない方が好みだったかな~。何も言わずに「姉ちゃんと同じ日に死ぬことにしてた」とか「姉ちゃんと同じように死ぬって決めてた」くらいしか言わずに突き放されたかった。香凛とサリー、デュポンとラブホのライターのくだり大好きだったから、サリーも香凛もだいぶキャラ薄くなっててびっくり。ただ、私は小説とだいぶ変わってサリーとごっちがりばちゃんを引っ張り合う図も嫌いじゃなかったです。しかしそれはともかくやっぱり一回目のレイプ的なあれそれは理解不能だった。その前から「俺もうごっちごちだよ」だったにしてもっすよ。にしても襲わねーだろ。ていうかあれを赤裸々に本に書いた裕翔りばちゃんの勇気がすげえよ。露出狂かよその度胸があるなら芸能界やってけるよ。知らんけど。あとファレノプシスが最初から全英語詞なの、小説と映画でごちりばの関係性が違う感じがしてよかった。

文句っていうかこの映画化に際して残念なのは、湿度高めでモノローグ多めでちゃんと友達の死体を綺麗にするバージョンの映像化の機会がおそらくは失われたのは惜しい。まあどちらかしか選べないし、こちらが正解だったとは思うけど、もっとじめじめした映像化もみたかったなあ。イメージは岩井俊二さん的な。映画詳しくないから『スワロウテイル』をぼんやり見たことがあるだけなんだけど、イメージあんな感じの雰囲気で撮ったやつも観たかった~。

あとこれだけ言いたいんだけど、裕翔くん顔小さすぎ。誰と並んでも顔が小さくてここまでスタイルがいいと逆に仕事の幅が狭まったりしないのかと意味不明な心配を始めるレベルで小さかった。スタイルから既に凡人のそれではない。

 

 

 

・最後に/僕をつくるのは僕だ

2回目の鑑賞時は考える余裕がそれなりにあったので、あれこれ思いを巡らせながら観ることができた。どのシーンだったか忘れたけど、急にふと「裕翔って、『余裕で翔ぶ』って書くんだなあ」と思った。そんな名前の子がこんな映画をやって、「主人公に似ているね」って、なんなら原作が発表されたときから「この主人公裕翔くんっぽいね」と言われていたらしいの、なんだかとても皮肉なような胸アツなような。ごっちに似てるねって言われてた方は涼しいって字が入ってるんだなあ熱い人なのになあとも思った。

『向こう側』がどんなところなのか、多分私は一生知ることがないし、映画と小説どちらが『ホントウ』に近いのかも永遠にわからないんだろう。けど、余裕じゃなくても涼し気じゃなくても、とにかく翔べたらきっとそれでいいんだと思う。これが僕の羽だよって、いつか誇らしげに広げられるように頑張るしかないんだなあ。そう、目の前のこと、できることを頑張るしかない。

 

 

 

やるしかない、やらないなんてないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

どうかこの映画をたくさんの人が観てくれますように。

*1:何かの折の加藤さん本人の発言

*2:ちなみにこのたとえはフォロワーさんがしていて面白いなと思ったものである

他Gの印象後輩編

来春もしくは下半期の自分のための覚え書き
Twitterに書いたやつの改訂増補版
誹謗中傷の意図は全くない



Hey! Say! JUMPの印象
薮:帝王とゴボウ兼任の美声マン。JUMPの要。
光:オードリー春日の想い人。万能なポンコツ。
髙:田舎のギャル。声かっこいい。
有:コロコロの主人公だが裏の顔は爆モテ成人男性
伊:間違えて高田純次型AIを搭載してしまったラブドール
山:外見の美しさに内面を追いつかせた努力の人。アイメイク濃い。
知:ポケモンに例えるとクチート。小顔で小悪魔だけど小賢しくはない。賢しい。
圭:英国紳士と見せかけて英国天使。
裕:美術室から逃げてきた石膏像。ものすごく恵まれて見えるけど本当に欲しいものを掴むのにはものすごい努力を要するタイプ。


Sexy Zoneの印象

健:女子高生を宿主にした寄生獣が乗っ取りかえされてアイドルをやらされてる、って言われたらギリギリ信じられるレベルの奇才の持ち主。人類の特殊サンプルとしてキャトルミューティられる日も近い。
風:歌がめっちゃ上手くてめっちゃ仲間思いの餅。あざらし。エンダッシャ
勝:ツッコミを一手に担う奇人
聡:1秒ごとに綺麗になっていくバカ。Jweb上で『松島聡の先生、あのね』を書き綴っている。ギャーァアア。
マ:美巨幼女。鳴き声:聡ちゃん


A.B.C-Zの印象

五:五関様。グループ内に信者を擁するスキルフルリトルモンスター
戸:社会的生物としてのヤバさを顔でカバーしている奇行子。
塚:狂気にみちた金髪筋肉天使。手越、ダメ絶対
河:世界一美しい馬。元祖ジャニオタジャニーズ。
橋:A.B.C-Zは子育て本を出すべきだという事実の生きた証。大型犬の見本。優しくって、少しバカ。


Kis-My-Ft2の印象
北:カッコつけの天才。自分に色をつけるのがめちゃくちゃ上手くてポスト中居を狙えるリス。
千:ダンスの神に愛されたゴリラ。舞祭組トップのスキルメン。
宮:カレは玉森を愛しすぎてる。結婚おめでとうございますオタジャニーズ界をリードしてください。
横:包丁持ってる時と動物触ってる時はモテオーラを発するお母さん。八重歯が好きでした。あと加藤さんにナナくれた。
藤:カッコつけの天才その2。藤北シンメとしてカルト的人気を誇るが横尾さんを愛しすぎている。Jwebで3回に5回の割合で「わた」という単語を発する呪いに掛けられている。
玉:絵に書いたようなツンデレ。自覚ないまま巨大ロボに乗らざるを得なくなるタイプの主人公。
二:ニッカちゃんだよー↑↑キスマイの中で1番印象薄いけど1番底が深い沼。社会常識的な意味でバカ。



ジャニーズWESTの印象

淳:セレブリティたらこ唇。今年中に彼女を作るらしい。なんかドMっぽい。
濱:小瀧さんの飼い主。一見縁の下の力持ちタイプに見えるがガンガン表立ってWESTを支えている。
桐:そこら辺にいたら誰もが恋するはずなのに何故かテレビの中にいる、親しみやすさ天元突破の憎い人。でも「BABY BABY MY V.I.P シャンパンゴールドに染まれ」とか平気で歌う。
重:ゲス岡クソガ毅。特色はないのに説得力はあるセンター。
神:タカヒサマスダみが半端ないオシャレ番長。スキルはピカイチ。よく韓流みたいな髪色に挑戦する。
流:顔が美しいバカ。バカで天然。右手と左手が連動する。
望:ビックベイビー。加藤シゲアキっぽい顔だが甘いセリフを言う能力に関しては完全に彼を凌駕した才能を発揮する。濱田さんを見るとじゃれつかずにはいられない病に罹っている。


以上!
下半期に私の印象がどれくらい変わってるか楽しみ〜